【六】ラグランジュ5(其の一)
——宇宙歴百年七月十七日。
シェアトは髭を撫でながら満足そうに息を吐いた。首には黒いARSリングが装着されている。その視界の隅で「管理者権限モードでアクセス中」とのメッセージがポップアップしている。竜を模したドラゴン君の色が、青から赤へと変わっている。成功だった。これで自由にラグランジュ5を操作できる。
室内アナウンスで、あと一時間でスペースポートに到着する旨が伝えられた。すでに重力は微少となり、シェアトの身体は広い客室の中をふわりと漂っている。軌道エレベータのワイヤー上を登っていく、縦に連結された列車の様な往還ユニット。シェアトが居るのはその最上階の一級客室だった。
壁には窓ガラスを模して外の映像が映し出されている。黒い宇宙と星、そして青い惑星の影から差し込んでくる太陽。標準時では午後六時。新オキナワ市では丁度夜明け頃だろうか。先程、倉庫に設置しておいた監視装置が軒並み無効化された。ようやくルクスを発見したらしい。通信管理局か、それとも宇宙軍諜報部か? まあどちらにしてももう遅い。
——随分と手間取った。まさか記憶喪失になっていたとは。想定外のことは幾らでも起きるものだ。
当初の予定ではルクスを交通事故に見せかけて拉致した後、彼を仮想空間に没入させる。現実と瓜二つの仮想空間上でルクスは、入手したテロ計画書を送信すべくマザーと連絡を取り、パスワードを入力する。その週間を狙ってパスワードを入手し、マザーにハッキングする。その筈だった。それがまさかの記憶喪失を起こしていたとは……ちょっと、いやかなりヒヤヒヤした。このままバスワードを思い出さずに、延々と仮想空間を彷徨うのではないかと心配した。
仮想空間をちゃんと作り込んでおいて良かった。どうやらルクスの体験した「もしも」の仮想世界では「アンチ」が彼らの計画を実行するところまでは漕ぎ着けた様だ。さて現実ではどうかな? ちょっと無理かな。政府の間諜、特に宇宙軍諜報部の動きが速い。残りの「オラクル」は社に置いてきたが、アンチが入手する見込みは薄い。となれば計画もご破算だろう。
まあ、私には関係ない。彼らとの取引は終わっている。私からはオラクルを、アンチからは彼らが長年に渡って収集してきたラグランジュ5の情報を、それぞれ提供し合う約束だ。そして既にラグランジュ5の情報は入手している。後は現地に行って、目的を果たすだけだ。
—— ※ —— ※ ——
「さて、どういうことかしら?」
窓から朝日が眩しく降り注ぐ食堂の一角で、ルクスは黒髪の美女——つまりニハル——に詰められていた。広々とした食堂にはルクスとその隣に座る軍服姿のアトリア、そしてニハルしかいない。その目尻が強く引き上がっていて、それでも美しいと思うのは美人の特権だなとルクスは再認識した。
湾岸の倉庫で発見された後、ルクスは宇宙軍新オキナワ駐屯地へと移動していた。約一週間、寝たきりだった。ふらふらとする足を引きずってルクスはまず食事を所望した。とにかく腹が減っていた。水分と栄養は点滴から補給されていた様だが、胃の中はまるで空っぽで痛いぐらいだった。アトリアがさっと自作弁当を差し出したが、医師にダメ出しを食らった。まずは薄いお粥から、ということで、ほぼ味のしないお粥をルクスは啜っている。
「二股かけて、しかも同棲までしていたなんて……」
あれ? もしかしてまたこの話になるの? ルクスは内心口角を下げる。だがそれをニハルに察知され、思いっきり頬を抓られる。ルクスにとっては二度目だが、ニハルにとっては——もちろん隣に座るアトリアにとっても——一度目の経験だ。あ、でも二度目だから前回を参考に上手くやり過ごせるんじゃね? と思ったが、よく考えたら一回目も別に上手くはやっていなかった。アンチの事件は解決? したが、二股の件は特に片付いていなかった。
ニハルが更に問い詰めようとした時、宇宙軍の士官がニハルを呼びに来た。ニハルがここに居るのはオラクルの件で事情聴取を受ける為だ。ニハルはちっと舌打ちをして、しぶしぶ士官について退室する。
食堂にはルクスとアトリアが残される。お粥を啜り終え、コップの水を飲み、一息ついたところで沈黙が辺りを支配する。ルクスは横目でじっと、アトリアを見る。青と白の軍服姿……。
「まさか、お前がスパイだったなんてな」
「たはは、申し訳無い。これも任務なもので……まあ先輩も通信管理局のスパイさんだったんですから、ここは恨みっこ無しで」
アトリアが両手を合わせて頭を下げる。別にアトリアを責めるつもりは無い。騙される方が悪い。というか、オレはアトリアが宇宙軍のスパイだったということを知らなかったのか? 相変わらず記憶は戻っていない。分かっていて、あえて利用していた可能性はあるか。お互いに。
「まあでも」
ルクスは晴れやかな笑顔を満面に浮かべた。
「これで二股の件は解消だな」
「? どうしてですか?」
「だってアトリアはスパイなんだろ? オレとの関係も任務上のことで……」
そう告げるルクスの右手を、アトリアが両手でがっちりと握ってくる。上目遣いで躙り寄り、その薄い唇を震わせる。
「本気です」
「は?」
「マジです」
ルクスが手を引こうとするが、アトリアは離さない。うるうると潤む瞳がずるい。
「今度の任務が終わったら退職します。そしたら結婚して欲しいです」
「あー……」
ルクスは天井を見上げた。孤児院での記憶が蘇る。そう言われてしまうと、ルクスの心の中にある僅かばかりの良心が疼いてしまう。結局ルクスはイエスともノーとも言えなかった。
しばらくして。ルクスとアトリアは会議室へと出頭した。入口には小銃を持った兵士たちが待機している。中の壁面は全面スクリーンになっていて、太陽系の星図が表示されていた。無数の点が動いている。宇宙船の位置だろうか? テーブルや椅子は特になく、部屋の中央に数名の士官が立っていた。内一人の襟に付いた階級章を見てルクスはぎょっとする。中将。太陽系連合が運用している七つの艦隊の指揮官クラスだ。
「ご苦労だった、エレクトラ少尉」
「はっ」
中将が労うとアトリアは敬礼して一歩下がった。どうやら話があるのはルクスの方へらしい。
「私は第七艦隊指令、メンカル中将だ。通信管理局諜報部所属、コードネーム「ルクバート」君ということで、間違いはないかね?」
「はい、問題ありません閣下」
「本来であれば軍に、君に対する命令権はないのだが緊急事態だ。「協力」をお願いしたい」
「緊急事態、ですか?」
ルクスには思い当たる点があった。今も視界の隅で明滅しているアラート。あれ以降、何を入力してもマザーは反応しない。
「数時間前。月衛星軌道上ある演算衛星ラグランジュ5が何者かによってハッキングを受け、人工知能システム「マザー」が停止した。どうやら通信管理局のシステムから侵入したらしい」
げ。ルクスのこめかみに冷や汗が滴り落ちる。脳内で答え合わせが完了する。ルクスが仮想世界上でパスワードを入れたことにより、その何者かはシステムに侵入に成功したのだろう。つまりルクスは嵌められたのだ。そして、その何者かというのが極星インダストリーの社長シェラトという訳か。
「ラグランジュ5はこの太陽系に張り巡らされた電子ネットワークの、メインサーバーだと言っていい。これがテロリストの手に落ちれば、社会は大混乱に陥るだろう」
「はい、そうでしょうね」
「遠隔操作での復旧には失敗した。その為、我々宇宙軍に直接ラグランジュ5に乗り込んで復旧、奪還せよとの大統領令が先程下された。君には、その道先案内人を務めてもらいたい」
「案内人、ですか?」
「ラグランジュ5は通信管理局の管轄下にあり、内部情報などの詳細なデータは我々も持っていないのだ」
なるほど。文字通りの水先案内人という訳か。お安いご用、と言いたいところだがルクスは口ごもった。相変わらず記憶が無いのである。当然ラグランジュ5の内部のことなども憶えていない。取り戻したのは仮想世界上で「オラクル」した時に垣間見た記憶だけだ。
「……閣下。私は記憶がまだ戻っておりません」
「承知している。だがマザーが自閉モードに入っている今、他の通信管理局メンバーとは連絡はおろかその所在すら分からない状況だ。今我々が把握しているのは君だけなのだ」
そう言われるとルクスもノーと返事が出来ない。
「なおニハル嬢と、ウチのエレクトラ少尉が同行メンバーになる」
「ニハルと、アトリアが、ですか?」
「ラグランジュ」のハッキングには、極星インダストリー製のプログラムが多数使われている可能性が濃厚だ。なのでニハル嬢には協力を依頼、了承頂いている。エレクトラ少尉は護衛だ」
「護衛……ですか」
ちらりと背後のアトリアを見る。視線に気がついたアトリアがにへらと笑う。
「ああ見えて、ゼロGから5Gまでの格闘術プログラムを優秀な成績で履修済みだ。最悪、楯ににでもしてやってくれ」
「酷いです中将」
そういってむくれたアトリアだったが、中将がぎろりと強い視線を向けると慌てて無表情を取り繕った。仲がよさそうだ。まあアトリアは孫の子属性が強いから、年上男性には人気がありそうだ。お小遣いとか貰ってそう。
「中将、アンチのテロ計画の方はどうなってますでしょうか?」
「アンチのテロ計画書は先程見させてもらった。ARSリングの新機能を利用した感情爆弾テロとでもいうべきかな? 昨日までにオラクルは八台押収している。君の自宅から一台、極星インダストリーの社屋から七台」
残り一台か。それはアンチのアビーに渡っているのだろうか。それともシェアトが持っている?
「アンチの工作員の摘発も随時進めている。式典までに全部回収出来ればそれで良し。最悪、式典を中止すれば大きな被害は出まい」
「マザーであれば対策ツールが生成できます。そうすればオラクルを無効化できます」
「なるほど。ではやはり最優先事項はラグランジュ5の奪還だな」
中将の目が細まる。スクリーンには、月軌道上を周回する巨大な衛星の姿が映し出されていた。
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