【五】噴出する感情(其の一)
アトリアはタクシーを降りると、目の前に立つ赤いタワーを見上げた。シュリタワーだ。見上げた顎から汗が滴り落ちる。暑い。赤道直下のしかも真夏日。幾ら仮想の冷気を送っても、実際の汗までは止められない。アトリアは手にした黒いバックを握り直し、タワーの入口へと向かった。
なんでこんなところに持ってくる様に指示したのだろう。そりゃまあ、指示されればその通りしますけどね。もう少し余裕は持って欲しい。今すぐ持ってこいって。ちょっと便利に使いすぎじゃありませんかね? アトリアはちょっと不満だった。給料上げろ。
シュリタワーの周辺は、想像以上に混んでいた。正確には隣の区画にあるスタジアムの方から人が流れてきているのだ。そういえば百周年記念の式典が開かれるんだっけ。仕事柄、一応チェックはしている。お堅い式典なのに人出が多いのは、有名人や芸能人を集めて前座をやらせているからだ。入場チケットは一流アーティストのプラチナチケット並の扱いだ。仕事がなければルクスと一緒に来たかったな。当選すればの話だけど。
タワーの中に入る。広いエントランスに券売所、そして最上階へと直通する四基の大型エレベータが見える。どちらにもそこそこ人が並んでいる。アトリアは空調の効いた空気に一息ついてから券売所で電子チケットを購入し、そのまま大型エレベータへと乗り込んだ。
—— ※ —— ※ ——
——来た。
アビーは大型エレベータから吐き出される人群れの中に、目標となる人物を見つけた。少し童顔の金髪の女性プロメティア。名前はアトリア。彼女はエレベータから吐き出されると、そのまま直進して窓ガラスに手を突き、周囲を見回しつつ外を眺めている。アビーはゆっくりと進路方向をアトリアの方へと変える。
「動くな」
そのアビーの背後から、男の声が囁いた。背中には固い物が突きつけられている。背広を着た中年男、イザールだった。その手には質量弾式自動拳銃が握られている。アビーは足を止める。人の流れが密着した二人を避けていく。
「遅かったじゃないか、犬。通信管理局か、それとも宇宙軍諜報部か」
「答える必要はないな。このまま大人しく捕まるなら死なずに済む」
「拒否したら?」
「死ぬ。簡単な話だ」
「そうだな」
自動拳銃の引き金に力が籠もる。その瞬間、イザールの後ろから長身のプロメティアが襲いかかってきた。イザールは体勢を維持したまま、後ろに蹴りを繰り出す。死角から襲いかかったはずだったが、イザールの蹴りは正確に長身プロメティアの腹部にめり込む。プロメティアは口角から唾を飛ばして蹲った。
「よっと」
アビーは僅かな隙をついて振り返り、イザールの手を自動拳銃ごと掴んだ。すかさず引き金を引く。銃声と硝煙。しかし銃弾は天井にめり込んだ。アビーが腕力でイザールの腕を上に持ち上げたのだ。
周囲から悲鳴が上がる。二人の周りに居た人たちが一斉に逃げ出し、まだ状況を把握していない人たちを展望室の反対側へと押し込んでいく。その中から、アビーの仲間たちが抜け出てくる。若いカップルは刃物を手にしてイザールの方に駆け出してきた。が、その途中で背広を着た男たちが現れて取り押さえられた。他の黒スーツの男、青い髪の女、白髭の老人、そして眼鏡の男。それらも次々と取り押さえられ、床に組み伏せられていく。
「えっ? 何これ!?」
アトリアは突然の出来事に、窓ガラスを背にその場に立ち尽くしていた。逃げ遅れた。展望室の北側は閑散とした。そこへ大型エレベータが到着し、中からルクスが出てくる。
「アトリア! やっぱりここか!」
「先輩?! なんでここに?」
驚くアトリア。ルクスは周囲の異様な状況に一瞬たじろぐが、まずはアトリアへと駆け寄った。その金髪の頭から爪先まで視線を投げ掛け、問うた。無い。
「お前、オラクルはどうした?」
「えっ?」
アトリアはきょとんとした。彼女の手には何も握られていなかった。オラクルを詰めた黒いバックがどこにもない!
「オラクルだよ! お前持ち出しだろッ」
「あ、あれならマイアさんに渡したけど……」
「なに?!」
マイヤって社長秘書のマイヤか。なんでここにその名前が出てくる。ルクスは頭を巡らせる。
「お前まさか……社長に指示されてオラクルを持ち出したのか……?」
「そ、そうだけど」
ルクスがちょっと蹌踉めく。まさかアンチの協力者は、アトリアではなく社長だったのか……!
再び銃声が鳴る。ルクスが振り返ると、アビーとイザールが組み合っているのが見えた。力の勝負は互角に見えたが、不意にイザールが体勢を崩し、アビーの拳が顔面を痛打した。転がるイザール。自動拳銃が床を転がる。
「ちょっと手数が足りなかったな、ルクス」
アビーがゆっくりとルクスの方へと歩いてくる。首に掛けられた黒いARSリング——オラクルのランプが点滅している。
「こっちは囮だよ。もう今頃オラクルを装着した同志たちは配置についている」
——十分前。
大型エレベータに乗り込んだアトリアを待っていたのは、眼鏡を掛けた女性プロメティア、マイアだった。満員になったエレベータの中で、二人は胸が接するほど近くで向かい合う。エレベータが無音で上昇し始める。展望室までは直通だ。
「ご苦労様です。受け取ります」
マイアはアトリアから黒いバックを受け取った。少しだけチャックを開け、中身を確認する。黒いARSリング——オラクルだ。
「マイアさん、どうしてこんなところに? それって試作品ですよね?」
「あら、社長から聞いてませんか? これから試験運用に参加してくれる方にお渡しするんです」
「わざわざこんなところで?」
「どこにスパイがいるか分かりませんから」
そういってマイアは肩を竦めた。エレベータが展望階に到着する。観客が外へと流れ出て行く。
「それでは失礼します。アトリアさんは少し展望室で時間を潰した後、帰社してください」
「なんだか良く分かりませんけど……」
「もしスパイがいた場合の用心ですよ」
そういって、エレベータのドアが閉まった。マイア一人を乗せて地上階まで戻っていく。マイアはタワーの外に出ると、近くの公園のベンチに座った。ベンチの右端に座り、真ん中に黒いパックを置く。するとベンチの左端にサングラスを掛けた男性が座った。二人の目の前を子供連れの親子が通り過ぎていく。
マイアはゆっくりと立ち上がった。バックはそのまま。彼女の姿が人混みの中へ消えると、サングラスの男が立ち上がる。その手には黒いバックが握られている。
男はアンチの工作員だった。男はスタジアムの方へと歩き始める。スタジアムに近づくにつれて、人の数は多くなっていく。だから男が観客に偽装した同志と擦れ違う度に黒いARSリングを渡していくことに、気がついた者は誰もいなかった。彼らは首にオラクルを掛け、そしてスタジアムを外側から囲う様に配置についた。
彼らは無言でオラクルを作動させた。オラクルはまず近くのARSリング——警備中の兵士の——へ接続し、自身を転送させる。更にそこから別の、スタジアムのバックヤードで休憩中の職員のARSリングへと転送されていく。そして更にはスタジアムの観客のARSリングへと。それは指数関数的に増えていき、十分もしない間にほぼスタジアムの観客十万人のARSリングへと伝送が完了した。
そして。アンチの工作員たちは、その怒りの感情を「オラクル」に流した。
異常はまず、スタジアムの後方から始まった。メインステージから一番遠い場所で、誰かが喧嘩をし始めた。男が二人殴り合いを始める。観客席ではアルコールも販売されていたから、酔っ払い同士の諍いかと思われた。警備員が数名駆け付け、喧嘩する男たちを引き剥がそうとする。
少し空気が変わった。警備員たちは取り押さえるだけでなく、乱闘していた男たちを殴り始めた。周囲の観客の顔色が変わる。やりすぎじゃないのか? 警備員たちは更に周囲の観客に襲いかかり始め、更にその周り手で別の乱闘が起き始めた。
スタジアムを覆っていた昂揚からくる歓声が、加速度的に悲鳴へと変わっていく。女性の甲高い悲鳴と子供の泣き声。火事が飛び火する様に、乱闘騒ぎはスタジアムの後方から前方へと広がっていく。
——銃声。
警備で入っていたはずの軍の兵士が、憤怒の表情で引き金を引いた。血を吹いて倒れる老人。銃声は乱射へと変わり、兵士の近くの観客がバタバタと倒れていく。それが決定的な引き金となった。まだ正気だった人たちは我先へと逃げ出し、スタジアムのグラウンドへと駆け下りていく。グラウンドの上に飛び降りた人の上に更に人が落ちてきて、押し潰していく。
パニックの始まりだった。
スタジアムの様子は、展望室のスクリーンにも映し出されていた。スタジアム内からの中継は途絶し、上空の報道ヘリからの中継に変わっている。
『暴動です! 突如スタジアム内で暴動が発生しましたッ! 銃声も聞こえます。これは一体どどうして……近隣の皆様はけしてスタジアムには近づかないでください!』
キャスターの悲痛な声が響く。映像の中でまた一人銃で撃たれて倒れる。ルクスは眉間に皺をよせ、透明に歯を剝き出しにしたアビーを睨み付けた。
「お前たち、まさか……」
「そうだよ! オラクルでボクたちの怒りを伝播させたのさ! 痛快だと思わないか? ヤツらはボクたちに耐えろというが、でもヤツらだって同じ立場に立てばこうするのさ!」
「くそッ!」
ルクスは堪らず殴りかかった。空を切る。アビーはしゃがみ込み、ルクスの腹部へと頭突きをかます。その勢いで二人は縺れ合い、そしてアビーが上になる。
「お前も、怒りに吞まれればいいッ!」
アビーの黒いARSリングのランプが激しく点滅する。ルクスは首のリングをはずそうとするが、間に合わない。二人の意識は「オラクル」の造り出す仮想空間へと落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます