3-③ 愛をください
成瀬 満里奈 出席番号十一番
バスケットボール部 高等部入学
頭が痛い。最近ずっとこの調子だ。寝ている間に歯を食いしばっているようで、起きると顎が痛い。それに付随してか、頭痛がひどい。
近頃嫌な夢を見る。兄が大学受験に落ちた日の夢。しんと静まり返ったリビングに響く、兄のすすり泣く声。四つ上の兄は昔から優等生で、両親は劣等生の私には見向きもせずいつも兄にべったりだった。
中学の時に煙草を知り、家に帰らず先輩たちと朝まで遊び惚けていたのは、そんな両親にすこしでもこっちを見てほしかったからかもしれない。
大学受験に落ちたのは、兄にとって初めての挫折だった。プライドの高い兄は浪人という選択肢を一切考えていなかったようで、部屋に引きこもり時折大声をあげるようになった。高校教師の父は、もっと勉強を見てあげればよかったと自分を責め、母は毎日のように兄の部屋に声をかけ続けた。
私が家に帰らなくても、悪い人とつるんでいることを知っても、何も言わず見て見ぬふりだったくせに。私が数学で九十七点を取った時、「啓介ならこんなミスしない」と言って褒めてくれなかったくせに。
どうして私のことは見てくれないの。
父親のなけなしの金でこの学校に入学した。親心ではない。いい環境での高校生活で更生させようとしたわけでも、受験をしないと言った私にどうしても高校卒業の資格を取らせたかったわけでもない。
一年間引きこもって再受験すらしなかった兄をもう一度やり直させるための環境づくりに邪魔だった私を追い出しただけだ。
人を見る度に、全て悪いように見えてしまう。顔・勉強・性格・人気etc・・・全て兼ね備えた人間は存在しない。私を馬鹿にする人は許さない。でも、私を慕う人は絶対に大切にしてきたつもりだ。
有栖川藍が死んだと告げられた直後の昼休み、トイレでラメ入りのクリームチークをぽんぽんと頬骨の上に乗せ、なじませる。小麦色の肌によく合うオレンジブラウンのグロスを引き、んぱっと分厚い唇を合わせるのは江藤レミ。一足先にメイク直しが終わったのか、少し下がって待っているのは佐々木実音。実音とレミは私をわかってくれている。どんな言葉も同意してくれる。ここに居場所がある。
「知ってる?有栖川藍の母親と寮母の河田、学生時代の同級生なんだって」
「うっそまじ?カワちゃんって緑風出身なの?!」
ビューラーで長いまつげをあげながら言うと、その言葉にレミが大きくリアクションを取る。
「そうだよ、寮母って代々緑風出身者しかなれないって噂」
「まじかー。私だったら絶対ヤだけどね。寮母なんて召使いみたい」
「寮母のポストが空いたら外部生には一斉に手紙が出るとか」
「はぁ?外部生だけ?なにそれめっちゃ癪に障るんだけど」
レミは眉間にしわを寄せグロスをこちらに向けて振る。
「てかさ、有栖川藍殺ったのってカワちゃんだったりして」
グロスをしまいながらレミが呟く。先ほどまで後ろでつまらなそうに髪を梳かしていた実音がレミを見た。
「どういう意味?」
「だから、カワちゃんが藍の母親にいじめられててその逆恨みみたいな」
「えーなにそれこわー!」
レミはまだグロスをケースに差し損ねている。興奮してか、手が震えているようだ。
「確かにそれあり得るよね、私河田大嫌いだし、学園長にリークしてやろうかな」
そういうと、鏡越しの実音がうつむいた。私はすかさず実音に問いかける。
「ね、実音?実音も河田嫌いって言ってたじゃん?三人で証言すればあいつ辞めさせられるんじゃない?そしたらどっかで放浪してる卒業生がそのポストについて将来安泰~私たちも残りの二年半が有意義に過ごせる!みんな幸せじゃん?」
「・・・ごめん!私五限提出の課題やってないの気づいて全然話聞いてなかった!ちょっと落ち着かないから今からやってくるね!ほんとごめん!」
実音は愛想笑いを浮かべながらトイレから走って出ていった。
「もー実音ったらほんと抜けてるんだから!」
レミがトイレから半身を出してその後ろ姿に声をかける。
「いや、嘘に決まってんでしょ」
化粧品をポーチにしまいながら無表情で呟く。私の言葉にレミは笑顔をすっと消した。
近頃実音が私たち以外と仲良くしているようで、むしゃくしゃする。実音は私の、私たちの仲間のはずなのに。裏切らないでほしい。
きっと今も、保健室に四条サンのお見舞いにでも行っているのだろう。
ムカついて仕方がない。実音は私の友達だったんじゃないの?なんであんな箱入り猫なんかと?中身のないあんな金持ち一緒にいて楽しいわけないじゃない。内部生のお嬢とも外部生のダサいやつらとも違う、イケてる私たちだけが仲間じゃなかったの?
また、私は誰にも求められない。大声で笑う陰キャたちはそんな私を嘲笑っているように感じる。死ねばいい。生きてる価値もないのに。
六時間目は体育。前回までのバレーボールは実音やレミと隙を見てさぼっていたが、バスケになってから二人がやる気を出したため、独りでさぼることになった。私も二人と同じくバスケ部ではあるがほぼ幽霊部員。何の生産性もない部活なんてしたくない。体育館の隅でボールをくるくると指で回しながら、騒がしいコートをぼんやり見る。
先ほどからそろそろ交代しろという視線がうるさいが、直接言えないならこっちを見るな。
体育の授業はいつも同じやつらが悪目立ちしている。運動のできないやつらがコートの絶対に必要ない位置でふらふらとしているのは見ていてムカつく。いや、わかるだろ、そこ絶対にパス出せないじゃん。もっと動けよ。ほら、レミ困ってる。遠くにいた慧ちゃんが見かねてパスできる位置に大移動した。戦力外すぎる。周りを見る力が皆無だ。うっざ。
「マリちゃん上手いんだから入ればいいのに」
先ほどまでゲームに出ていた矢代蘭が隣に座り込んだ。くそ、めんどくさいやつに捕まった。少し動けば肩が当たりそうな距離感。近ぇだろ、パーソナルスペースにむやみに侵入してくるなよ。
近頃矢代サンが異常なほど私に絡んでくる。特別仲が良くない限り基本的には向こう側から距離を置かれることが多い私に、なぜ近づいてくるのか。心底苦手な人間だ。いつもは死んだ有栖川藍や従姉妹の四条菫と一緒にいるが、今は有栖川サンはいないし四条サンが保健室にずっといるので話し相手がいないのだろう。目を付けられてしまった。
「バスケって楽しいね!マリちゃんも一緒にやろうよ」
その少し幼げな言葉遣いにカチンとくる。この世の悪や穢れを一切知らないような箱入り娘。まるで世界は素晴らしいと心の底からの笑顔で言えるような無垢さ。ああ、腹が立つ。ふわふわした矢代サンの髪が二の腕にあたって痒い。お尻を浮かせて彼女から少し離れた。
矢代サンはたまに私にプレゼントをくれるが、それらは普通の学生では手を出せないような高価なもの、そして私の好みではないものだ。彼女が使っているような可愛らしいシュシュや制服にまるで似合わない腕時計やブローチ。とにかくずれている。要らないと言っても、金持ちアピールのように色んなものを差し出してくる。金持ちの何が偉いのだ。見下すな。本当に要らない。見返りも求めずに、拒む相手にどうして高価な品を差し出すのか。苛立ちが這い上がってくる。
しかし、曇りなき眼でのぞき込むその女はこの私の心にある悪意をも知る由もない。この悪意を言葉の刃物に変え、彼女を傷つけようと振りかざしたとしても、彼女に届くことは無いのだろう。
四条サンは病んで保健室にいるのに矢代サンはいつもと変わらないくらい元気。有栖川藍と仲良しだったのに。ふん、所詮その程度の友情ってことね。
部屋に戻ると、脱ぎ散らかした部屋着もめくれたままだったベッドの掛け布団も、そんなことはまるでなかったかのように綺麗に片付けられている。
「怖。」
半年の生活で慣れたはずの環境でも未だに不愉快だ。実家では荒れた部屋も脱ぎっぱなしの部屋着も食べかけのポテトチップスも誰にも触られることはなく、部屋を出てから戻るまで、そこは時間が止まっていたかのようだった。騒がしい外から戻ったそこは、誰にも干渉されないこの世でたった四畳しかない私だけの空間だった。
今は、それすらない。自分の部屋なんてない。完全に一人になれる場所がない。孤独を感じられないが故の孤独。
さっきまで、別に有栖川藍と仲良くなかったくせにルームメイトの西田桃乃が部屋に引きこもってとんでもなくうざかった。可哀想な私可愛い、とでも思っているんだろう。あいつはそういうやつだ。キモイ。今は保健室に追いやったから部屋が広々使えて快適。もう戻ってこなくていいよ。
部屋の清掃の時はいつもハンカチにくるんだスマホをベッドの下に隠している。綺麗に整えられたベッドに制服のまま倒れこみ、ノールックでベッドの下の収納を開ける。右手だけを降ろし感覚を頼りにハンカチを探すが、見つからない。もう少し奥か。確か右奥に入れたはずだ。
ない。・・・ない?そんなはずはない。心臓に冷水をかけられたような悪寒が走る。体を起こし、ベッドから飛び降りる。今度は目視で確認する。家から持ってきた小さな加湿器、フォームローラー、ジェルネイル用のUVライト、メイク道具の予備、それらが散乱する薄い収納の右奥。やはり、ない。
望みがないことを確信し、床にへたり込む。全身が脱力した。
肚の底から出るような言葉にならない叫びを上げる。まるであの時の引きこもり兄貴が深夜に突然上げる雄たけびのような。
「河田だ」
許さない。スマホがないと生きていけない。この時代に取り残されたような空間の中で、唯一自分が世界とつながっていると安心できる場所なのに。脳に蕁麻疹ができたような、掻きむしりたくなる衝動が襲う。無理。無理無理。絶対に無理。
取り返しに行くしかないか。レミたちと話した藍殺害説をかざして脅せば何とかなるか。
『一年緑組成瀬さん、成瀬満里奈さん、至急生徒指導室に来てください』
寮舎内に放送が響いた。手遅れだ。河田のやつ、もう生徒指導部にチクりやがった。ほんと、死ね。
「はぁ?!私の?そんなはずないわよ!何言ってんの?」
生徒指導室に顔を出すと、三人の大人がいた。もう来慣れた場所だが、今日はいつもの生徒指導部の教師ではない。
スーツを着たその大人たちの前に、ジップロックのようなものに入った私のスマホがあった。
「・・・確かにこれは私のスマホだけど。池に落ちてた?・・・いや、昨日の夜にも使ったしーって、・・・先生これは一旦おとがめなしでお願いできる?緊急事態だもん」
「あのね、成瀬さん。この携帯電話に、有栖川さんの写真が入ってた。あなたがあそこにいないなら、そんな写真を撮れる訳ないでしょう。それに、あの池の周辺はあの事が起きてからずっと封鎖されているの。あなたが言う通り、事件の夜に使用した形跡があった。あの夜から藍さんが発見されるまでの間にあなたが池の近くにいたという物的証拠なの」
「ブッテキショーコ?なにそれ。そんなにあからさまなショーコを私がわざわざ残すわけなくない?そこまで馬鹿じゃねぇっての」
大人たちは私を有栖川藍殺害の犯人だと決め込んでいるようだ。
「あーもう気持ち悪い!なんなの?ここの生徒もあんたらも。私をすぐ悪者にしようとする!死ねばいいのに!・・・あっ、ち、違うからね?ほんとに殺そうだなんて思ってないから!」
しまった。自らの発言に大きく狼狽える。大人たちは目くばせをし、停学書類を目の前に置いた。
「仮に、あなたが関わっていないとして。電子機器を持ち込んでいたのは事実でしょう。これは立派な校則違反です。よって、こちら側であなたの処分が決まるまではご実家での謹慎処分となります」
一方的に突き付けられた処分に、呆れた。なんだ、この人たちは私に罪を擦り付けて事を収めようとしてるんだ。
「私がいない間に、私を犯人に仕立て上げようって魂胆ね?本当は内部生の奴らの中に犯人がいるんでしょ!それを隠ぺいするために私に擦り付けるんだ?生贄ってわけね?図星でしょ。事実、私はあの夜池には行ってない。それが事実なの。有栖川藍を殺してないし、スマホを落としたのは私じゃない。冤罪を仕立て上げたあんたたちも真犯人と同罪だから!わかってんでしょうね?!」
大人たちは黙り込んだ。驚きからか、呆れからか、はたまた図星を突かれたからか。
加害者扱いされるのは嫌だ。そんな被害者になりたくない。学園に居続けたいわけじゃない。
ただ、あの窮屈な家に帰るのは嫌だ。
いつからこんな性格になってしまったのだろう。自分の中に残る良心が、時々顔をのぞかせる。そんなときは決まって悪いことが起きるのだ。お母さんのお手伝いをしようと思った時も、病んだお兄ちゃんに声をかけた時も、ない優しさを振り絞って西田に追加のさつまいもを渡した時も。
誰も私を見てくれやしない。何をやっても裏目に出る。これは全部周りの環境が作り出した性格だ。誰かと比べて、決めつけて、私をダメな子扱いするから、悪者扱いするから、だからこうなったんだよ。
私は被害者だ、なんてダサいことは言わないけど、自分たちに責任がないのか一度考えてみろ。私だって、最初からお父さんやお母さんやお兄ちゃんが嫌いだったわけじゃない。最初からクラスメイトを下に見ていたわけじゃない。
成瀬 満里奈 Fin.
シンプルな藍色の背景の中央にスレッドの名前が羅列されている。
【数学田中先生】【古文宮内先生】【中間考査結果】など、大切な内容を共有するためにあるように見せかけたスレッドも開けば人の悪口や噂話が蔓延っている。
新しく、一つのスレッドができた。
【有栖川藍殺人事件】
学内で人が死んだことは、既に全校生徒の話題の中心だ。生徒たちは待ってましたと言わんばかりに、そのスレッドに書き込みをする。
<え、もしかしてあの?><有栖川家の令嬢が学園内で不審死><これ学園存続の危機じゃない?>
代々緑風学園に通う有栖川家は有名人で、あらゆる憶測が飛び交う。
<第一発見者がうちのクラスの子で、白いルームウェアが真っ赤に染まってたって><池の上に浮かんでたって聞いたよ、池の水が赤く濁ってた><いや、池は普通だったよ。教室から見えるもん><バラバラ遺体ってのはさすがに嘘?><転落死なの?自殺?><池の近くに行くと、黒髪の白いルームウェアを着た女の霊が出るって><高校生にもなってそんなこと言ってんのか>
何が本当で何が嘘か、そんなことよりもエンターテインメント性を求める生徒たちは、この異常事態に興奮しきったように書き込みを続ける。
<自殺だとしたら動機は?><あの子いつも図書館にいたじゃん、友達いないんじゃない?><いじめられてたとか?><有栖川家の娘を?そんな命知らずいるかしら> <もしかして掲示板でいろいろ書かれたから?>
止まらないスレッドを見ながら、一人の少女がにんまりと満足げに微笑んだ。
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