第1章#01 平穏な日常


 ――二年後 日本


「兄さん、七時には朝食できるからそれまでには戻ってきてよ」

「大丈夫、軽くご近所を一週するだけだから時間は掛からないよ」


 朝六時、ジャージ姿の一人の青年が自宅の玄関を出てまだ朝もやの残る町内を走り出した。

 彼の名は八神晴人(やがみはると)。

 日本海側のN県に住む地元の大学生かつ合気道道場の息子で、見た感じ何処にでもいそうな21歳の青年である。

 家族は母親の有里子(ゆりこ)と妹の彩花(あやか)の三人暮らし。

 道場の子だけあって日頃から鍛錬を欠かさず、この日は朝のランニングに精を出していた。


「ハァ、ハァ、(歩道の雪も大分少なくなってきたな)」


 この地方ではまだ春と呼ぶには早い三月上旬、通る車も少なく雪もまだ少し残る道を白い息を吐きながら軽快に走る。

 走り出してしばらくすると県の一宮とまで言われている神社に差し掛かるが、偶然にも神社入り口前の横断歩道を渡っている老猫が軽トラに轢かれそうな状況に遭遇する。

 猫の動きは悪く車にも気づいてはいない様子で、軽トラの運転手も早朝なせいか少しボンヤリしている風だった。


「あっ、アイツ!」


 晴人は即座に全力で走り出すと猫を抱きかかえ転がりながら横断歩道の向こう側へたどり着き間一髪で猫を救出した。軽トラはまるで気づいてなかったのかそのまま走り去ってしまった。

 晴人は運動神経がとても良く俊敏な動きが優れており、日頃から合気道を習いながらも中学・高校では空手部に在籍し全国大会で活躍する程であった。なので身体能力には自信がある。

 ただその反面、慎重さに欠ける行動が少し見受けられることがあった。


「……危なかったな。お前はもう歳なんだから神社の外には出ない方がいいぞ」


 助けた猫を抱きかかえながら立ち上がり優しく話しかけると神社内に住み着いているであろう老猫は「ミャア」とのんきに返事をするだけだった。


「……晴人君、何やってるのよ危ないでしょ!」


 そんな晴人の背後から一人の女性が慌てて駆け寄り少し荒い息で声をかけてきた。振り返って見ると二年前この場所の近くで晴人に命を救われたレイカの姿だった。


「ああ、レイカさんおはようございます。今日も早いですね」

「おはようじゃないわよ、見てて冷や汗が出てきたわよ!」


 彼女はあの日、転送魔術によって異世界から逃れ、それ以降は八神家の世話となり色々とこの日本で住むように手配をしてもらった。

 言葉が通じることが幸いし、文字の違いによる問題などもなんとかクリアして今では国から居住権を得ている。

 そして一年前から近くのアパートで一人暮らしを始めて八神家ともすっかり家族同然の付き合いになり、天気の良い朝はこうして散歩をしてランニング中の晴人と時々出くわしては話しをしたりしている。

 ただ今日に限ってはこんな挨拶になってしまった。


「日頃から可愛がっている猫だからどうしても助けたくて」

「いくら運動神経が良いからと言って皆が心配するような行動はダメよ」


 猫を神社の方向へ放してやるとまるでお礼を言うかのように「ミャー」と振り返りながら鳴き、きびすを返して境内のほうへテクテクと歩いて行った。

 「もう神社から出るなよ」と言葉をかけてそれを満足そうに眺めている晴人の姿にレイカは少しため息をつく。

 この世界に来てから晴人に対してはただの恩人としてではなく段々それ以上の好意を寄せるようになった。ただそれは恋愛という感情ではなく弟を見ているような気分といった方がよかった。

 姉のような立場としては晴人の人の良い性格を好ましく見てはいるが、それが過ぎた無茶な行動はたしなめる必要がある。


「明後日は彩花ちゃん東京の大学行くために上京するんでしょ、もしここで大怪我なんかしてたら行けなくなってたわよ。猫ちゃんの命も大事だけど自分の命を第一に考えなさい」

「気を付けます。今後は無茶しませんから」

「まったく、晴人君どこか危なっかしい所があるわよね」

「でも、もし俺がトラックに轢かれて死んだりしたら生まれ変わって異世界に行ってたかも」

「え?それって何かの物語の展開かなにか?」

「異世界転生モノなんですけど聞いたことないですか?」

「そういえば最近彩花ちゃんが『兄さんがヘンな小説読むようになった』って呆れてたけどそれのこと?」

「死んだ主人公が異世界に生まれ変わって活躍するストーリーで、読むと意外と面白いです」

「ああ、そういえばそれらしいの少し目を通したことあるけどアレ何?いろんな特殊能力を与えられた主人公が何もかも上手くいって大活躍する話でしょ。失敗もせずトントン拍子に話が進んで皆からチヤホヤされる内容よね。殆ど幻想ね、どこの世界でもそんな都合のいい夢のような人生や場所なんてあり得ないわ」


 世間はそんなに甘くない事を断言するレイカに晴人は苦笑した。


「ま、まあラノベの話題はいいや。そんなことよりも話は変わるけどレイカさん、今日の午後時間空いてます?」

「今日は仕事も休みだから空いてるけど?」

「家族三人駅近くで買い物に行くんです。もし良かったらレイカさんもどうかなって」

「誘ってくれてありがとう、お言葉に甘えるわ。それに私も彩花ちゃんに入学祝いの贈り物したいし」

「ありがとうレイカさん、それを知ったら彩花も喜ぶと思います。じゃあ午後一時に家に来てください。母さんが車出すから一緒に乗っていきましょう」


 そう言うと晴人はふたたびランニングを再開し遠くへ去って行く。

 去って行くその姿に少し笑みを浮かべるレイカの表情には過去の不幸はもう感じられない。そして今は周りの人に恵まれ、普通に生きていることの喜びを感じている。


「異世界か。姉様、私にとって今いるこの平和な場所はまさに夢のような世界なのかもしれません」


 そうつぶやきながら遠く空を眺る姿には少し悲しい表情も混じっていた。

 いつしか朝もやはなくなり空は澄み渡るほどの晴天となっていた。




「母さんごめん、少し遅くなったかな?」

「いいわよこのくらい。あの事はレイカさんに連絡した?」

「会ったから話しといたよ、後でメール送ろうと思ってたから丁度良かった。一緒に行くって」

「それは良かったわ」


 帰宅した晴人は丁度仏壇を前に正座し線香を上げて両手を合わせている母親に声をかける。すでに朝食の準備が出来ていて晴人が帰ってくるのを待っている状態だったのだろう。

 晴人と彩花も仏壇に線香を上げて手を合わせると、朝食へ付こうと隣部屋の食卓に移るため三人とも立ち上がる。

 だがそのときの彩花の表情が少し暗い。見ると居間のテレビから朝のニュースが流れているのを眺めている。

 どうもこの町の近辺で事件が起こったようで不安を感じているようだった。


「アヤ、食べるからつけっぱなしのテレビ消しておきなさい」

「……ねえ、また子供が行方不明だって報道してる。それもこの町の近くで」

「え?またか?」

「最近多くなってきたわよね。町内でも小学生や園児の登下校は親同伴になってきているんだって」

「変質者かな?私遭遇したくないなー。東京もこんな事が多いのかなー」

「アヤ、あんたは容姿が良い方だからストーカーには気を付けた方がいいわね」

「え?そう?」


 母親からのその言葉にまんざらでもないのか、彩花は少し嬉しそうな笑顔になりながらリモコンでテレビをスイッチを切った。

 そう言われるだけあって彩花の容姿は同年代の中でも優れた方で、気にしていた男子は学校内に数人いたようだった。

 しかも学業も兄の晴人よりも成績は良く、県内の進学校で学年TOP5には常に入って学級委員までしていた程である。

 だがそれでいて高嶺の花というイメージは殆どなく、今のように少し調子に乗って笑う辺りはとっつきやすい可愛い女の子といった所か。


「おいおい、か弱い女の子ならともかく逞しい彩花なら問題ないだろ、合気道習ってるんだし襲った奴が逆にボコられるだろう。相手の方が逆に心配だ」

「私だってか弱い女の子ですっ!」


 逞しいと言われ、彩花は少し不機嫌そうに晴人の腕を軽くつねる。


「痛いなぁ、こんなことする奴のどこがか弱いんだよ」

「あんたたち遊んでないで早く食べなさい」


 お互いに軽口を叩いて遊んでいると母親が軽く注意するのがこの家のよくある光景である。こうして朝食を食べ、しばらくしてある程度食事が片付くと彩花がレイカの話題を始めた。


「ねえ、レイカさんここに来てもう二年過ぎたよね。あの時は驚いたなー、兄さんが急に外に出たかと思ったら背中に女の人をおんぶして戻ってくるんだもん」

「たまたま部屋の空気を入れ替えようと思って窓開けたら神社の方で何か青い光りが一カ所あったんだ。気になるから出て行ってみたら近くで人が倒れてるんだから驚いたよ」

「あんたが気づいてやんなきゃレイカさん多分雪で凍えて亡くなってたんじゃないの?まあ良かったわよ」

「海の向こうにあるユーラシア最北の連邦国は内戦が続くし、そりゃあ逃げ出したくもなるよな。でもさ、俺レイカさんの言ってたアルスって国を調べてみたんだけど何処にもないんだよね」

「それって日本では別の呼び方するんじゃないのー?あるいは連邦国政府から認められてないとか」

「以前に居た国の事とかもうそろそろ聞いてみてもいいかな?二年も経ってるし、表情もすっかり明るくなったしさ。近いうち俺が聞いてみるよ、色々と事情もあると思うから応えてくれる範囲でね」

「それでまだ問題を抱えているようなら私たちも出来る範囲で力になってあげましょう」


 レイカは助けられたあの日、別の世界から来たことを話していた。だが晴人を初めとした三人はきょとんとした顔で聞いていたため異世界が全く認知されていないことを理解し、隣国から逃げてきたことにしている。

 海の向こうの連邦国では近年内戦が多いことから難を逃れるため海を渡って日本へ避難する人が多く、自身もその中の一人ということにしてどうにかその場を取り繕った。

 生きていくためとはいえ世話になっている相手に嘘をつくことに心苦しさは感じてはいたが、姉に救われた命を無駄にしないためにもそれは仕方のないことだった。




 午後になりレイカが八神家にやってきた。行き先は駅近くのショッピングモールで、やや田舎じみたこの地域では一番品数がそろった人気のある場所である。


「有里子さん、今回は誘っていただいてありがとうございます」

「いいのよ、遠慮しないで乗って頂戴」


 さっそく有里子の運転で目的地まで出発する。助手席に彩花、後部座席には晴人とレイカが座り、普段から仲の良い家族の雑談が車内で自然と始まる。


「ハル、あんた就職先はどこにするの?地元が良いって言ってたけど」

「亀○かブ○ボン狙っているから四月の説明会行く予定だよ」

「あんたそんないい所狙ってたの?書類選考で落とされたりしない?」

「俺の事なんだと思ってんだよ、どっちも大学の先輩が何人もいるからそれほど高望みじゃないよ。多分……」

「何か最後声が小さいわねー」

「そういえば兄さんそのメーカーのお菓子よく食べてるよね、それが動機?」

「いいじゃないか、おいしい食べ物は人の心を豊かにするんだよ。俺は今まで沢山お世話になって豊かにさせて貰ってたから今度は提供する側に回るんだ」

「あの、その会社ってそんなに有名なの?」

「県内でも一二を争う企業でレイカさんも食べてるはずですよ。でも競争率高いから兄さんのこと採用してくれるかなー」


 和気藹々とした車中の雑談が続いたが、途中から彩花が今朝の話題をまた持ち出してきた。


「ねえ、今朝の報道で行方不明になった子供ってここら辺の子だよね」

「親御さんのことを思うと早く見つかるといいんだけどね。子供がいなくなって悲しまない親なんていないわ」

「この半月程でもう三人目か。田舎町で何か事件があるとすぐ目立つよね、今までこんな事無かったのに」

「変質者かなー。でも噂だと大人の男性でも消息不明の人がいるみたい」


 そんな話題の最中に晴人がふとレイカを見ると、表向き笑顔を作りながらも少し手が震えている事に気付いてしまった。


(もしかするとあの魔族がこの世界にも来ているんじゃ……)


 レイカの内心は転移前のあの世界が思い出されていた。

 かつて暮らしていた国が滅んでいく過程で同じようなことが頻繁にあり、それがまた繰り返されるのではないかと不安がよぎる。

 それがつい手が震える形で表に出てしまい、晴人はそんな様子を見て察したのだろう、急に話題を別方向に逸らす。


「なあ、そんな物騒な話よりも彩花は大学行ったらサークルどうすんの?」

「え?んーと、今更運動系はやりたいと思わないから文化系になるかな」

「怪しい所とか訳のわからないサークルはやめとけよ、下手をすると折角の四年間が無駄になる」

「怪しい所は何となく理解出来るけど、訳のわからないサークルって何?どんなのがあるの?」

「例えば“暇潰し研究会”とか“かくれんぼ同窓会”とかかな。他にも“駅で寝るサークル”とか“妹研究会”とかもあるぞ」

「そんな集まり本当にあるの?ていうか最後の私的に気持ち悪い……」


 晴人が上げたサークル名で車内の中になんとも言えない空気が漂い始めた。

 上記したサークルは実際にあるらしいが、他人に迷惑をかけずに当人たちが楽しければそれはそれで良いのかもしれない。


「ハル、あんたどこでそんな情報集めてくるのよ」

「俺も大学入ったときに怪しいのが近づいてきたから色々調べたんだよ、そしたら怪しさとは別に変わった集まりって結構多いんだよね」

「もう国際交流系にしようかな、就活で面接官に答え難い集まりに入ってたなんて言えないもん」


 晴人はレイカを再度見ると先ほどまでの何処か怯えていた姿はもう見られなくなっていた。

 おかしな方向へ行ってしまったとはいえ、上手く話を逸らすことは出来た。


「なんかあんたたちの話を聞いていると私の大学時代を思い出すわね、あの頃はサークルで父さんとも知り合い始めたし、就活もバブルが弾けてしばらく経っていた時期だから大変だったしで色々あったわ」

「あれ?母さんバブルの時期じゃなかったんだ。今いくつだっけ?たしかもう50代前半……」

「まだ40代中ばよ!アンタから見れば只のオバサンだけど、これでも周囲からは実年齢より10歳は若く見られて『意外にお若いお母様なんですね』って言われてるんだから。世間一般じゃまだイケてるの」

「そんなの社交辞令やお世辞に決まってるじゃない、いくら実年齢を認めたくないからって10歳は若……」

「それ以上余計なこと言ったらアンタは夕飯ナシだからね」

「ごめんなさい、もう余計なことは言いません」


 八神家において有里子は一番のボスである。ちなみに容姿は実際の年齢よりは若く見られているのは本当のことだ。

 ただ10歳は若く見られてるは流石に盛りすぎだった。いつまでも若く見られたい女心なのだろうか女性相手に年齢の話はしない方がいい。


「我が家の支配者だから頭が上がらないんです」


 運転席の支配者を指さしながら小声でレイカにつぶやく晴人と、そんなやりとりを苦笑いで見ている彩花。そんな彼らのやりとりに段々本当の笑顔になるレイカだった。


(まさかね、気にしすぎよ)


 レイカは心の中で呟くと改めて心配はいらないと自分に言い聞かせる。

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