5-② 幸福が飛んでくる
矢代 蘭 出席番号十六番
軽音楽部 中等部入学
息苦しさに目を覚ました。おでこの汗で前髪が引っ付いている。だるい手のひらを見ると、くっきりと爪の跡が残っている。時計の針は十時を指していて、いつもの金曜日なら大遅刻だなと心が笑った。菫は一人で朝ごはんを食べたのかな。
窓を開き、外の空気を取り込む。秋の冷たい風が、濡れたおでことほっぺたを撫でた。
今日は空が閉じている。この世界は誰かのおもちゃ箱の中で、持ち主は今日私たちに興味がないみたい。さみしいね。
前にこの事を菫に話したら、馬鹿なことを言わないでと怒られた。菫にはわからなかったみたい。そういう話をすると、菫の周りに紫のモヤがかかる。多分、苛立ちと不安。
空を見ながら、いつも向こう側にいる誰かに願う。
私たちにもっとたくさんの幸せをください。
『有栖川藍さんが、亡くなりました』
昨日のあの言葉は、本当だったのかな。今でもまだ信じ切れずにいる。これは、藍が仕掛けたいたずらで、藍は今どこかで、悲しんだり怯えたりする私たちを見守っているんじゃないかな。そう思う。そうであってほしいなと思う。明日か、来週か、いつか藍にまた会って、こんなひどいまねしないで、と怒りたい。だって、藍がいないこの時間はあまりにもさみしいから。
向こう側って、どこにあるんだろう。藍は、どこに行ってしまったんだろう。前の日の夜までは一緒にお話ししていたのに、急に挨拶もなくいなくなってしまうなんて。そんなわけないわ、藍は礼儀に厳しいもの。きっと、また会える。どこにいるの?
閉じた空の向こう側にいるのかな。明日は空を開けて、私たちを見てくれるかな。なんで今日は閉じちゃったのかな。藍、こっちを見て。私は藍に会いたいよ。
真っ白な掛布団にくるまっている慧ちゃんを起こさないように扉を開く。ひとつ奥の部屋は藍の部屋。あそこを開けたら、藍がいるんじゃないかと思う。小さな望みをかけて藍の部屋を開く。
まだ、藍の大好きなディフューザーのラベンダーが香る。部屋には誰もいない。
「あい」
小さな声で藍を呼ぶ。
ついこの前までは、藍って呼べば藍が振り向いて、私を見て笑顔になった。『蘭を見ると嬉しくなるのよ』って笑うの。藍の周りに見えるくすんだ色が、私を見た瞬間に消えるの。
喉の奥が痛い。目の前がぼんやりしている。わからない。聞こえない。息ができない。息をしたら、声を出したら、いろんなものが崩れてしまいそう。藍がいないことをわかってしまう。嫌だ。嫌だ
「藍」
崩れた。藍に、藍と呼びかけることができない。届かない。空の向こう側にはこの声が届かない。だって、今まで届いたことがないから。みんなが幸せになるようにって、いつも空の向こう側にお願いしていたのに届かなかったから。藍はもういない。いない。
「いやだよ、藍」
もう会えないって、昨日言っておいてよ。そうしたら、自分の部屋で眠らなかった。藍の部屋で、菫も一緒に三人で最期を大事にしたのに。
『蘭の笑顔を見ていると幸せが飛んでくるね』
藍はそう言ってくれた。私の名前のお花、胡蝶蘭の花言葉だと教えてくれた。私が笑顔でいれば、どこかにいる藍にも幸せが飛んでくる。菫にも、みんなにも、幸せが飛んでくる。
「泣かないで、蘭。あなたが泣いたら不幸が飛んできちゃうわ。大丈夫、蘭にはみんながいるわ。私も見守ってるから、笑顔でいてね」
藍になりきって呟いて、自分に元気をあげる。藍はきっとそう言うから。藍が嬉しいと私も嬉しいから。
――あ、いる。
扉の方に顔を向けると、パッとそれはいなくなった。
この学園には、いる。それはふとした時に現れて、私たちをただ見ている。
談話室によくいる。菫に言ったら、信じていないようなリアクションをしたけれど、それ以降怖がって談話室を避けるようになった。菫が<幽霊>と呼ぶから、私もあれをそう呼んでいる。
私が気づいている素振りをしたり声をかけるといなくなるけれど、確かに時々私たちを見ている。幽霊さん。
怖いものだとか、そういう風な雰囲気はなく、好奇心の塊みたいな色が見える。だから別に放っておいて問題ないと思う。
幽霊さんを見つけてから、なんとなく悲しさが収まった。これなら、また笑顔でみんなの前に立てそうだ。
「菫」
菫の部屋の扉を叩く。返答はない。そこにいるのは確かなんだけど。
しつこくすると、菫のモヤが濃くなって怒られるから諦める。すずめちゃんはいるだろうか。
「すずめちゃん」
ノックするが、誰もいないよう。気配がない。談話室にも誰もいない。幽霊さんの気配もない。
満里奈ちゃんはもう学校にいない。誰か話し相手はいないだろうか。寂しい。寂しいと、藍が恋しくなってしまう。こんな時、藍は私を一人にしなかった。藍の存在の大きさを、失ってから気づくなんて最低だ。
長く伸びる廊下は、暖かい光がともっているけれど、しんと静まり返って冷たく感じる。固く閉じた九つの扉が、私を拒むように並んでいる。その場にしゃがみ込むと、扉が私を見下すように大きく伸びた。
口角を上げる。だいじょうぶ。
九つの扉と別にある、ガラスの扉を開きブースの外に出る。寮から出ると、冷たい空気が頬を撫でた。大丈夫よ、と藍が言っているように感じる。
深呼吸した。さっきよりも堂々と口角が上がる。心配しないで、藍。
目的もなく、なんとなく足を踏み出した。この広いような狭いような世界を見ておこう。藍の見れなかった世界を。ブルーシートとカラーコーンで規制された池の隣を歩く。空を見上げると、三方向を校舎が遮って狭い空がこぢんまりと広がっている。
『あなたのせいだから』
忘れかけていた声が頭の中に響いた。この声は。
『あの子は悪い子だから、関わらないでね。関わると藍が嫌な思いをするから』
何年か前に、菫に言われた言葉。あの時、藍のためにあの子とは遊ぶのをやめたのに、どうして藍はこんなことになってしまったんだろう。
菫に聞いても、返事はなかった。藍は何も悪いことをしていないのに、なんで死ななければいけなかったのだろう。悪いことをした人だからあの子は死んだんだって、菫は言ったじゃない。
唯一開けている運動場側へ歩き出す。知らない人たちが駆け回っている。色とりどりの服を着た女の子。小さいころの菫を思い出す。色とりどりのワンピースを着て、一緒に駆け回った本家のお庭。走るのが好きじゃない菫はすぐに息を切らせていたっけ。
運動場のふちを歩く。上履きで砂の上を歩くと菫に叱られる。
ぐるりと歩くと、真那ちゃんとくみちゃんに会った。二人は難しい顔をしてどこかを見ている。
「どうしたの?」
声をかけると二人はこちらを振り返った。
「蘭、ちょっと静かにしてね」
二人が口に人差し指を当てる。視線の先には、体育倉庫がある。真那ちゃんの脚はここで無くなってしまったんだっけ。あの日騒ぎを聞いて、廊下から窓の外を見たとき、真っ赤な真那ちゃんが遠くの体育倉庫から運ばれるところだった。
「ここ、嫌いじゃないの?」
真那ちゃんに声をかけたのとかぶさるくらいのタイミングで、体育倉庫の中から声が聞こえた。
「あなたが死んだら自殺だったって言いふらしてやるわ!」
真那ちゃんとくみちゃんは力強く目を開いてお互いの顔を見合った。体育倉庫の中からは、まだ聞き取れない程度の会話がぼそぼそと聞こえている。中の状況を聞き取ろうと三人で息をひそめた。
しばらくして、突然体育倉庫の扉が開いた。
「え」
「すずめちゃんだ!」
寝不足のような疲れた表情のすずめちゃんが出てきた。私たちを見て、すずめちゃんは焦ったような顔をした。
――ガシャーンッッッ
直後、大きな音が響いた。肩をすくめて目を瞑る。近くに雷が落ちたみたいに地面が震えた。
「なに?」
くみちゃんが呟いて、真那ちゃんがその場にへたり込んだ。すずめちゃんは驚いた猫のような顔で、ゆっくりと後ろを振り向く。
「月丘さん・・・?」
すずめちゃんが呟く。一瞬、月丘さん、が誰なのかわからなかった。くみちゃんが体育倉庫に駆け寄る。中をのぞいて、状況がわからないのか不安そうにきょろきょろと目玉を動かす。私も、状況が知りたくてくみちゃんの後ろから覗き込む。
整理整頓が行き届いていない広い倉庫内は、さっき池で見たようなカラーコーンやブルーシート、カゴに入り損ねたサッカーボールやハンドボール、大縄跳びの太い縄が落ちている。砂とクレヨンが混ざったような匂いがする。砂だらけで、ここは上履きだとだめなんじゃないかと思った。
「やだ!」
前にいるくみちゃんが高い声を上げた。大きな棚が倒れている。後ろで、真那ちゃんが小さく、やめてやめてと呟いているのが聞こえる。棚の下から、赤いものが流れていた。
人の悪意はわかりやすいものだ。私には、その人の持つ感情のオーラが目に見える。はっきりと見えるというか、感じる。音や文字に色が見えるのと同じように。
いいことも悪いことも、素直に伝わってくるのに、みんな嘘の気持ちを口に出す。本当は好きでも嫌いと言う、本当は嫌いでも好きと言う。みんな嘘を吐くのがとてもうまかった。私はそれがうまくできない。
初等部の時、私と菫は緑風学園とは違う姉妹校に通っていた。お母さんたちもそこの出身で、友達もたくさんできた。今の友達よりも嘘をつかない人たちだった。その頃から、人の嫌な気持ちや嬉しい気持ちは見えるようになっていた。だから、友達が泣いてしまう前に、怒ってしまう前に、先回りしてそれを止めることができた。だから、先生から、「蘭ちゃんは人の心が分かる優しい子だね」と言われていた。
でも、その度に菫の色がくすむのも気が付いていた。
菫は私にとっては誰とも代えがたい片割れのような存在で、私は菫が喜ぶ方法ばかり考えた。でも、私が行動を起こせば起こすほど、菫は嫌な気持ちになるようだった。
菫にとって、私は迷惑な存在だったのかもしれない。私にとってはこんなにも大切で、菫の幸せが自分の幸せのように感じていたけれど、菫にとってはそうじゃない。そう思うと、悲しく思えた。
菫は友達が多くなかったけれど、先生からの評価は高かった。私と違い、大人しく勉強もできる菫は、よく先生と二人きりで勉強を教えてもらったりしていた。菫は、自分を認めてくれる先生が大好きなようだった。先生も、菫のことが大好きだった。
私は、それが羨ましくて、菫と先生を引き離したくて、お母さんにそれを話した。
『先生が菫のこと大好きみたい。私、あの先生嫌い。悪い人だと思う』
その言葉をお母さんがどんな風に受け取ったのかはわからないが、先生はその学校を辞めさせられ、私たちも中等部から緑風学園に編入することが決まった。
あの先生は、幼い女の子に手を出す犯罪者だったのだと、中等部の時に菫が教えてくれた。私の自分勝手な嫉妬心が、結果的に菫を救うことになったのだと。
私は、菫にどれほど嫌われても、ずっとそばにいて、菫に近づく悪いものを先に見つけて止める。そう心に決めた。
あの後、冷静なくみちゃんが走って先生を呼びに行き、棚の下敷きになった杏珠ちゃんは病院に運ばれた。寮に戻るように先生にきつく言われ、震える真那ちゃんをくみちゃんがおぶって談話室に来た。
「すずめ、あなただったの」
ソファーに降ろされた真那ちゃんが、俯いたまますずめちゃんに言う。真那ちゃんの周りには、悲しみと恐怖の色が渦巻いている。すずめちゃんは必死に首を振った。談話室には、さっきの四人と舞ちゃん、由愛ちゃんがいる。みんな、杏珠ちゃんと仲が良かった子たちだ。
「違う、違うの!あれは事故で・・・」
「うそつかないで!死んだら自殺だったって言いふらしてやるって、言ってるの聞こえたんだから!」
「自殺なんて言ってないじゃん!」
「自殺は無理あるでしょ、現場を目撃されたんだから。細工する時間なかったもんね?」
すずめちゃんの抗議に、冷たい声で由愛ちゃんが言う。すずめちゃんは違う違うと言いながらうずくまった。
「立花春華のいじめの模倣なら、私がターゲットになるのが必然じゃないの?!」
真那ちゃんは大粒の涙を流しながらクッションを力任せに殴りつけた。そのままクッションに顔をうずめ、泣きじゃっくりに背中をひくつかせる。
「知らないもん!私立花春華のいじめなんて知らないよ!」
「親族か何か?それとも小学校が一緒とか?幼馴染?それとも立花春華のファン?」
舞ちゃんが震える声で聞く。すずめちゃんは首を振るだけだ。
なんとなく違和感だった。すずめちゃんは杏珠ちゃんを殺したりなんてしないと思う。すずめちゃんから見えるのは、不安と恐れの色だ。殺意や罪悪感は見えない。今も、体育倉庫であった時も。だって、人を殺そうと思っている人の色は、人を殺してしまった人の色は、こんなじゃない。
『あなたのせいだから』
また頭の中で声が聞こえた。わたしのせいかな?なにが?満里奈ちゃんやすずめちゃんと仲良くしたから、藍や文加ちゃんは死んでしまったの?私のせいで、満里奈ちゃんもすずめちゃんも犯人だと言われるの?
あ、いる。さっき体育倉庫でもいたのに、ここにもいる。どこにでもいる。
あの子なら、全部知っているんじゃないかな。全部。
「全部見てたんじゃないの?」
壁の向こうにいる、幽霊さんに声をかけた。
矢代 蘭 fin.
「全部見てたんじゃないの?」
矢代蘭は全員の後ろの壁を見ている。
「蘭、誰に話しかけてるのよ」
「幽霊さんだよ」
幽霊?藍の?文加の?まさか、立花春華の?
談話室がざわめく。背中に冷たいものが流れた。
「ねえ?幽霊さん」
矢代蘭の澄んだ瞳が、私を見た。
「そこにいるよね?弥生ちゃん」
蘭さんは、談話室の壁の穴から覗いている私を見て、そう言った。
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