5-③ まとりょーしか
正田 弥生 出席番号七番
美術部 高等部入学
人間はみんなマトリョーシカだ。
表面の体裁、それを保つための思考、それとは別にある本心、本心を隠すための闇、これまでの人生で培った潜在意識、そして自分も知らない本性。
そんな風に殻を何枚も重ねて笑っている。だから、私はマトリョーシカが好きだ。人間の本質をそっくりそのまま映しているようなその人形が。
私はそのマトリョーシカたちの、できる限り内側を見たかった。小さな本性は、歳を重ねるごとに分厚さを増す殻に覆われて見えづらくなっていく。歳を重ねるに連れ、身体とともに偽物の自分自身が大きくなっていく。それが、大人になるということなのだ。
〈月曜日〉
ドビュッシーの「月の光」が流れている。木琴の音よりも先に起きるのは、朝のクラシック音楽を最初から聞きたいからだ。
これは、緑風学園を舞台にしたソーシャルゲームにログインした時に流れるオープニング曲。『リアル』という攻略困難なゲームのスタートの合図。
窓を流れる小さな雨粒が大きな粒を作るのが、まるで女子高生みたいだなと思う。女子高生は、一人では生きていけない。そして、集団を一度作ってしまうとそこから抜けることは至難の業だ。まるで雨粒。サッシに落ちればバラバラに砕ける。卒業と同時に、その集団は解散される脆い刹那の友情。
私のベッドサイドテーブルには大きさの違うマトリョーシカが三体並んでいる。中学の時、クリスマスマーケットでお母さんにねだって買ってもらったものだ。一年に一つ、中学三年間で三つ。アニメのグッズを買ってもらうよりはよっぽど簡単に説得できた。
部屋のドアスコープをのぞくと、クラスメイト達がぞろぞろとこちらに向かっている。私の部屋は談話室の隣、オートロック扉の斜め前。ブースから出る生徒たち全員が部屋の前を通るため騒がしく、ハズレ部屋と言われているが、私はここを気に入っている。この三次元というソシャゲの主人公の特等席だと思っている。談話室の隣にある私の部屋は、前期から変わっていない。
同室の千原由愛が目を覚ました。ドアスコープから外を覗いていたことがバレないくらいにスムーズに部屋を出て、ログインボーナスの朝食を摂りに食堂へ向かった。
食堂ではキャラクター達が各々の役目を全うしている。教室と食堂が全キャラクターが出没するスポットだ。
早めに来る私と同じくらいのタイミングで登場するのが牧野くみ。彼女は自分の分と、ご主人様の深谷舞の分を用意する。今日は、卵焼きをスクランブルエッグに変更し忘れているが、それが彼女のキャラクターとしての役目だから口出しはしない。きっとあとで舞に嫌な顔をされしゅんとするのだろう。彼女たち二人は言わば主従関係だ。前期でくみは舞の持ち物を盗んだらしい。公にはなっていないが、内部生と外部生の部屋が一緒にならなくなったのは、これが原因だ。盗みを告発したのは私の同室の由愛。彼女は自分の入手したゴシップは自分の手柄のようにすぐに話したがる。
くみの座っているテーブルに橋本真那がやってきた。秀才なのに明るい真那は気さくで、クラス全員を呼び捨てにする。私を弥生と呼ぶ人はこの子くらいかもしれない。そして彼女と仲がいいのが片桐慧と月丘杏珠。我々の大好物である百合匂わせをガンガン供給してくれる。
「昨日の雨でほとんど散ってしまったわね」
「夜のお散歩楽しみにしてたのに残念」
一番隅にあるテーブルに三人の少女が座っている。三人とも制服を身にまとい、きちんとした身なりだ。
「月見れば 千々に物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど、ね」
澄んだ声で一句詠む声が聞こえる。有栖川藍は、夢見がちな乙女、という言葉がふさわしいようなヒロイン的な少女だ。
お味噌汁と白米を前に百人一首を呟くなんて、女子高生としてあまりにも不思議な状況だが、両サイドの二人は一切気に留めない。
「ねえ菫、なめこは生えてる時からぬめぬめしているのかな」
「知らないわ」
思ったことは無邪気にすぐ質問する矢代蘭と、それを冷たくかわす四条菫。
「ねー、ネイル剥げてきたんだけど最悪」
隣のテーブルからひと際大きな声が聞こえる。
「えー最悪!」
「授業までに塗りなおしたほうがいいよ」
それに応じる二人の声も大きい。
三人とも、明るめの髪色に派手なメイクを施している。爪先まで抜かりない着飾り方は、きっとこの学園以外では校則違反になるに違いない。不良キャラも、学園者には付き物だ。成瀬満里奈・江藤レミ・佐々木実音。主人公の私、にとっては敵キャラとなるポジション。
そして、初期設定で主人公が仲間に選んだ仲良しグループのメンバーが、今同じテーブルに座っている三人だ。
〝チュン〟と呼ばれるのはネットに強いオタクの糸井すずめ、〝ピーチ姫〟はロリータ趣味なオタクの西田桃乃、〝ぶんちゃん〟は頭脳派神絵師の田口文加。
すずめはネット界では有名な特定厨で、界隈では死神様と呼ばれ恐れられているが、仲間内にもその正体を明かしていない。
桃乃は制服にフリルを付けてアレンジを施しているロリータ趣味だが、フリルから覗く腕には傷跡がびっしりのいわゆるメンヘラ地雷系。
文加は自己主張が少ないキャラだが実は絵がとんでもなく上手い。特に地味に見られがちだが中等部から緑風に通う秀才という特殊ステータスを持つ。
昼休み、片桐慧と月丘杏珠のイチャイチャを鑑賞するのが私たちの日課だ。
ゲームと違ってログアウトできないこの世界線では、彼女たちで二次創作をすることが我々にとって最強の娯楽。字書きのチュンと神絵師のぶんちゃんはいつも最高の作品を書くので、中学時代のフォロワーの絵の数々を優に超える良作が量産される。だから、SNSを奪われた今の環境に発狂しなくてすんでいるのかもしれない。
ここで現れるのが〈敵〉ポジの三人組。
「ねぇ、うるさいんだけど」
成瀬満里奈たちだ。
ここで現れる選択肢、【反抗する】【謝罪しその場を去る】この場合、後者が正しい。前者を選択して、「おもしれーやつ」となるほどこのゲームは簡単じゃない。即バッドエンド。ログアウトはできないので、残り二年と少しの間苦痛に耐え続けなければいけなくなる。先人の画面録画を動画サイトで予習したり、サイトで攻略法が出ていればいいのだが、これは私という主人公だけがプレイできるマニュアルもチュートリアルもない唯一無二のゲームなので慎重さが重要だ。
本日のデイリーミッションは保健・数学A・英語表現・現代文・家庭科・家庭科。ほとんどは放置ゲーなのでHPは消費されないが、実技というミニゲームを伴う家庭科は私にはハードだった。
家庭科のミッションでのミニゲームは調理実習。メンバーは牧野くみ・橋本真那・有栖川藍。編成は自分で組めないので、正直何とも言えない。まあ、秀才の真那がいる分、ゲームクリアは確約されたようなものだ。ドジっ子なくみがいるにせよ、調理実習で詰むことなんてめったにないだろう。詰む、それすなわち補習。家庭科に補習なんてあってたまるか。
近くから、大きな水音が聞こえた。ゲームオーバーの音だ。そちらを見ると、〈親友〉の桃乃が〈敵〉の満里奈に水をかけられていた。なるほど、操作ミスをするとエネミーからああいう攻撃を食らって負けるのか。水しぶきが少し私の制服にもかかり、流れる水たまりが足元に到達する。私のグループには〈敵〉がいなくてよかった。チーム編成ガチャはあたりだったようだ。
「チーム編成ガチャ爆死乙~」
小さく呟いて、チョコレートをかじった。
私がこの部屋を特等席だという理由はたった一つ。談話室を覗くことができるということだ。
ベッドサイドテーブルに並ぶマトリョーシカの真ん中の子。その核となる部分に、マイクロスコープを隠している。それを、談話室と自室の間の壁に押し当て、向こう側を見る。
ほんの小さな穴が、この壁にはある。ポスターで隠していれば誰もわかりっこない程の小さな穴だ。ここから談話室を覗くのが、私の日課だった。いつもここに、片桐慧と月丘杏珠が来るから。
そして、パーソナルストーリーを閲覧する手段は他にもあった。マイクロスコープを部屋のドアスコープに当てれば外から内側の世界を覗くことができる。
廊下に誰もいない時間帯に限られるが、クラスでは会話もしないような二人が部屋では会話を交わしていたり、みんなの前では見せない表情を見せたりする。私は、クラスメイト改めキャラクターたちのことを深く知りたかった。
人間は全員きちんと人間で、思考回路があって言動に繋がって、視点によってストーリーは変わる。廊下ですれ違う、顔に見覚えもなく名前も知らないモブにもパーソナルストーリーがある。それは私には知り得ることができず、同じ世界軸に生きながらも違う作品の登場人物のようなもの。〈敵〉にも、そうなるに至った経緯があり、彼女たちにとっての娯楽も悩みも正義もある。 面白いな、といつも俯瞰的に思うのだ。
〈火曜日〉
ストラヴィンスキーの「火の鳥」が流れている。朝にふさわしいのか少々疑問に思うようなせわしない曲だが、私は好きだ。
いつも通り食堂で全キャラクターを確認し、朝のパーソナルストーリー閲覧の時間が始まる。
そしてこの日、恐ろしいことが起きた。
『気持ち悪い!』
昨日の美術部の時間に完成させた作品が、談話室のテーブルの上に置かれたのだ。脳に電流が走り警報が鳴った。息をひそめることを忘れるほど気が動転した。まさに悪夢。液晶画面だと思っていたその穴の先、ソシャゲの一場面を和やかにみていたはずが、突然とんでもないホラーに変わった。今まで慎重に進めてきたものが突然バッドエンドに向かって急ハンドルを切った。どこでルートをミスったのだろうか。
血の気の引く頭をフル回転させても、そこに選択肢などない。「火の鳥」は主人公のこの心情を予見してのBGMだったのか。自習室にいるはずの〈親友〉たちに事の一部始終を伝えに向かった。
非常に居心地の悪い一日だった。どこまでの人が、私たちの書いたものだと知っているのかはわからないが、そもそもうちのクラスで漫画を描くような人はこのグループ以外あり得ない。直接非難されたわけではないが、常に視線が突き刺さるような感覚がした。
それに、いつも喜ばしいほどべったりな慧と杏珠が今日は全然一緒にいない。朝、慧が涙目で部屋に駆け戻った時に想像はできていたが、この展開は最悪だった。完全に私たちのせいだ。
昼休み、誰が流出させたのか疑心暗鬼な私たちは、自然とバラバラに食事を摂った。私は中庭のベンチに座り、いつも通り肉巻きおにぎりを三つと菓子パンを二つ購入したが、喉を通らず菓子パンひとつと肉巻きおにぎり一つを残した。
そばを通りかかる人に見られるのが嫌で、昼休みが終わるまで一人でぶらぶらと歩いていると、聞きなれた声が聞こえた。
寮舎の方で、ぶんちゃんと藍さんが揉めているのだ。
ぶんちゃんは、藍に何かを訴えて、藍はそれを深く受け止めていないように交わしている。ぶんちゃんが感情的になっているところは初めて見た。二人は中等部からの知り合いだから、関わりがあったってなんらおかしくはないが、ピーチ姫に中等部時代の藍のことを聞かれて、ぶんちゃんはあまり知らないと答えていたのを思い出す。
そこで、私は悟った。ぶんちゃんが藍に漫画を見せ、タブーを知らない藍はそれをみんなに見せてしまったのだと。
実在する人間をモチーフにした創作物は、基本的に本人の眼に触れないよう隠れて楽しむのが暗黙の了解だ。もし本人に見つかってしまったら、今回みたいに慧と杏珠の関係を壊してしまうことになりかねない。このことは、私たちのグループの人なら、というかオタクという人種は、もっと言えば常識のある人ならだれでも理解していることだとは思うが、藍に常識が通じるとも思えなかった。
放課後、いつも通り部屋から談話室を覗いた。どれほどに危機的状況に陥っていても、これだけは欠かせないデイリーミッションみたいなものだ。
まだ、慧も杏珠もおらず、三色パジャマが会話している。彼女たちの会話のどこかに、今日の慧と杏珠の様子を知れるヒントがないか、耳を澄ませた。
彼女たちの会話は、全く関係がないことだった。舞のルームメイトである藍のことが疎ましいという、何度も聞いたセリフ。それと、藍さんがいなくなればいいのに、という不穏な会話。どちらも、女子高生であれば日常会話でよくあるレベルの愚痴だが、それを聞くくみの表情は切羽詰まった様子だ。
くみが何を考えているのか、心配になったその時、部屋のドアがノックされた。
扉を開くと、チュンが不貞腐れた顔で立っている。
「ちょっと話したいから来て」
ぶっきらぼうに言われたその言葉に、素直に応じて食堂に向かった。
食堂ではやはり、あの漫画が流出してしまった理由を擦り付け合うような議論が始まった。私は、ぶんちゃんが藍に見せたことから始まった出来事だと確信しているが、それは私が言うことではない。あろうことか、慧たちに見せた張本人である由愛と同室だという理由で私に容疑がかかりそうになったが。
苛立ちや不満から、なかなか寝付けない時間が過ぎた。好奇心から漫画を見せびらかし、私たちに迷惑をかけた由愛は面白い一日だったのだろう。隣のベッドですやすやとよく眠っている。寝首を掻いてやろうとまでは思わないが、なにか嫌がらせをしたい気分だった。
しんと静まり返った部屋に、廊下から小さな物音が届いた。音を立てないようドアスコープを覗くと、有栖川藍が外に出ていくようだ。お手洗いもブース内にあるのに、ルームウェアのままどこに行くのか。不思議に思っていると、少ししてから別の部屋からもう一人現れた。
佐々木実音だ。
これから何が起こるのだろう。私の好奇心は止められなかった。こんな突発イベントを逃す手はない。そう思い、私も部屋を出た。
秋の夜中は少し肌寒い。二人の行き先が同じとも限らない。でも、私はバレないように実音の後を付ける。実音は、校舎の真ん中にある池の方に向かった。
案の定、池には藍が待っていた。藍は眉をキッと吊り上げ、実音を見ている。実音はそれを見て少したじろいだ。
話を聞くに、藍のお兄さんと実音が付き合っているのだという。ああ、よく実音が話しているお金持ちの彼氏というのは藍の兄だったのか、と納得した。藍はそのことに激高し、実音は頭ごなしに否定されたことに怒っているようだ。
新しい相関図の線が増えたな、と面白くなってきた。この二人に関係性があるとは思えなかった。しかも、悪い意味での関係性。面白くなってきた。
しかし、面白いのもそこまでだった。
口論の末、実音は藍を突き飛ばして寮舎の方に走り去った。藍はそのままバランスを崩し、池の淵に頭を強く打ち付けたのだ。遠くからなのでよく見えなかったが、藍の後頭部からは血が流れているように見える。
突然の出来事に心臓がうるさい。これは先生を呼ぶべきだろうか。突然のことにパニックになり、動けないでいると、別の足音が聞こえた。
牧野くみだ。くみは藍を見つけると腰を抜かして尻もちをついた。怯え切ったように震えながら藍の状況を恐る恐る確認する。そして、改めて飛びのいて小さく悲鳴を上げた。くみは、数分独り言を言いながらじたばたと動いていたが、何かに気が付いたように藍の周りにあるポーチや手紙を拾い集め、足を絡ませながら寮舎に走り去った。
何が起こったのか、色々な事が一瞬のうちに起こりすぎて理解が追い付かない。
そこにまた、誰か来る気配を感じた。
ピーチ姫だ。
どうして今日はこんなにもうちのクラスの人が夜中に外出するのだ、と関係のないことに納得がいかないが、ピーチ姫も藍を見つけて叫んだ。大声を出した後、一人で口を押さえている。ピーチ姫は何を思ったのか、ポケットからスマートフォンを取り出して藍の写真を撮った。
「ああ、藍様・・・死んでもなお美しい」
そう呟きながら写真を何枚も撮る。そして気が狂ってしまったのか、そのスマートフォンを池に放り投げた。
先ほど見たことが事実だったのか、どうやって私は部屋に戻ってきたのか、曖昧なまま眠れずに日が昇った。
〈水曜日〉
眠れずにいると今日か昨日か曖昧になる。いつもなら流れ始めるクラシック音楽が、まだ流れてこない。寮の窓から外を見下ろすと、先生たちがバタバタと走っているのが見える。もしかすると、さっきの、いや、昨日の?日付が変わっていたから今日の?どうでもいいが、藍の事故は現実だったのではないかと思う。寝不足の頭には現実を受け入れるほどのキャパシティーは残っていない。
ようやく、ラヴェルの『水の戯れ』が流れ始めた。
救急車が音を立てずに学園に入って来て、寮の天井にするすると赤いランプの光が流れた。
朝、食堂に行くとまだピーチ姫は来ていなかった。当然、有栖川藍もいない。矢代蘭が藍の不在を不思議そうにしている。
突然、放送が流れた。想定通りのことだったが、心臓が激しく脈打つ。まだ何が起きたのかを知らないチュンが嬉しそうに、今から何をして時間を潰そうかと問いかけてきた。平静を装わないと不審に思われてしまう。自分は悪いことをしたわけではないが、妙な緊迫感が苦しかった。
四限目の時間になって、ようやく事態が周知された。つい、周りのリアクションを盗み見る。不謹慎だが、こんな異常事態に立たされたキャラクターたちがどのような反応を見せるのか興味が湧いた。
クラスメイトたちは絶句し、現実を受け入れられないかのように固まっている。しかし不思議なことに、内部生のほとんどが青ざめた顔で窓の外を見上げていた。池のそばで亡くなったとは言われたが、それであれば窓の外を見下ろすのが自然な反応ではないか。偶然にしては違和感がある。
その違和感を埋めるヒントは、以外にも早く見つかった。朝からずっと部屋に引きこもっているピーチ姫を保健室に送り届けると、偶然にも佐々木実音と四条菫の会話を聞いてしまった。
中等部の時に入学した立花春華が、この学園で自殺をしたという話だ。なるほど、だから内部生は屋上を見上げたわけだ。
このことを、外部生には黙っておきたいらしい。でも、私は好奇心を主軸に動く主人公だ。
〈木曜日〉
全校集会が始まる前に、私は一人で教室に向かった。そして黒板に大きく、『内部生は人殺し』と書いた。
昨日、成瀬満里奈が停学になったばかりで、みんな満里奈が犯人だと疑っていなかったようだ。集会終わりの教室は軽い混乱状態になった。しかし、橋本真那の迅速な対処により、事態を一変させるほどのことは起こせなかった。菫が一瞬、実音を疑うような視線を送っていたくらいだ。だが、それでもいい。実際、藍を殺したのは実音なのだから。
成瀬満里奈が停学になったことにより暴走気味の江藤レミが開いたクラス会議で、何故か千原由愛がぶんちゃんを犯人扱いしようとした。確かに、由愛の言っていることは半分的を得ている。しかし、殺したのはぶんちゃんではない。
その後、ぶんちゃんは私に打ち明けてくれた。藍さんに漫画のアイデアをもらったこと、できた漫画を見せたこと、藍さんが漫画を入れた封筒と読書感想文の入った封筒を間違えて由愛に渡してしまったこと。
ぶんちゃんは、藍さんが隠したがっていたその性的描写のある本のことも、藍さんの不手際で漫画が流出してしまったことも、藍さんの沽券に関わるからと公表したくなかったのだという。
「生きてる人と、死んだ人、どっちを優先すべきだと思う?」
その時ぶんちゃんに聞かれた。ぶんちゃんの名誉を優先して事実をみんなに伝え容疑を晴らすか、藍さんの名誉を優先してそれをひた隠しにするのか、そういう選択肢なのだと私は解釈した。
「生きてる人だよ」
自分を優先してくれ、そう伝わったかは分からなかった。
あの後、千原由愛がまた私たちに絡んできた。少し的を得ていて言い返しづらいような謎の洞察力は腹が立つが、ぶんちゃんは負けじと言い返す。由愛の手が、ぶんちゃんに向かって振り上げられたその時、救世主が現れた。
片桐慧だ。慧は、由愛のことを叱り、私たちに何故かお礼を述べて去っていった。
「マーチ、私、やらなきゃいけないことがある」
「え?」
「慧さんや杏珠さんに酷いことした。私、謝れてない。あの漫画も今まで書いたものも、処分しないとあの二人にとっても失礼なんじゃないかな」
ぶんちゃんは真っ直ぐな目でそう言った。私としては、神作を処分だなんてとんでもない、と言いたいところだったが、ぶんちゃんの意思は固かった。
「燃やそう」
ぶんちゃんは科学室からアルコールランプを持ち出した。自分一人でやりたいから、と、ぶんちゃんは寮舎裏の倉庫に入っていく。ちらっと見えたそこには、今まで書いたイラストや漫画がすべて所蔵されていた。
私は、ぶんちゃんに言われた通りその場から離れた。でも、自分たちの作品が消えるのを近くで見ていたくて、少し離れた場所から倉庫を見ていた。
今までを思い出して空を眺めていると、倉庫の方から声が聞こえた。
「何してるの?!」
慧さんが倉庫を覗いている。倉庫の中のぶんちゃんの声はくぐもっていて聞こえない。
「酷い!そんな人だと思わなかった!」
慧さんは、小瓶のようなものを倉庫の奥に投げつけ、その場を走り去った。割れた音と直後に香ったローズで、それが香水だったのだと気が付いた。杏珠さんの使っている、限定品の香水。
突然、倉庫から火の手が上がった。香水はアルコールだ。可燃性がある。そして、ぶんちゃんの近くには燃えやすい紙がたくさん。しかも、ちょうどそれを燃やしているところだったのではないか。
倉庫に駆け寄った時にはもう手遅れだった。入口からぶんちゃんの姿は見えないが、なにかが暴れもがいているようなシルエットだけが見えた。叫んでも、私には何もできない。
「神様、お願いします。杏珠さんを護ってください。私のせいなんです。もっと、一緒にいたかった。もっと」
途切れつつ、そんな言葉が聞こえた。
これはリアルじゃない。ただのゲームだ。ぶんちゃんはただの〈親友〉という肩書のあるだけのキャラクター。本当に?違う。
「ぶんちゃん!!」
何も聞こえない。燃える炎の音しか聞こえない。
「ぶんちゃん!文加!ふみかぁ!!」
すぐに人が集まってきた。私の叫びは、野次馬の騒ぎ声にかき消される。そして、この倉庫の中にいるのは杏珠なのではないかと誰かが言い出した。この中で、もだえ苦しんでいるのは、それでもなお大好きな人の幸せを願っているのは、田口文加なのに。
『生きてる人と、死んだ人、どっちを優先すべきだと思う?』
ぶんちゃんの声が頭の中に蘇った。ぶんちゃん、あれってどういう意味だったの?
片桐慧の声が聞こえる。自分のやってしまったことに気が付いてむせび泣くような声が。
慧がぶんちゃんを殺した犯人だと知ったら、杏珠は悲しむだろうか。ぶんちゃんが神様に願った杏珠の幸せは叶わないのではないか。これからの人生がある慧と杏珠を優先するか、今ここで死んでしまったぶんちゃんを優先するか、答えはさっき、ぶんちゃんがくれた。
『生きてる人はこれからの人生がある。死んだ人よりも生きている人が有意義に過ごせる結論を出さなきゃいけないの』
〈金曜日〉
レハールの金と銀が流れている。昨日の今日ということもあり、学校は休みになった。
親友を亡くし、心が疲れていた。一人ではとてもじゃないがいられる気分ではなかった。
朝から、チュンの部屋でピーチ姫と三人、黙って時間を潰した。水曜日の突然の休講では、あんなにもこれから何をしようかとつかの間の休暇を謳歌すべく息巻いていたチュンも、今はパソコンの前に座ったまま大人しかった。
外は少し雨が降っているようだ。私たちの眼からは流れない涙は、空が代わりに流してくれている。窓の外を眺めていると、チュンが小さく声を漏らした。
「は・・・?」
彼女の見つめる画面を覗くと、そこには学校の掲示板が表示されていた。
<昨日焼死した田口文加は、有栖川藍を殺した罪悪感から自殺した>
チュンは震える手で打ち込む。
<田口文加が犯人だというなら、その根拠は?動機は?>
その答えは、すぐに返ってきた。
<有栖川藍と田口文加は中等部からの仲で、藍の好きな小説を文加が漫画にして共有していた。それが流出し、文加は藍を恨んだのが原因。>
チュンは膝を抱えるようにうずくまり、泣きじゃっくりを上げ始めた。
「私も同じことを考えたの。ぶんちゃんが藍さんを殺したんじゃないかって、私もこいつと同じこと考えた。友達なのに、大好きな友達なのに」
私とピーチ姫も、泣きながらチュンに寄り添う。私も、慧さんと杏珠さんを守るために真実を黙っている。ぶんちゃんは自殺なんかじゃないし、敬意を示すために燃やそうとしたのにその本人に殺された被害者だ。慧さんに殺意はなかったかもしれない。でも、殺したのは事実だ。
「死神様、特定できる?」
チュンは赤い目をこすり、頷いた。
「どうしてそんな酷いことが出来るの?!文加は殺されたのに、苦しんで死んだのに、自殺だなんて、そんな嘘でその人生を終わらせられるなんて!あなた人間じゃない!」
チュンが特定した書き込みの主は、月丘杏珠だった。チュンは一人で杏珠を問い詰めに行くと言ったが、一人にしたことによって親友を失った私にはそうですかと見送るほどのメンタルは残っていない。体育倉庫の陰にある暗幕に隠れ、事の成り行きを見守った。
最初は自分のしたことを悔い、怒るチュンに怯えるだけだった杏珠だったが、後半雲行きが変わった。
「今私を人目につきづらい場所に引き入れて暴力を振るっているあなたは、客観的に見て一番〝犯人〝らしいんじゃないかしら」
急に飄々とし出した杏珠に、先ほどの反省の色は見えなかった。演じていたんだな、と思った。力の強さで劣っている相手に下手に出ただけのポーズで、本当は反省なんてしていない。自分が逆転できる隙間を見つけて、本性を見せてきたのだ。
ぶんちゃんは、片桐慧に殺され、月丘杏珠にもう一度殺された。肉体も名誉も。
そう思うと、もう止められなかった。チュンがその場から離れたのを見計らって、私は棚を押した。
正田 弥生 fin.
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