第2話 紫花の蕾
「荒れ果てた
女生徒が教科書を読み上げる。
「ヴィシャスの祝福を受けた三姫は百合苑永年律令を発布し、それぞれの故郷に幕府を開きます。北の
藤姫の治める中の百合幕府。香睡幕府。
先の藤姫が百合天に昇ってから八年。今代の藤姫はまだ経験が浅い。
世界には男もいて女もいる。百合を尊ぶとは言ってもバランスは大切。法で優遇などしなくとも、自然と生まれる百合こそがヴィシャスの導きなのに。
藤姫を導くべき新たな大姉や花六花は何をしているのか。
「……リリア先生?」
「……」
「あの……」
「……ん、ああ。ごめんなさい。結構です」
考え事に気を取られて、区切りまで読んだ女生徒を放置してしまった。
「お加減が優れないのでは?」
「リリア先生、お休みになって下さい」
「わたくしが医務室までお連れします。保健委員ですから」
「大丈夫です。静かに」
一斉に騒ぎ出す生徒たちをたしなめると、優秀な少女たちは素直に口を閉ざし、ただ心配そうにリリアの顔を見つめる。
各地から厳しい選抜を経て紫蕾学舎に入学してきた女子たち。香睡幕府の未来を担う蕾。
この中からいずれ姉六花、大姉の役を務める者が出てくるのかもしれない。
「……いえ、皆不安に思っているようです。話しましょう」
昨今なかった藤姫様直々の御触れの公布。その噂は広まっているらしく、少女たちの顔には不安の色が見え隠れしていた。
咲く前の蕾をそんな色に染めておいて、見ないフリをするのは教育者として失格だろう。
リリアも事態を把握しているわけではないが、不安を和らげる言葉くらいはかけられる。
「花八洲の民は他者の権利と尊厳を侵さない限り、その思想の自由と生きる自由を有する。これは百合苑永年律令の第一条です」
「はい、先生」
「ここで言う民に藤姫様や姉六花は含みません。姉六花以上の幕府高官は幕府の臣。香睡幕府の為に死ぬよう命じられれば従います」
大姉や姉六花は大きな権威を持つが責任も重い。
市井の民とは違う。
「今朝、触れに出された件、聞いている人もいるでしょう。百合に挟まる男を描いた創作も罰するということです」
ですが、と。
「これは百合苑永年律令第一条に反します。百合苑永年律令は三幕府共通の法。香睡幕府の触れで変えることはできません。そう遠くないうちに撤回、破棄されるでしょう」
藤姫の勅令ともなれば影響は大きい。
急に厳しく取り締まるなどと触れを出されれば、何かもっと大きなことが起きるかもしれないと不安になるのも当然のこと。
「モブ男衆を弾圧するなどという話にはなりません。噂に惑わされぬよおうに」
「……」
「なんです? 好井桜子」
「百合に挟まるなんて汚らわしい危険思想に容赦など必要ありません。厳しく取り締まればいいんじゃないでしょうか」
起立してやや強めの語調で話す好井桜子の言葉に、他の女生徒たちも同調の息音を漏らす。
この紫蕾学舎に入学するほどの女生徒たちは、強い百合思想と選民思想を抱いている者が少なくない。
リリアもかつては似たようなものだった。
「それはつまり、百合に挟まらんとする男は悪だという認識があるからですね。桜子」
「当然です。先生は違うのですか?」
「他者の胸中を量るような質問は関心しません。ですが、私もあなたと同じように思う気持ちもあります」
「……すみませんでした」
優秀だけれどその分だけ我の強い桜子の謝罪に頷き、
「盗むことは悪いこと。騙すのは悪いこと。その認識があるから正しく生きることが美しく尊いのです」
「はい」
「ヴィシャスは百合を尊びますが、モブ男衆を滅ぼすことはありませんでした。今も花八洲の多くの人々は男女で愛を育みます」
起立したままの桜子の隣まで歩き、そっと肩に手を置いた。
はう、と俯く桜子と息を飲む他の生徒たち。
「百合の間に挟まろうという卑しい考えもあるからこそ、決して割り込ませない花びらの重なりが尊いとは思いませんか?」
耳元で、優しく。
「……はい、先生」
「実際に行えば犯罪と誰もが知っています。妄想まで取り締まって醜いものに蓋をするのはむしろ、どこに悪があるのか見えなくなる危険なことです」
見ないフリをすればなくなるわけではない。
厳しく取り締まれば消え去るものでもない。浅慮を諭す。
「紫蕾の蕾として強くありたいのなら、下賤なものに惑わされぬ自分こそが理想の花となるのだと、凛と咲きなさい」
耳まで赤く色付いた桜子の肩から手を離すと、少女はすとんと椅子に尻を落として顔を覆って小さく頷いた。
彼女は特にリリアを強く慕ってくれている。
モブ男の歪んだ願望を丸ごと否定しなかったリリアに苛立ち、挑発的な発言をしてしまったのだろう。
「保健委員、
「はいリリア先生」
「桜子を保健室に。私が叱り過ぎました。許してください、桜子」
「そんな、こと……」
「少し休みなさい。芍佳、桜子を任せて構いませんか?」
「リリア先生の言いつけでしたら、なんなりと」
やや強気な桜子とは対照的に物静かで落ち着きのある芍佳に任せ、教室を出ていく二人の背中に小さく嘆息した。
我ながら大人げない。
皆の前で間違いをあげつらう必要はなかった。
プライドの高い桜子に恥ずかしい思いをさせてしまったのは、藤姫の考えが読めない不安でリリアも冷静ではなかったのだろう。
「……次は自由時間にします」
「武道場を使ってもいいですか?」
「他の組と重ならなければどうぞ」
不安や苛立ちは体を動かして解消すればいい。
紫蕾の蕾たちは戦の時には藤姫の盾となり矛となる為、戦闘訓練もする。鬱屈した気持ちは別方向に向かわせようと。
リリアより生徒たちの方がよほどわかっていたようだ。
本当に、指導者として情けない。
◆ ◇ ◆
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