4-② 人の不幸は蜜の味

千原 由愛   出席番号九番

       テニス部   高等部入学


寮舎の裏で人気のチョコレートフラペチーノを吸い込んだ。

なんだか悪者扱いされたような気がしてもやもやしていた。田口さんが藍と揉めているのを見たのは事実なのに。別に田口さんが殺したとまでは言ってないのに。事実を伝えただけなのに。

喉に引っかかるような甘ったるさが、先ほどの会議での苛立ちと穏やかではない日々に対する漠然とした恐怖を一時的に麻痺させてくれる。

口の中に舞い広がったチョコチップを前歯でちまちま噛み砕きながら、あの時のことを思い出す。

藍が発見された、校庭の池。歩いているときに何かに躓いて転んで頭を打ったのではないか。少し事故にしてはこじつけになってしまうから、誰かしらの犯人がいるのだとみんな疑心暗鬼になっているのだ。

でも、この世の中ありえないと思っていることがあり得ることだってあるではないか。なにも怖い方に考える必要なんてない。

カップの上に乗った生クリームを、チョコレートドリンクと混ぜ合わせる。真っ白なクリームは跡形もなく黒に飲み込まれていく。

チョコレートフラペチーノ。別に好きってわけではない。これは生きていたころの藍が、菫たちと一緒に飲んで絶賛していたらしいものだ。藍が死んでから、親友の蘭が部屋に添えに来たらしい。添えられたフラペチーノは段々溶け、水滴がデスクに溜まり、藍が死んだ日に準備していた水曜日分の教科書の端を濡らす。舞はそれを見て、藍が翌日も生きているつもりで準備していたことに心が苦しくなると話していた。


目の前を通り過ぎる二人の少女。田口文加と正田弥生だ。私に気づき、そそくさと通り過ぎようとしている。

田口さんって、何気に藍と二人でいるところ見るんだよな。だから二人が揉めてるのを見たときそこまでびっくりしなかったし。二人とも内部生だし仲が良くても不思議じゃない。

ていうか、正田も怪しい。ルームメイトだが私が部屋にいるときはほとんどいないし、私がいないときは部屋の鍵を閉めやがるし、夜中に出ていったりするし。そういえばあの日も夜中に起きたときベッドにいなかった気がする。いや、いなかった。こいつが犯人か?

そう推理が結ばれた時にはもう、私の手には正田弥生の太い腕があった。

「痛い!」

ルームメイトなのにほとんど話したことのない彼女をこの距離で見たのは初めてかもしれない。肉々しい顔は肌荒れが酷い。私の周りのお嬢様や藍たちのような華々しさはない。怯えたように私を見る瞳は、大きすぎる黒縁眼鏡の奥でとめどなく揺れている。

動揺しているんだ。

「正田さん。あんたが藍を殺したの?」

ルームメイトなのに、今まで彼女を呼んだことはなかった。なんとなく、苗字で呼んだ。少しばかり敬遠した雰囲気になるように感じる。

彼女は何も言えずに戸惑っている。なにか後ろめたいことがあるということだ。

「千原さん、やめて」

隣にいた田口文加が声を上げる。黒髪を低い位置で一つにまとめ前髪は左へ流した黒髪。絵にかいたようなガリ勉ちゃん。言っとくけど、揉めてたあんたも十分怪しいからね。

「田口さん。じゃああんた?」

正田さんの腕を掴んだまま田口さんを見やる。

また黙ってしまった。どうしてこの部類の人たちはこうもうじうじしているのだろう。思うことがあるならはっきり言えばいいのに。そんな様だから、クラスのヒエラルキーの底辺に居続けることになるのだ。

あ、なるほどね。こいつらと言えばあの漫画だ。慧と杏珠を描いたキモイ漫画。あれのせいで、あの二人はおかしくなった。

「例の漫画」

その言葉だけで二人はあからさまにびくついた。

「あれを見られたから、逆恨みで殺しちゃったんでしょ」

否定とも肯定ともとれる眼差しで私を見つめる。

だから喋れよ。言わなきゃわかんないし、『私は可哀想です』とでも言いたげな小動物のような目から何を感じ取ってほしいのだ。

「なに?違うなら違うって言いなよ。」

一瞬の沈黙が流れた。

「あなた、なぜそんな探偵ごっこをしたがるの?」

探偵ごっこ?違う私は・・・

「藍さんと仲良かった?無責任な正義を気取りたいのならやめてほしいわ」

 は?

私は正義を気取りたいなんてそんなつもりはない。第一、その気取った喋り方が気に食わない。所詮あんたは中学から緑風にいるといっても家柄は一般レベルでしょ。内部生だからと言って自分もお嬢様になったつもりか。

「は?何様?内部生だから調子乗ってんの?」

「あなたこそ、舞さんたちと行動してるからって偉くなったつもり?今は学校の時間じゃないのになぜ制服を着ているの?庶民の私服を見られるのが恥ずかしいんでしょ?見栄張って恥ずかしくないの?」

 

「由愛やめて!」

気が付くと、振り上げた私の右腕を慧が掴んでいた。目の前には腕をかざして頭を守る田口。

私は田口さんを殴ろうとしたのだ。

「何してるの?!」

慧が子供を𠮟りつけるように私の両腕を握る。

彼女の表情は軽蔑など一切なく、心配だけだ。きっとこの子は、自分を下劣な娯楽として消費していたこの人達のことも軽蔑したりしない。一方、二人は慧が来たことにより、さらに不安そうだ。

それはそうだろう。自分たちが好奇の目で見ていた当事者が目の前に現れたのだ。きっとまだ、慧の気持ちも聞いたことがなければ謝罪や弁明もしていない。こいつらと慧は生きる世界が違う。慧と普通に話す私はあんたたちとは違う。

「片桐さん・・・っ」

田口と正田がぎこちなく慧を呼ぶ。この名字呼びには、私から彼女たちにかけた意味での壁ではなく、敬意がこもっているように感じた。

「文加ちゃん、弥生ちゃん、ごめんね。あとありがとう」

二人の表情が固まる。突然謝られ、そして感謝されたことへの疑問と混乱か、はたまた旧友にかけるように発せられた優しい名前呼びに対する驚きと喜びか。どれに当てはまるのか分からないなんとも間の抜けた表情。

「由愛行こう」

掴まれたままの右手を引かれるがまま、その場を離れた。

寮の入り口近くに来て、慧の足が止まる。

「由愛、どうしてあんなことを?」

説教をするように慧が私を見下ろす。弓道にはもったいないんじゃないかと思うほどすらりと長い手足。バスケやバレーにすればいいのに。千鳥柄のセットアップを来た彼女のショートパンツから覗く筋肉の着いた脚を見ると、あの絵がフラッシュバックした。

「慧こそ、なんであんな絵を描かれて黙っていられるの。あんたやアンを汚したんだよ」

「汚したって・・・私はそんな風に思わないよ」

 心に暗雲が立ち込めた。なんていい子。

「優しいね、慧は」

 この優しさが憎く感じたのは初めてだ。見た目の大人っぽさやサバサバした雰囲気と、ピュアで優しすぎて世間知らずな性格の温度差に風邪をひきそう。妬みや恨み、羨望、屈辱、後悔。そんな気持ちないんだろうな。それもこれも、守られて可愛がられて憧れられて生きてきたからだ。

「優しくなんかない」

 慧は言った。あなたが優しくないのなら、私は何になる。悪魔か?魔女か?客観的に見て正しい誉め言葉を、素直に受け取らないことで相手をさらに下げているということに気づいた方がいい。

「由愛には言っておこうかな。内部生だけで秘密にしようと思ってたんだけど」

「何?」

 今の何?に棘がなかったか、その後の表情で取り繕う。慧は私の手首をそっと握って言った。

「ほかの人に言わないで」

「うん」

「私、杏珠と付き合うことになったの」

鳥肌が立った。なに、それ。

「藍がこんなことになってしまったから、当分は黙っていようと思ったんだけど。だって不謹慎でしょ?だから由愛も黙っていてね。だから、弥生ちゃんや文加ちゃんの書いた本は私にとって第一歩を踏み出すためのきっかけになったの。むしろ彼女たちには感謝してもしきれないよ。あのおかげで付き合えたんだから」

付き合えたって何だよ。気持ち悪い。女同士で?普通じゃないだろ。馬鹿じゃないの?きもい。

「気持ち悪いな・・・っ」

つい、口に出た。言っちゃいけないとは思っていたけど。

「気持ち悪い!なにが付き合えた、だよ!異常だよ!あんたもアンも!異常者だよ!変だって気が付かないの?!あんたら女同士じゃん!なのにあの絵みたいなことするの?正気?マジで無理!」

脳から直結で口に出た。会議での屈辱、田口に言われたことへの怒り、そして慧と杏珠の関係への侮蔑、それを仲のいいと思っていた私に話さず内部生だけで秘密にされていたこと。全てが混ざって頭がごちゃごちゃだった。慧の顔を見ることはできず、そのまま私は寮に走って戻った。

クラスブースに着くと、舞が通りかかった。

「お、由愛。また立てこもり?」

舞が有栖川藍の愚痴をこぼすのと同じように、私もルームメイトの愚痴をよく言っていた。いつも部屋に戻ろうとすると、鍵がかかっていることを。正田はいつも部屋のパソコンでアニメを見る。その時はわざわざ鍵を閉めて、家から持ってきたらしいヘッドホンを付ける。だからノックしても無駄なのだ。二人部屋なんだから自分勝手なことをするなと、何度も直接文句を言ったが響かない。早く部屋替えがしたい。

「いや、今はいないかも」

 だってさっき庭で揉めたから。

「くみの部屋でゆっくりしようと思うからおいでや」

「うん」

談話室が使えないとき、いつもは舞の部屋で集合するのだが、藍の部屋でもあるので、なんとなくいわくつきな感じがしてあまり長居したくない。彼女が迎えられなかった水曜日の教科書を目の当たりにするのも嫌だった。

「にしても、カードキーがないのは確かに不自然やんな」

「そうね、カードキーがないと戻ってこれないのはさすがに分かってるだろうし」

「やっぱ犯人が盗んだんかな?」

「犯人ってことは、満里奈?それか田口?」

「田口文加犯人説?あの地味子ちゃんがそんなことするかな」

「人は見かけによらないっていうじゃん」

舞と二人で会話している時、いつもくみは背後霊のようにひっそり黙っている。三人で行動しているとはいえ、実質二人のようなものだ。元々の暗さと、盗みの罪悪感が合わさって喋れないんだろうな、と思っていた。

「てか、舞知ってたんでしょ。慧と杏珠のこと」

「え、なに?」

「二人が付き合ってるって話」

「あれ?由愛にも言ったん?」

「ちょっと酷くない?いつも一緒にいるのにそんなことは黙ってるなんてさ。しかも同性愛?ガッカリだよ」

「そうかな?べっぴんさん同士で超お似合いやん!」

 え?何言ってんの舞。ありなの?賛成なの?

「でも普通に気持ち悪くない?女同士なんて異常じゃん。ねぇくみ」

びっくりするようなトピックスなのに、まるで反応がない。せめていつものニコニコ顔でもしていればいいものを。もしかして、もともと知っていた?知らなかったのは私だけ?

「くみ、どしたの」

舞が問いかけるがそわそわと落ち着きがない。トイレにでも行きたいのだろうか。赤ちゃんでもあるまいし、勝手に行けばいいのに。

いや、違う。チラチラとどこかを見ている。ベッドの下だ。

「なに?もしかしてまた舞の物盗んだの?」

そういってくみのベッドの下の収納を開けようとする。

「待って!」

聞いたことのないほど大きな声を出され、驚いた。舞は怪訝な顔をした。

「嘘やろ、またやったん?」

そう言って、収納を開いた。すると、そこには

「これって・・・」

藍が使っていた花柄のポーチ・カードキー・山吹色の手紙がそこにはあった。

「え・・・?」

これは、くみが藍が死んだあの場所にいたという決定的な証拠だ。ということは?藍を殺したのは・・・

「あ・・・あ・・・」

舞は収納に手をかけたまま目を見開き震えている。私の手も震えている。心臓がうるさい。首元が締め付けられたように苦しい。くみが、犯人?

「違う!違うの!」

「嘘・・・嘘やろ・・・お前・・・くみ・・・」

「違う舞!」

「うちのせい?うちが藍を殺せって言ったから・・・?やったん?やってもうたん・・・?」

「ちがう!」

「違うわけないやん!これは証拠やん!説明つかんやろ!うちのせい?なぁ、うちが命令したからなん?」

「舞落ち着いて!外に聞こえちゃう」

動転している舞の背中を擦りながら落ち着かせる。舞の背中は汗で湿っている。

「違うの舞・・・ごめんなさい・・・聞いて」

くみは土下座の姿勢を取りながら大粒の涙を流している。私は、この女が怖くて仕方がなかった。純朴で何もできないような顔をして、有栖川藍を殺したのか。

「あの日、舞がくれた山吹色の手紙には一時に屋上に来るようにって、書いてたよね。でも、行けなかったの。ルームメイトのすずめちゃんが全然眠らなかったから、一時に行けなかったの。でも、やらないと舞が怒ると思って、そう思って、すずめちゃんが眠った三時半過ぎに校舎の方に行ったの。」

「そこで藍を殺したん?」

「違う!校舎の鍵が閉まってて、屋上には行けなかった。それで、きっと有栖川さんもそれに気が付いて帰っちゃったんだ、って思った。舞にどうやって顔向けすればいいかわかんなくて、怖くて、どうしようって・・・」

舞がその場その場のノリで下す命令は、くみにとって大きいプレッシャーだったのか。逆らえば窃盗犯だと暴露される。学校内に居場所がなくなるだけじゃなく、逮捕されるかもしれない。

「どうしたらいいかわからなくて、外を歩いてた。そしたら、有栖川さんが倒れてた」

「え?」

「くみが見つけたときにはもう藍は死んでたの?」

「死んでた。というか、血を流して倒れてた。その近くに、このポーチとかがあったの」

「じゃあ、くみがやったわけじゃないのね?」

「うん・・・でも、私がやってないと舞が怒ると思った。だから、私が殺したことにしないとって思って、このポーチを拾ってきた」

つまり、これは偽物の証拠で、実際あの場にカードキーはあった。先ほどの会議での一番の謎が、これで解けたということか。藍はカードキーを持って部屋を出た。くみは犯人じゃない。

「くみは犯人じゃないのね」

「うん、違うよ!」

こんなに喋るくみは初めて見たな、と、一安心した脳みそは冷静に思った。また盗んだってことか、こいつは手癖が本当に悪い。

「これ、みんなに言ったほうがいいよね」

「え・・・」

「言ったほうがいいやろな、無駄な混乱を防ぐためにも」

「くみ、みんなに全部話してね。人の物盗んだのは事実だから」

「・・・うん」

ふと、窓に違和感を感じた。とっくに二十時を過ぎている。それなのに外がやけに明るい気がする。

ベッドから滑り降り、向かい合ったデスクの横の窓をグッと押し開ける。暖かい快適な部屋の中に、乾いた冷たい空気が勢いよくなだれ込む。机にあったくみの数学のプリントが風にあおられる。

薄らと鼻に届いた焦げた匂い。

『先生呼んで!』と悲鳴混じりの声がする。

校舎とは反対側にある小さな物置小屋からオレンジ色の光が発せられている。小屋が燃えているのだ。

焦げ臭さに混じって、薔薇の香りがした。

「杏珠!!」「アンちゃん!」

この香りは、確か。

「え?なに?」

舞が窓に近づく。

「これって、アンの香水の香り・・・?」

窓の外からローズの強い香りと咽び泣く慧の声が聞こえた。


千原 由愛 Fin. 


 凝ったデザインの校舎や寮舎と比べると異質な、木造の小さな倉庫が燃えている。木の燃える匂いと煙が充満する中の甘い香りが、現実味のなさを演出するかのように鼻先を刺激する。

「杏珠!」

 誰かの叫び声で、野次馬たちもこの香りの持ち主を思い出した。

 つい昨日生徒の死が告げられたばかりの生徒たちは、非現実的なことが起ころうとも思いの外信じ込める精神状態だった。この炎の中に人がいると誰もが信じて疑わなかった。

 誰もなすすべなく、炎は勢いを増す。

「どうしてアンが・・・」

 橋本真那が火を見つめながらその場に崩れ落ちた。

「もう許してよぉ!」

 真那の叫びをかき消すように真っ赤な悪魔がごおっと唸り声をあげた。

「真那、何が起きているの・・・?」

 真那の肩に手が添えられた。その方を見上げると、不安げな表情をした月丘杏珠がいた。

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