1-① 魔物ちゃん

西田 桃乃   出席番号十二番

         軽音楽部   高等部入学


 やわらかな木琴がコロコロとした音色で朝の訪れを報せる。夢の世界が崩れていく。

 この学園に入学して半年、いつの間にかその音を聞くと自然に目が覚めるようになっていた。

 枕元に置いたはずのロップイヤーのうさぎのぬいぐるみがベッドの下に落ちている。パステルブルーの透き通る瞳がきゅるりと艶めく私のお守り「みるくちゃん」。心の中でごめんねを言いながら定位置に戻し頭を撫でた。

 昨日はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。付けっぱなしで眠ってしまったコンタクトレンズが目に張り付いて視界が白くぼやける。夜中までにらめっこしていた楽譜は、部屋の真ん中に向かい合わせで置かれたデスクの上。そこに自分で置いたのかどうかすら、記憶が曖昧だ。

 先ほど見ていた夢の内容もどうしてだかすぐに曖昧、いやもう忘れてしまった。床には昨日着ていたピンクベージュの丸襟フリルブラウスと黒いサスペンダー付きのティアードスカートが広がっている。

『ごきげんよう』

 扉の向こうの廊下からは、すでにクラスメイトたちが朝食を摂りに一階の食堂へ向かう音が聞こえる。

 部屋の反対端にあるベッドでは、ルームメイトの成瀬満里奈が不機嫌そうな顔でスマートフォンを操作していた。

 学園内への電子機器の持ち込みは禁止されているが、彼女は毎夜遅くまでブルーライトに照らされている。それが私の睡眠を阻害していようとも、彼女は意に介さない。部屋には定期的に清掃が入るため、その時はハンカチにくるんでベッドの下の収納に隠しているのを私は知っている。

『ピーチ姫、まだ?』

 部屋をノックされ、成瀬さんがこちらをちらりと睨んだ。毎朝親友の糸井すずめ、(愛称:チュン)が私を部屋まで迎えに来るのだ。ピーチ姫は『桃乃』から派生した仲間内でのあだ名。姫と呼ばれるこそばゆいような気恥ずかしさはこの半年でもうなくなった。

 目をこすりながら、扉を開いた。名前に似合う、雀のような焦げ茶色の髪の小柄な少女がむすっとした顔で立っている。色素の薄い髪と瞳、地黒の肌とそばかす。しかし上を向いた低い鼻が目立つ。

「ごめんチュン、二分待って」

 寝起きの悪い成瀬さんを極力苛立たせないよう、急いで支度する。

 お風呂上がりに結んだ三つ編みをほどき、ビジューフリルのリボンで耳の高さにツインテールをつくる。お気に入りの手鏡で確認すると、ウェーブがかかった黒い髪によく似合っていた。

うん、私は今日も可愛い。

 寮舎内では制服の着用が義務付けられていないため、ワンピースタイプのルームウェアのまま、カードキーを首から下げて部屋を出た。


 緑風学園は、女の子なら一度は憧れたことがあるに違いない。

 入学が決まった時は周りの全員を見返せた気がした。中学の時、人気子役の立花春華が入学したことで更に話題を呼び、緑風学園への入学はテレビの中の世界に踏み入れるような底知れない高揚感があった。

『努力はあなたを可愛くする』

 それは、志穂さんという近所に住んでいた十個上のお姉さんから教えてもらった言葉。私の座右の銘だ。志穂さんはロリータファッションを好んでいて、私は幼い頃から彼女の可愛らしいお洋服やキラキラのメイクに憧れていた。

 スキンケアやヘアケア、ダイエット法、裁縫や料理も志穂さんが教えてくれた。学校で辛いことがあった時、志穂さんはいつも寄り添ってくれていた。今は寮生活で会えないし連絡も取れないけれど、今の私がいるのは志穂さんのおかげ。みるくちゃんも志穂さんからもらった入学祝いのプレゼントだ。

 緑風に通い、姫と呼ばれる今の私はきっと、志穂さんのような可愛い女の子に近づけている。

 上品な藍色のブレザーの左腕にある腕章は、緑風学園のシンボル。その腕章の下にお気に入りのレースをあしらい、私らしさを演出する。ブラウスの襟や袖口にも同じレースを縫い付けたが、今のところ先生からのお咎めはない。


 朝と夜は寮の食堂で食べることが決まっているが、昼や軽食はカードキーに連携されているプリペイド機能で、購買や校内の食堂で自由に選んで買うことができる。しかし、食堂は値が張るため、私たちはいつも購買で買ってきたおにぎりやサンドウィッチを教室で食べている。私のお気に入りはパウチのアロエヨーグルトとスティックのチーズケーキ。甘いものばかりでおやつみたいと言われたが、腹ごしらえは朝と夜ですればいい。

 同じグループにいる情報通の正田弥生 (愛称:マーチ) が、不定期に行われる食堂の半額セール日を事前に仕入れてくるので、そういった時だけみんなで食堂に行くようにしている。

「あの二人って、やっぱ付き合ってるよね」

 教室の隅で机をくっつけていつもの四人で昼食を摂っていると、小声ながらも好奇心が満ち溢れたポップな口調でマーチが言った。

 マーチは大きすぎる黒縁眼鏡を持ち上げながら色素の薄い乾いた唇をニヤつかせ、ほらほら、と窓際の席を指す。湿気であちらこちらにハネるボブヘアーで隠したふくよかな頬にはそばかすが散らばっている。目の前には焼きそばパンとクリームパンと肉巻きおにぎりが三つといちごみるく。だからそんなにぶよぶよになるんだよ。規則正しい生活が徹底される寮生活で、どうすればそこまで不摂生を極めたような見た目になるのか。今日は午後に家庭科の調理実習があるのだから、せめて少しでも減らすべきだ。

 彼女の視線の先にいるのは、先週弓道部の大会で優勝し学園内でも一躍有名になっていた片桐慧。そして弓道部のマネージャーをしている月丘杏珠だ。

 月丘さんは片桐さんの膝の上に座り、手に持っている紙パックのロイヤルミルクティーを当然のように二人で共有して飲んでいる。

「マジで顔が良い」

「もはや別の次元の人間なんだが」

 チュンが恍惚とした顔で呟く。

「まぁ、うちらなんて所詮モブだから」

 自嘲的に笑うマーチの言葉に、こっそり口元を歪めた。「モブ」だなんて、何故恥じらいも屈辱もなしに言えるのだろう。そもそも、自虐に「うちら」と仲間内を全員含んだ言い方は如何なものか。嘲笑うなら自分自身だけにして欲しいものだ。そばかすやニキビや傷んだ髪、そしてだらしない体をそのままにしているなんて、同じ次元に立とうとすらしていないじゃないか。

 私たちのグループにも内部生が一人いるが、マーチの自虐にプライドもなく「ほんとそうだよね」と頷く田口文加(愛称:ぶんちゃん)だけ。銀縁の眼鏡の奥の眼を細めて控えめに笑っている。睫毛が長くて肌も白いのに、一つに纏められたなんのアレンジもないまっすぐな黒髪とぼさぼさの眉毛が垢抜けない。

 ぶんちゃんは特別お金持ちというわけではないが、超難関と言われる緑風学園中等部に学力入学した数少ない秀才の一人だ。ちやほやされたっていいような肩書きだが、彼女は自己顕示欲が少しもないようで、こんな地味な場所で自分を蔑み笑っている。よく言えば謙虚、悪く言えば向上心がない。

 最初に仲良くなったマーチ、ぶんちゃん、そしてチュンの三人と半年も行動を共にしているが、私の居場所はここじゃないんじゃないかと常々思う。162cm40kgのモデル体型の私と、垢抜けない友人たち。まるでお姫様とそれに集まる小鳥のよう。私はむしろ、あの片桐慧や月丘杏珠と一緒にいるほうが似合う。

 アイスコーヒーのような色に輝くショートカットヘアに、切れ長な瞳。身長が高く、程よく筋肉のついた腕と脚。冷たい印象を持たせるクールな見た目とは裏腹に、誰にでも平等で優しい片桐慧。祖父が開業医らしい。

 胸元まである栗色の巻き毛ときゅるんと丸い瞳、ちょこんとした小さな体は白く折れそうに細い月丘杏珠。窓から差し込んだ光に照らされたその姿はフランス人形のようだ。杏珠の母は有名女優の甘野ほまれ・父は出版社の社長。

 最早アニメのようなキャラ設定。この二人が、私のグループでの定番のトークテーマとなっていた。私はいつも置いてけぼりで、月丘さんと片桐さんに理不尽な嫌悪を抱いている。

 一番のファンと自称するチュンは二人を間近で見るためにと弓道部に入部し、ぶんちゃんとマーチは運動は無理と言って美術部に入った。こっそりと彼女たちをモチーフにした絵や漫画を描いては私たち仲間内だけで共有する。

 私は部活動紹介で一番かわいいと思った軽音楽部に入部した。やたらと活動に熱心で、一番遅くまで残って活動している部活だとは露知らず。

「弓道部の部室、人通りも少ないしちょうどいい隠れ場所になると思わない?」

「大会での優勝のご褒美にって色々、ね?」

 などと陳腐な少女漫画にありそうな好き勝手な妄想を毎日のように披露しあっては、本人たちに聞こえてしまいそうな声量できゃあきゃあと騒ぐ。教室内で一番大きな声を突然上げるものだから、近くにいた数人が怪訝な顔でこちらを見た。それに気が付かないところが恥ずかしい。本人たちと話す時は片桐さん、月丘さんと他人行儀に呼んでいるくせに、内輪では好き勝手呼び捨てにしているところも。

 小学生レベルの妄想から、本で齧った程度の知識でのディープな想像。本人たちに知られたらドン引きされてしまうに違いないような話を同じ教室でよくできるものだ。きっとこれらも彼女らモチーフの漫画のネタとして使われるのだろう。

 もういいや。私はそんな話に興味がない。私は仲間じゃないですよと、誰にともなく主張するよう話の輪から視線を外す。

「あーあ、来年の部屋分けでは同室になれたらいいのに」

「ムリよ、後期から内部生と外部生は同じにならないようになったじゃん」

「ぶんちゃんは可能性あるよね、いいなぁ内部生は」

「私は同じ部屋は近すぎて嫌かもなぁ」

「わかる、同じ部屋じゃなくていい。あくまでも別次元の住人でいてほしいの。彼女たちが同室になって、その壁になれればベスト」

 マーチの口癖だ。壁になりたい。彼女達のグループがよく集まっている談話室の壁になりたい、弓道部の部室の壁になりたい、二人の部屋の壁になりたい。

 寮の部屋は二人一部屋の合計八部屋。前期の部屋割りは内部生と外部生がペアになる形になっていたが、後期からは1~4号室が内部生、5~8号室が外部生という風に分けられた。

 内部生と外部生の間に何か差別や区別はないが、例えるなら共学の学校における男女みたいな、そういう認識の差があった。気にしなくてもいいはずなのに心の中に、あの子は内部生だから、という偏見が残る。内部生と外部生で仲良くしているとなんとなく特殊に感じる。みたいな。


「ねぇ、うるさいんだけど」

 いまだに妄想話で盛り上がっていたチュン・ぶんちゃん・マーチが水を打ったように静まり返る。周囲にいた他のクラスメイトも息を潜め、こちらを伺っている。数人が逃げるように教室から出ていくのが見えた。

「そこ、マリの席なんだけど?」

 今朝あった席替えのせいで、彼女たちの席まで把握しきれていなかった。寝起きとは違い、整えられた美しい成瀬満里奈が、蛇のように鋭い視線をマーチに突き刺し、胸の下まで伸ばした黒い髪を撫で付けながら舌打ちをする。後ろにいる派手な髪色の二人が私たちを見てほくそ笑んだ。

 先程までの興奮とは別人かのように、モブたちは席を立つ。もちろん、私も。ほんときもい、そういう声を背中で受けながら、そそくさと教室を離れた。

 家柄の良さだけがクラスのヒエラルキーに影響する訳では無い。成瀬さんを含めた先程の派手な三人組も私たちと同じく外部生だ。しかし、発言力や圧力が教室を制するのはどこの学校にいても変わらない。彼女たちにとって、モブキャラは存在すらも疎ましいらしい。周りのクラスメイトはそれに気づいていないのか、見て見ぬふりをしているのかのどちらかで、面倒事に巻き込まれることを避けている。私までまたこんな扱いだ。


 逃げ込むように別棟にある図書館に入る。雨上がりの肌寒くなってきた十月後半の気候とはいえ、教室から速足で来た私たちには図書館の暖房は暑い。

「ほんとになんなのあいつ!女王様にでもなったつもり?!」

 三階建て吹き抜けの中央にある席に座りながらチュンが毒づく。まあまあ、となだめるぶんちゃんを尻目に、チュンの暴言は止まらない。

「大体あいつ、金持ちでもないし頭もよくないのに何でここにいるの?マジで無価値!退学になればいいのに!ほんときもい!」

 成瀬さんは学力入学ではないらしい、親が家中の金をかき集めて入学させた、というのも、情報通のマーチが仕入れてきた情報だ。出どころは不明なので真偽は定かではないが。

 もしかしたら、と思い、図書館の奥のデスクを見ると、案の定、有栖川藍がいた。ああ、今日もお美しい。同じクラスの彼女の完成された美を羨みながら、生きる世界の違いを実感する。彼女も、片桐慧や月丘杏珠と同じく初等部から緑風学園に通っている内部生だ。

 グループのメンバーが片桐さんや月丘さんのファンなのと同じくらい、私は藍様のファンだった。ファンというか、崇拝している。あんな下品な妄想の餌食にもしたくはない。美の権化のような彼女は私のあこがれだった。私たちとはなんというか、体を構成するなにもかもの価値が違う。

 ふと、目が合った気がした。顔を本の方に向けたまま視線だけを上げた彼女は上目遣いのようで心が蝕まれるほどに眩しく、反射的に顔を逸らす。頬が熱くなったのはきっと空調のせいではない。

 藍様は本を閉じ、図書館から出て行った。一挙手一投足、巻き戻して見たいくらいに優雅だ。

「みた?藍様、今日も超美しかった!」

 そういうと、まだ怒っていたチュンが、ああ、と呟く。

「そうね、あの人とんでもなく綺麗で絵画みたい」

「あの子はサラブレッドだし」

 片桐さんや月丘さんの話をするときほどの熱量が返ってこない。

 でもやっぱ慧と杏珠の熱い関係性に勝るものはないよ。だってこの前も・・・。話が変わった。なんとなく、イラついた。藍様はもっと素晴らしい、女神様のような存在だ。下劣な百合妄想と一緒にしないで。


『魔物ちゃん』

 そう聞こえた気がして肩に力が入る。

「桃乃ちゃん」

 図書館の入り口から矢代蘭が覗いている。なんだ。まだ少し心臓が早い。

「藍いないよね?」

 蘭さんは藍様の親友の一人で、軽音楽部に属しているため私とも関わりがある。天真爛漫でお嬢様らしすぎないのがいいところで、こんな風に普通に話しかけてくれる。

「うん、さっき出てったよ」

 平静を装い返答する。蘭さんは、そっか、と図書館から出ていった。

「ピーチ姫、どうかした?なんか急に表情暗いけど」

 マーチの言葉に首を振る。そう、私はピーチ姫。

 

「ごめん、私トイレ行ってからもどるね」

 教室に戻る道中、三人から離れトイレに駆け込んだ。誰もいないことを確認し、一番奥の個室に潜り込む。

 はぁ。扉にもたれかかり大きくため息をついた。さて。

 トイレの床に跪き、ポッケに入れていたスプーンを喉の奥に押し当て、先ほどの昼食をリセットする。

 志穂さんに教えてもらった、一番手っ取り早いダイエット法。少し苦しいけれど、一度は食欲と味覚が満たされるからつらさは少ない。六時間目に調理実習があるから、無駄なカロリーは摂取したくない。

 体の中に入れてしまったものも、吐き出せばなかったことになる。この行為が終わると、すっきりするし安心感もある。私は太っていないと、努力していると、実感できる。

 スカートから伸びる細長い太腿を見ながら思う。この学園で、私はどんな立場だろう。すれ違うたびに振り返られた、中学の頃の私とどれくらい差があるだろう。


 六時間目。スイートポテトデニッシュとガトーショコラが今回の調理実習のメニューだ。私の班はスイートポテトデニッシュの担当。

「見て見て、慧と杏珠が喋ってるよ、班違うのに」

 隣の班のチュンが私に囁く。そうだね、と笑顔で返しながらも、私は興味ないんだって。と心の中で反抗する。友達同士なのだから喋っていても不思議じゃないだろう。なんでも恋愛に結び付けるなんてお花畑にもほどがある。

 自分の班に向き直り、シンクにボウルを置いてさつまいもを洗う。

 ガトーショコラと言えば、中学の時のバレンタイン、クラスメイトの女子がこっそり持ってきて配っていたっけ、と思い出した。

 水玉模様の可愛いラッピングに包まれた、丸い小さなガトーショコラ。私も、俺も、と教室の真ん中に群がる生徒たち。

『全員分あるから慌てないの~』

 と、嬉しそうな高い声を聴きながら、クラス全員分作るなんて大変だなと思った。既にもらった生徒たちが嬉しそうに口に運ぶそのざらざらとした表面や薄くかかった白いお砂糖が食欲を誘う。

――ねぇ

 それを先に食べたくて、開いたお弁当には口を付けず自分の番を待った。私も、とあの輪に入るのは少し恥ずかしくて、あの子が私に渡しに来てくれるまで。

――ねぇ、受け取ってくれる?

 顔を上げると、その子が私に差し出していた。ほかの子にあげていたものより、ひと際大きなそのラッピング。はにかむような笑顔と、それを見守るほかの女子たち。

――ねぇってば!

 肩を押され、我に返った。洗っていたさつまいもが、ボウルに勢いよく落ちて水がバシャンと跳ねる。押された方向を見ると、成瀬さんがさつまいもを私に差し出しながら呆然としていた。彼女の顔が少し濡れている。

「は?」

 成瀬さんの目が鋭くなる。私が落としたさつまいもが生んだ水しぶきが彼女にかかってしまったのだとようやく理解した。

「ごめんなさい、手が滑っちゃって」

 慌てて謝るのもつかの間、彼女は近くに置いてあった鍋を掴んだ。

 何が起きたのか理解することよりも前に、視界がぼやける。大きな水音で周囲の音も先ほどまでの回想もかき消された。

「ごめんなさい、手が滑っちゃって」

 成瀬さんの笑い交じりの声と、髪から滴る水滴の音だけがしんと静まり返った家庭科室に響いた。

 

 あの後、濡れた制服を自室で着替えたが、もう一度家庭科室の成瀬さんと同じ班に戻るのはどうしてもできずいつものトイレに閉じこもって六時間目の終了を待った。

「お砂糖が少なすぎたんじゃない?」

 少しすると、早めに授業が終わったのか、クラスメイトと思われる声がトイレに入ってきた。

「そうねぇ、レシピ通りのはずなんだけれど」

 この声は、藍様だ。藍様と、ご友人の矢代蘭さん、四条菫さん。ゆったりとしたテンポの丁寧な会話。

「だけどあんな騒ぎがあったら、お菓子の味よりもそっちが頭に残っちゃうわ」

 心臓がはねた。当然、さっきのトラブルを藍様も見ていたのだ。

「本当に、ああいったのは嫌ね」

 藍様にも嫌と言われる成瀬さん。みんなの共通認識での敵なんだから、停学か退学になればいいのに。

「ほんと、困った人たちだわ」

 たち?

「外部生の方々って、どうしてあんなに野蛮なのかしら」

 違う、野蛮なのは成瀬さんたちだけだ。私は違う。一緒じゃない。

 弁明もできぬまま、藍様たちは出て行った。

「なにそれウケる」

 今のやり取りがショックで、個室から出られないでいると、笑い声交じりの声がトイレに入ってきた。成瀬さんだ。きっと先生に叱られただろうに、どうしてそんなに楽しそうな声。

「魔物ちゃん?」

 頭を殴られたような気がした。気管が細くなったように息がしづらくなった。鼓動がうるさい。細く冷たい汗が背中を撫でる。

「中学の時のツレがさ、西田と同じ学校だった子と今学校一緒なんだって。クラス写真送ったら西田のこと知ってるって言うから」

 脳裏に、しんと静まり返った教室とこちらを見る無数の瞳が蘇った。悪い好奇心の瞳の中で太った魔物が惨めに俯いている。

「マジぃ?世間せま~!」

 成瀬さんの友人の江藤レミがぎゃははと下品な声で高らかに笑った。

『魔物ちゃん』

 それは、中学時代の私のあだ名だった。桃乃という名前が派生してできた最低なあだ名。

 デブで肌荒れもひどく、気が弱く友達もできず、学校で浮いていたあの頃の自分。レースをあしらったブラウスの袖口から覗く手首の傷跡。あの頃は自分なんて死ねばいいと思っていた。みんな私を馬鹿にした。愛してくれる人なんていなかった。この世に不要な存在だった。

 バレンタインの日、私に差し出されたのは失敗して焦げ付いたガトーショコラ。

『魔物ちゃん、ごみの処理お願いね~』『いっぱい貰えてよかったね~みんなと同じ大きさじゃ足りないでしょ』

 でも、私は変わったんだ。

『努力はあなたを可愛くする』

 魔物ちゃんに志穂さんは魔法のような言葉をくれた。私は、そこから志穂さんのようにかわいい女の子になるために努力した。

 毎日ランニングしてメイクやスキンケアも必死で勉強した。走っているところをクラスの男子に見られた次の日は教室に入るなり大笑いされた。ブスが努力したって無駄だと女子にもクスクス笑われた。

 しかし努力は確かに私を変えた。体重は中学三年生の一年間で十五キロ減り、くせっ毛も縮毛矯正で真っすぐにした。あの頃の自分とは別人かのように変身した私は、まるで漫画の主人公。

 でも。

 努力して変わっても、過去は変えられない。その過去を忘れることも消すこともできない。

 大声で笑う成瀬さん達の声と、中学の時のクラスメイトの声が脳内で重なった。

 志穂さん、私ダメみたい。可愛くなっても人間にはなれないみたい。


 声が遠のいたのを確認し、個室から這い出る。

「ひっ」

 鏡に、目は赤く頬はこけ顔は土のような色をしているやせ細った魔物が映っていた。


西田 桃乃 Fin.


 ――完成!

 美術室から嬉々とした声がする。

 二人の少女が紺色のスカートを床に無防備に広げ、大きなキャンバスに隠れるように座っている。

「力作だね」

 青い表紙のノートを、最初のページからじっくりと眺める。最後のページまで到達した彼女たちは目を見合わせ、きゃっきゃと騒いだ。

「こら、何してる」

 ガラッと音を立て美術室の扉が開かれる。二人の少女は身を強張らせた。

「なんてね」

 雀のような焦げ茶色の髪の少女が両手を顔の横でひらひらとかざす。

「なんだ、チュンおどかさないでよ!」

 田口文加と正田弥生は気が抜けたように床に突っ伏した。

「ピーチ姫は?」

「わかんない、家庭科終わってから見てない」

「相当まいっちゃったんだろうね、可哀想に」

「しかも成瀬さんと部屋も一緒でしょ。最悪」

 そう言いながら、糸井すずめは青い表紙のノートをめくり始めた。

「大好きな藍様が掲示板であることないこと言われてるのもだいぶキテるんじゃない?」

 緑風学園にはネット上に一部の生徒しか知らない掲示板がある。SNSを取り上げられた現代の子供たちにはそういった発散の場所が必要不可欠なようで、特に外部生たちは部屋に設置されたPCからこぞってそのサイトに逃げ込む。

「有栖川藍って、有名人だから多少の有名税っていうの?叩かれたって仕方ないよね」

「そうかな、あんまりよくないよ。人の悪口ばかり言うなんて」

 すずめの言葉に文加が優しく反論する。

「だって、成瀬満里奈みたいに大きい声で悪口言うやつもいるんだよ。一緒じゃん?どこで言うかの違いだけ。真に受ける方が心が弱いんだよ」

 そうかなぁ、と文加は呟く。すずめは、そうだよ、と言ってノートをまためくった。

「大丈夫だよ、一線超えたら死神様が特定してくれるから」

 緑風学園の掲示板には、死神様と呼ばれるアカウントが時折出没し、投稿者を特定するという噂がある。

「だよね、正義の味方」

 弥生の言葉に、すずめはへらへらと笑った。

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