【五】噴出する感情(其の二)

 アビーの波の色は黒だった。どこまでも落ちていく様な錯覚を覚える漆黒。ルクスの青の波はどこにも感じられず、塗り潰されていた。時々、海面に息継ぎをする様に青い波が現れるが、すぐさま「下」へと没してしまう。


 ——これが「怒り」なのか? ルクスは当惑していた。間欠泉の様に吹き上がる強い感情、それが怒りかと思っていたが、むしろ静かだ。あるのは、絶え間なく襲ってくる針に刺された様な痛み。それは怒りというより悲しみ……いや絶望の様にルクスには思えた。


 そして、その漆黒の中からアビーが浮かび上がってくる。ルクスはそれと重なり、そして記憶が再生され始める——





 ニューロスアンゼルスの太陽は乾いている。海岸線にまで砂漠がやってきている。吹き抜ける風は、この地がもう緑の豊かな過去に戻ることは無いと宣言するかの様だ。市街地は洋上へと移設された。海の上には一本の真っ直ぐな道路が走っていて、洋上都市と砂漠とを結んでいる。道路は砂漠を越え、遙か東海岸まで続いている。


 アビーには恋人がいた。洋上の道路を赤いスポーツカーが走っていく。助手席にはアビー、運転席にはレグルスという名の男が乗っている。二人とも青年というには若く、少年と呼ぶには大人びていた。アビーは二人でドライブするのか好きだった。行く先の砂漠には何も無かったが、レグルスがいる。その空間が大好きだった。


 アビーの母親は政治家だった。太陽系連合、北米自治州議員。幾つもの事務所を構える有力議員で、レグルスは秘書の一人と雇われた。人当たりが良く、物怖じしない。少し抜けているところと女癖が悪いところを直せば、将来有能な議員になれる——。


『特に感情を殺して判断出来るところが良いわ。貴方も切られない様に注意することね』


 少し困った笑顔を浮かべて母はそう言っていたのを思い出す。その意味を理解したのは、レグルスと出会って一年後のことだった。母は内乱準備罪で投獄された。「アンチ」の協力者だったのだ。アビーも親族ということで執拗な取り調べを受けた。


『母がアンチの協力者なんて何かの間違いよ! ……そう、レグルス! 彼に確認して。彼は母の秘書だったのよ。母が無罪だって証明してくれるわ!』

『レグルス? そんな名前の秘書は調書に載ってないが……』

『……え?』


 いつの間にレグルスはいなくなっていた。一年してアビーは聴取から解放され、一年レグルスを探し回り、そしてようやく彼女は理解した。レグルスが母の身辺を調査していたスパイで、アビーはそれに利用されていたということに。


 そうしてアビーはアンチになった。レグルスを探し、そして復讐する為に。そして今ようやく再会を果たした。感無量だった。今ヤツは私の下に組敷かれている。「オラクル」のお陰で積年の感情もぶつけられた。後は……殺すだけだ。


 ——レグルスの顔。それはルクスの物と同じだった。





 一秒か、一分か。それとももっと長い時間か。「オラクル」が解除され、ルクスの視界にアビーの顔が戻ってきた。反射的に身体が動く。アビーは右腕に仕込まれた鞭を振るおうとしていた。ルクスの首を狙ったそれは、ルクスが身体をブリッジさせてアビーを持ち上げたお陰で、ルクスの頭の上を薙いだ。ざしゅと床に亀裂が入る。ルクスはそのまま巴投げでアビーを投げ飛ばす。


「死ねよレグルス!」


 両者は同時に立ち上がり、アビーは再び鞭を振るう。ルクスはそれを二の腕で受け、そのまま両手で掴み取る。鞭は三角形の蛇腹状で、ナイフの様に鋭く尖っている。握り締めた指の間から鮮血が滴り落ちる。そのまま引っ張り合いの力比べになるが、ルクスはその状況を待っていた。


 ——ああ、なるほど。そうか、そういうことか。ルクスは思い出した。アビーから流れてきた記憶。それはルクスの最初の「任務」の記憶だった。通信管理局の犬になり、一生涯スパイとして生きていくと決めたあの日。その為に、最初の任務で本名を捨てたのだ。


 ルクスはARSリングに音声で指示を出す。


「ドラゴン君、「オラクル」を駆除してくれ」

『つうちー。対策ツールの自動生成に失敗ー。対象ツールのソースコードが必要ですー』

「分かったよ。パスワードは『レグルス』だ」


 ぴろり。電子音がする。今まで視界の隅に表示されていたマザーへのパスワード入力欄に文字が入力される。




「Regulus」




『パスワード認証されましたー』


 そう答えたのはマザーでは無くドラゴン君だった。ルクスはそうだろうなと思った。マザーもドラゴン君も、共にラグランジュ5上に生成された世界最大の人工知能。つまり同じAIプログラムの表と裏、「マザー」であり「ドラゴン君」なのだ。


 パスワードが通ると、自動的に待機中だった計画書のファイルが転送される。十秒ほどで転送は完了する。


『受領しましたー。しばらくお待ちくださいー』


 そう言ってドラゴン君のアバターが思考中に変わる。アビーは鞭を自切し、背後から飛びかかってきたイザールを躱して床に落ちている自動拳銃に手を伸ばす。アビーが触れるのと、走り込んだルクスが蹴り出すのは同時だった。ばすんと銃声がしたが、拳銃はアビーの手を離れて遠くでこちらを取り巻いている観客たちの前まで転がっていく。


「っひゃい!」


 アトリアが目を丸くする。暴発した弾が彼女の頬を掠めて背後の窓ガラスに着弾する。強化ガラスのお陰で、ガラスは割れずに弾がめり込んだだけで済んだ。


『対策ツールの自動生成に成功ー。実行しますか?』

「ああ」

「お前ッ、何を!」


 アビーが殴りかかってくるが、ルクスはそのアビーの腕を取り、そのまま一本背負いで床の上に叩きつけた。受け身は取れなかった。骨の折れる音と呻き声が交錯し、アビーは目を剥いて気絶した。その薄れ往く視界の中で、ドラゴン君が「オラクル」のアイコンを食べるアニメーションが表示されて、そして『削除完了』とのメッセージが通知された。


 それはスタジアムでも同様だった。大統領は激しい怒りの感情から解放され、はっと我に返った。手には何故か拳銃が握られていて、隣に座っていた首相とその銃口を向け合っていた。トリガーに掛けた指が、半分押し込んでいる。慌てて大統領と首相は拳銃を振り下ろした。一体今、我々は何をしていたのか?


 周囲を見回せば、銃声も乱闘騒ぎの喧騒も潮が引いて行くように消えていく。皆、夢から覚めた直後のように呆然としている。その視界には、ARSリングが投影するメッセージ『削除完了』の文字が表示されていた。


「ルクス、お前何かしたのか?」


 イザールがルクスの元に駆け寄る。ルクスは拘束ツールを受け取り、気絶したアビーの口と両手を拘束する。 


「ドラゴン君、いやマザーに「オラクル」の対策ツールを作ってもらったのさ。たぶんこれでスタジアムの騒動は収まるはずだ」

「ひょっとして記憶、取り戻したのか?」

「——ちょっとだけな」


 展望室のスクリーンに映っていたニュース番組で、報道キャスターがスタジアム内の銃声が止んだことを伝えている。どうやら「オラクル」の削除は上手くいった様だ。少なくともこれ異常被害が広がることはないだろう。


 気絶させたアビーをイザールに引き渡すと、アトリアがルクスの元へと駆け寄った。ルクスの身体をぐるりと見回し、手の切り傷を見つけてハンカチを包帯代わりに巻き付ける。


「先輩……一体なにが起こってるんですか? あたしにはさっぱり……」

「起こっているというか、一先ずケリがついたってところかな。後始末は残っているが……「オラクル」が悪用されることはもう無いよ」


 そう言って、ぽんとアトリアの頭を撫でる。ふわりと柑橘の香りがして、ルクスはようやく一息つく。エレベータからはニハルが降りてくるのが見えた。——ああ、そうだな。こっちの大問題も片付けないといけないな。正直、こっちの方は解決出来る道筋が見えない。


 まあ一つ、一つあることにはあるんだよ。今の法律は一夫一妻制だが、プロメディアは対象外だ。つまり——そういうことだ。人間一人とプロメティア一人を娶ることは可能なんだよね、法律上は。


 勿論それに当人たちが納得するかどうかは別問題だし、その提案を二人に告げるのは流石に怖いと思っている。


 ルクスの視界の中で、ニハルとアトリアが何か言い合っている。なぜかその声はルクスには届かない。そのウチ、二人の視線がルクスに向けられた。そして詰め寄ってくる。ああ、これはアレかな。ここで結論を出せって話になるのかな? ルクスは決断を迫られている。だからルクスは心の中を整理してから、そしてゆっくりと口を開いた。


 ——その視界が、ぐるりと暗転した。




  —— ※ —— ※ ——







「ありがとう、これで『マザー』にアクセス出来るよ」







  —— ※ —— ※ ——




 ルクスは、目を覚ました。


 え? 目を覚ました? 目を覚ましたということは、今までオレは寝ていたということか……そんな馬鹿な。混乱する。直前まで立っていたハズなのに、今は寝そべっている。天井は薄暗い。そして少し寒い。おかしい。今までオレは、シュリタワーにいたはずだ。だが、どう見積もってもここは場末の倉庫の様にしか見えない。


 ゆっくりと、ルクスの視界の中に女性の顔が入ってくる。金色の毛が揺れ、綺麗に整った童顔だ。ふわりと柑橘の香りがする。その顔は毛穴が見えるぐらい近づいてくる。当然のことだがプロメティアにも毛穴は存在する。存在しないのはアイドルぐらいなものだ。


「先輩、生きてますかー?」


 アトリアだった。何故か彼女は軍服を着ていた。青と白のスタイリッシュなデザインは宇宙軍のものだ。階級章は無い。


「……なんで、お前……軍服着ているんだ……?」

「あー。それはですね、実はですね、あたしが軍の内偵さんだからです」


 にははっと少し困った表情を浮かべて、アトリアは頬を掻く。ルクスは目を丸くし、身体を引き起こす。ずきりと頭に痛みが走る。手を当てると包帯が巻かれている。怪我? いつ怪我したんだ?


「ここは、どこだ?」

「港湾部の倉庫街ですね。社長名義でレンタルされてました」


 周囲を見回すと、確かに倉庫の中に見えた。様々な物品が山積みされていて、小銃を持った兵士たちが慌ただしく行き交ってそれらの荷物を捜査している。アトリアが「こっちですー」と呼ぶと、軍医と看護士らしき人物がルクスに駆け寄って、身体をチェックし始めた。


「どうです?」

「まあ問題ないでしょう。交通事故に遭ったにしては傷も打撲も少ない」

「交通事故?」


 そう。ルクスは確かに交通事故に遭った。でもそれは二週間以上前の話で、入院して完治したはずだ。……いや、それにしては身体のあちこちが痛い。まるでついさっき事故に遭ったのかの様に……。


「アトリア、今日って何日だ?」

「今日ですか? 今日は七月十七日ですよ」





 ——宇宙歴百年七月十七日。





「先輩はARSリングで、ずっと仮想世界を見せられていたんですよ」

「……なんだって?」


 ルクスは首に手を当てた。そこには金属の輪、ARSリングがあった。確かにARSリングには五感への干渉機能がある。それを使って本物そっくりの別世界を見せられていたということか!


 だが、どうしてそんなことを? ルクスははっと気がつく。視界がブラックアウトする直前に聞こえた、あの台詞。あれは、まさか……。


 突然、ルクスの視界に赤文字が表示された。「警告」。表示しているアプリはドラゴン君、いやマザーだ。


『警告。マザーへの不正アクセスを検知しました。現在マザーは自閉モードに移行中。全局員は緊急時プランAに基づいて行動してください』

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