【六】ラグランジュ5(其の二)

 アビーは路地裏を走っていた。建物の影で日光は当たらないが、路地裏には潮の匂いが混じった蒸し暑い空気に満ちていて、息を上がらせる。


「くそっ!」


 ゴミ箱を蹴散らし、アビーは悪態をつく。行く手に小銃を構えた兵士が現れる。五人目。体勢を低くした頭上を銃声が抜けていく。二発、三発。四発目が放たれる前にアビーは兵士に走ったそのままの勢いで飛びかかり、膝を腹にめり込ませて押し倒す。そしてそのまま勢いを落とさず走り去る。


 アビーは取り囲まれつつあった。どこから嗅ぎつけたのか、朝からずっと追われている。宇宙軍だ。連中は通信管理局の連中に次いで立ちが悪い。市街地でも平気で小銃を振り回す。


 銀色のARSリングを操作する。だが仲間に連絡しても殆ど応答が無い。既にやられているのだろう。情報が、計画書が漏れたとしか考えられない。


 アビーは最後に、シェラトに連絡をした。我々アンチの協力者で、計画の実行に必要なオラクルを提供を約束して人物。しかし応答は無い。


 ヤツだ。シェラトが裏切ったのだ。アビーはそう確信した。昨日、オラクルの一台を受け取るはずだったのにヤツは現れなかった。そして今の状況。


「あの野郎ッ!」


 再び現れた兵士をアビーは義手の鞭で倒すと、宇宙軍の包囲網を突破し、いずこかへと姿を消した。




  —— ※ —— ※ ——




 昼になった。ルクスは再び食堂でお粥を食べ、そして建物の屋上へと上がった。宇宙軍駐屯地が一望できる。長い滑走路がVの字型に伸びている。ここに垂直発射式の発射台は無い。軌道エレベータの近傍なので、ここからは宇宙へは飛んでいけない。一旦洋上に出た後、宇宙へと飛ぶのだ。


 滑走路には巨大なロケットエンジンを装着した宇宙往還機が駐機している。ロケットは軌道エレベータに比べて打ち上げコストは高いが、すぐに宇宙へ上がれるというメリットがある。軌道エレベータはスペースポートまで七日の行程だが、ロケットなら十分で到達する。接舷の時間を含めたとしても一時間は掛からない。だから機動力が重視される宇宙軍では今でも多用されている。


 屋上を取り囲むフェンスに寄り掛かる格好で、ニハルがぼんやりと滑走路を眺めていた。手には缶コーヒー。赤道直下の日射しは強い。首筋から胸元へと汗が滴り落ちる。だがニハルは特に意に介さず、ぼんやりとしている。


「暑くないのか?」


 ルクスは近づき、声を掛ける。ニハルは視線だけをルクスに投げた。疲れた表情を隠そうともしない。


「その様子だと随分と絞られた様だな」

「全くよ……アンチなんて知らないっていうのに、連中しつこいったらありゃしない」


 オラクルの開発者ということで、ニハルもアンチの協力者ではないかと疑われていたのだ。きっとニハルの中の政府キライポイントがぐっと増大したことだろう。


 結論からいえばニハルの疑いは一旦晴れた。宇宙軍の電子担当スタッフがオラクルを解析した結果、開発者のニハルも知らない機能が付与されていることが判明したからだ。


 それは記憶への干渉機能だ。本来オラクルが新機能として搭載した感情干渉機能は、脊髄神経を経由して脳の大脳辺縁系に作用する。それに対して記憶干渉機能は海馬と大脳皮質に作用する。技術的には古くから存在はする。しかし十五年前の事故以降、安易な記憶へのアクセスはタブー視されている。覗くだけならまだしも、書き換えに関してはどんな影響が出るか分からないからだ。


「まさかこんな機能が実装されていたなんて……信じられないわ」


 ニハルは親指の爪を噛む。眉間に皺が寄っている。彼女からして見れば、開発者の自身が知らないところで家族を結果的に死に追いやった機能が実装されていたのである。ショックだろう。


「社長はなんでこんな機能を実装したんだろうな」

「分からないわ。でもこんなことをする人には見えなかった……良い人だと思っていたのに」


 会社や社長の自宅を捜索した結果、シェアト社長がアンチの協力者であり、またオラクルに記憶干渉機能を実装したことはほぼ確実視されている。彼の私室には脳科学の本——とりわけ記憶研究の資料が山のように残されていた。たぶん何かが、彼を駆り立てたのだろう。


「貴方もラグランジュ5へ行くのね?」

「正直、記憶が無いから役に立つかは分からんけどね。何せ記憶が無い……もしかしてオラクルを使えば、記憶が戻ったりするのかな?」

「止めた方がいいわ。途中でエラー吐いたら、貴方廃人よ?」

「そっか」


 ふわりと、ニハルがルクスに抱きついてきた。汗ばんだ肌同士が触れあう。ニハルの両腕がルクスの背中に回され、柔らかく爪を立てる。


「嘘。今すぐ記憶を取り戻して優しくしてよ」

「……前のオレは、そんなに優しかったのか?」

「私に利用価値があったからね。とても優しかった」

「そんなんでいいのかよ」

「そういう嘘でも、欲しくなるときがあるのよ。前の貴方はそういうのにすごく敏感だった」

「今のオレはそうじゃない?」

「誠実ではあるわね」


 ルクスには良く分からない。ただ、たぶん今のニハルは泣いていて、それをどうにかしてあげたいとは思っていた。だから、その頭を静かに抱き締めた。


 二人の外では、轟音が鳴り響いていた。滑走路上で宇宙往還機が加速し始めていた。加速音が低高低と響き、そして陽炎を残して離陸していく。続いて護衛であろう小型機が二機同時に飛び立ち、そして辺りは静かになった。


 ニハルの腕の力が弱まって、ルクスも抱き締めた頭を離した。少しだけニハルの目が赤いが、口元には笑みが戻っている。


「これからどうするの?」

「いや、どうするも何もオレにできることは無いしなあ……待機?」

「そっちじゃない。私とアトリア、どっちを選ぶの?」

「えっ、そっちの話?」


 ルクスは目を左右に泳がせた。そんな話をしている事態ではない……と言い掛けて踏みとどまった。たぶん言っちゃいけない言葉だ。きっと地雷を踏み抜く。


「記憶が戻るまで、待って欲しいなあ……なんて」

「なるほど。で、もし記憶が戻らなかったら?」

「そんな縁起でもないこと言わないでくれよ」

「そう? 私は別に、今の貴方も満更じゃ無いって思っているけど」


 ニハルはルクスの腕に両手を絡ませる。十本の指が絡みつくのを感じて、ルクスは何故か蛇を連想した。


「安心して。貴方も納得できる形で、口説き落としてあげるから」




  —— ※ —— ※ ——




 ラグランジュ5の大きさは直径百キロ。球形の人工天体である。火星の衛星軌道上に設置された世界最大のスペースコロニーが長さ百二十キロなので、大きさでいえば人類史上二番目に大きな建造物となる。


 内部には量子コンピュータとその整備施設、そして膨大な演算により発生する廃熱を処理する為の放熱板で出来ている。外殻は太陽光を遮蔽する幕になっていて、純白の羽衣の様な形状をしている。


 運用は全自動化されていて、基本無人である。唯一管理棟として約十名の整備員が駐留する施設が付属している。今、それもパージされた。管理棟は非常時には脱出用の宇宙船として稼働する。その機能が働き、細長い塔の様な物体は各所から噴出材を吐き出しながら、ゆっくりとラグランジュ5から離れていく。


 それと擦れ違う様に一艘の宇宙艇がラグランジュ5へと向かっていく。扁平した三角錐の本体、全長は五十メートルに満たない。地球圏内の回遊する為の小型艇で、船に例えればヨットに相当する。ラグランジュ5周辺に配置された自衛衛星の砲口が小型艇へと照準を合わせるも、小型艇からの光通信を受けると沈黙していく。小型艇は自衛衛星の間を通り抜け、ゆっくりとラグランジュ5の宇宙港へと接舷する。


 中から出てきたのは白髪の紳士シェアトだった。彼は無重力に身を任せたままネクタイを締め直し、右手に移動ポットを掴む。移動ポットには四方八方に噴出口がついていて、そこから空気を噴出することにより移動する。かしゅかしゅ。広い港に空気の噴出音だけが木霊する。


 港の出入り口は封鎖されていた。閉ざされたカーボン製のシャッターにシェアトが近づくと、その首に装着されたオラクルのランプが点滅する。すると扉のランプもそれに呼応して明滅し、ゆっくりと開き始める。シェアトが進むと、まるで主人を出迎える様にシャッターが開いていく。


「……ん?」


 ぴぴっとオラクルが電子音を発する。シェアトは視線を動かす。どうやらマザーが何か情報を外部に向けて送信した様だ。さすがは世界最大の人工「無能」。全ての管理権限を掌握したつもりだったが「隠し機能」がまだあったらしい。


 シェアトは自作のツールを動作させる。ラグランジュ5を掌握している以上、その圧倒的な演算能力はシェアトの手中にある。マザー内の未掌握のプログラムを検索し、管理権限を上書きする。数秒もかからずに完了する。これで完全にラグランジュ5は掌握した。


 さて、何の情報を送信したのかな? シェアトは思わず笑みをこぼした。恐らくシェアトの居場所程度は、地上の連中に知られただろうな。まあ問題は無い。ラグランジュ5を掌握した時点で、こちらの目的は八割方達成されている。あとは中枢に到達するだけだ。

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