【四】オラクルの行方(其の一)


 ——宇宙歴百年八月一日。


 朝になった。小さなテーブルに三人で朝食を囲う。


 ニハルの前にはトースト、スクランブルエッグ、ソーセージ、野菜スープ。アトリアの前には御飯、目玉焼き、ベーコン、お味噌汁。そしてルクスの前にはその両方。あれか、これは両方食べないとマズイやつか。


 ニハルとアトリアは無言で食事を始めた。二人の小さな咀嚼音がリビングに響く。ルクスは「いただきます」と言ってからトーストに手を伸ばそうとした。びりっと空気が凍り付く。比喩だ。見上げると、アトリアの無表情な顔があった。ルクスは手を引っ込め、しばらく様子を伺った後、御飯を盛った茶碗に手を伸ばそうとする。


 ぴりっ。今度はニハルが無表情だった。夏なのに空気が冷たい。あれか、これはどっちを先に手を付けるかという点も評価されるのか。ルクスは迷った末、何かを思いついて再び食卓に手を伸ばした。


「あ」


 アトリアが短く声を出す。ルクスはトーストの上に御飯を塗りつけて、むしゃむしゃと食べた。二人の表情は不満げだった。




  —— ※ —— ※ ——




 ルクスは朝食を終えるとトイレの個室に籠もった。一人で考える時間が欲しかったのだ。


 ——昨晩の出来事。とりあえず「オラクル」の正体が分かったのは一歩前進だった。「オラクル計画書」イコール「次期ARSリング計画書」ってことだ。もっとも明後日の方向からアンチのテロリストが関わってきて、一歩どころから勝手に三歩ぐらいスキップしている。その先はきっと断崖絶壁なんだろうという危機感だけが膨らんでいく。


 とりあえず昨日今日で二つの事件にアンチが関わっているのだ。昨晩聴取を受けた時は黙っていたが、やはり警察に洗いざらい言ってしまうか? ルクスはARSリングで警察の電話番号を入力しようとして、止めた。


 ダメだ。自分の正体がはっきりしない以上、藪蛇になる可能性がある。義足の仕込武器、そして相手を殺せる程の体術。ルクスのスペックは明らかに堅気ではない。


 そうだ。例のメッセージアプリでオラクル計画書を送信するか? どこへ繋がっているのか分からないが、少なくともルクスの味方だろう。……いや、これもダメだ。パスワードが分からない。くそッ、記憶さえ戻れば……。


 そしてもう一方の問題も、全く解決の目途は見えない。二股問題。むしろコレは自分で悪化させたと言っていい。今までは「記憶喪失前の自分ガー」という言い訳が使えた。


 しかし今は違う。アトリアとも、ニハルとも、今のルクスが自分の意思で二股関係を再構築してしまっているのだ。おかしい。何も間違ったことはしていない。好きなものを好きだと言ったら、間違いになってしまっている。なにかおかしくないか? 何故マイナス×マイナスはプラスなのだろうか。世の中には不思議が多すぎる……!


 ……ルクスは深い深い溜息をついた。分かっている、本当は分かっているさ。世の中、それが例え誠実な本心であろうとも、組み合わせてはいけないものがあるってことは。


 こんこん、と扉がノックされた。ルクスは思わずびくりとする。


「せんぱーい、大丈夫ですかー?」

「だ、大丈夫だ。何か用か?」

「そろそろ出ないと会社間に合いませんよー」

「あー」


 もうそんな時間か。ルクスはトイレの水を流すと外へ出る。アトリアが鞄を提げて待っている。ニハルの姿が無い。


「あれ? ニハルは」

「先行っちゃいましたよ。出社したら話がしたいって」


 アトリアはちょっとむくれている。何か二人の間でやり取りがあったのだろうか? 先に出ていくアトリア。ルクスも慌てて鞄を掴んで、その後に続いた。





 新オキナワ島の主要な公共交通機関は鉄道とLRT——路面電車——である。軌道エレベータのある中央島を結点とした八の字に鉄道が回り、その間をLRTが補完する形だ。ルクスとアトリアの二人は近くの停車場からLRTに乗る。途中鉄道に乗り換えて、その後は徒歩。片道三十分ぐらいの通勤時間だ。


「昨日は何があったんですか?」


 じっと車窓を眺めていたルクスに、隣に座っているアトリアが聞いてくる。アトリアもルクスの方は見ていない。ARSリングのプライベート会話機能を使っていて、周囲の人間にはほぼ聞こえていない。


「べ、別に、ニハルとは何もしていないぞ」


 どもってしまった。アトリアは溜息をつく。


「はあ、嘘です。ちょー嘘です。いちゃいちゃしてたって、ニハルさんから散々自慢されました」

「いや! そんな大したことは、何も、していない…ぞ?」

「なんで疑問形なんですか? 私もオラクルしたいです!」

「おま! オラクルのこと知ってるのか?!」

「ニハルさんから聞きました。ショックです、あたしと結婚の約束してるのに、他の女性とそんなことするなんて……寝取られです!」


 ちらりと、周囲の乗客の視線が集まった、様な気がした。いやまさか、ARSリングのプライベート会話機能は五感に直接作用するヤツだから外には漏れない仕様だ。というか、漏れて欲しく無い。


「わかった! お前ともオラクルするからッ! それで勘弁してくれ」


 思わずそう言ってルクスは内心激しく後悔した。またドツボに嵌まる約束をしている……! オレって実は意志薄弱なのかなと思い、落ち込む。


「絶対ですよ。あたし、先輩みたいに忘れませんから!」


 LRTが停車した。鉄道駅に到着したのだ。アトリアは目元に涙を浮かべたまま、ずんずんと先に降りていった。頭上には鉄道の高架線が走っている。出勤客に交じってエスカレーターを登り、改札の前まで来たところでアトリアは気がついた。


「……あれ?」


 ついてきていると思ったルクスの姿はどこにもなかった。




  —— ※ —— ※ ——




「お前ッ、なんだよ!」


 ルクスは耐えられなくなって遂に大声を上げた。芳香剤の香り漂う駅のトイレ。その一番奥の個室に、ルクスは押し込まれていた。押し込んだのは背広を着た中年男だった。眼鏡が反射して、表情が読めない。この男が、アトリアに続いてLRTを降りたルクスの片腕を掴んで、強引に連れ込んだのだ。


 只者では無い。ルクスはそう察した。昨晩の一件で、自分の力が随分と鍛えられていることが分かった。そのルクスを、有無も言わさず連れ込むだけの力があるのだ。


 中年男は唇の前に一本指を立てると、首のARSリングをとんとんと叩く。するとルクスとの間にプライベート会話が開く。


「ルクバート、記憶を失っているというのは本当の様だな」

「……誰だ、お前」

「安心しろ、『お仲間』だ」


 中年男がニヤリと笑い、再びリングを叩く。すると一枚の写真がルクスの視界にポップアップしてきた。目を剥くルクス。写真の中で、ルクスは眼前の中年男と楽しげに肩を組んでいる。


「お前、知り合いなのか……?」

「イザールだ。ま、お互いコードネームだがな」

「コードネームってことは、やっぱり」

「太陽系連合、大統領府直轄、通信管理局。そこに存在するはずのない諜報課に所属する諜報員。それが私たちだよ」

「……マジかよ」


 現代の情報通信社会の基盤を支える非時差通信によるグローバルネットと巨大演算衛星「ラグランジュ5」。それらを統括するのが通信管理局だ。


 西暦末期に発達したインターネットと各種情報通信技術が社会的混乱を招いた反省から、その管理運営が政府直轄とされた。与えられた権限も大きく、軍隊・警察に次ぐ「実力行使能力」を持つとも言われている。映画やドラマの題材にされることも多く、通信管理局のスパイというのもごくありふれた題材だ。


「マザーからの指示でな、不具合を起こしたお前の代わりに派遣された」

「不具合言うな。……マザーって?」

「そんなことも忘れたのか。まあ、私らの上司様だ」


 イザールの説明を要約すると、マザーとは「ラグランジュ5」上で稼働している監視プログラムのことだ。あらゆる情報を収集分析をし、問題が予測されればルクスたちの様な諜報員を使って調査し、解決する、人類史上最大の「人工無能」。ある意味、ラグランジュ5そのものだといってもいい。


 ルクスはイザールに、目覚めてからの出来事を説明した。


「なるほどね。計画書は入手していたのか。ただ姉ちゃんたちといちゃいちゃしてただけじゃないのね。えらいえらい」

「ぐぬぬ」

「とっととマザーに計画書を転送しろ」

「あのメッセージアプリか? パスワードが分からないんだよ! アンタが代わりに転送してくれよ」


 相変わらず視界の隅には「オラクル計画書」が転送待ちの状態で待機している。ルクスはそのファイルをイザールのARSリングに転送しようとするが、エラーを吐いて拒否されてしまう。なんだよこれ。もしかしてロックがかかっているのか?


「暗号化してあるんじゃ意味ねえだろ。パスワード思い出せ」

「出来ればやってるよ!」

「ちっ、間抜けめ……まあいい。どちらにしろアンチのアビーも出張ってきているとなると、ここでテロをやらかすつもりだろ。目標は、百周年式典か?」

「計画書って、オラクルの設計書じゃないのか?」

「お前は産業スパイか。そんなんじゃねえよ。アンチのオラクルを使ったテロ計画書のことだよ」

「マジかよ……」


 本当にテロが計画されているのか。いつ、どこで? たぶん自分はそれを調べていて、そして計画書を入手したのだろう。折角そこに重要情報があるのに、記憶喪失のお陰で中身を見ることすら出来ないとは。


 イザールの視線がルクスから外れて泳ぎ始める。たぶんARSリングから何か情報が送られているのだろう。その表情が険しいものに代わる。イザールは個室のドアを開けた。


「そういえば、アビーって?」

「銀髪で透明な歯をしていたってヤツのことだよ。この界隈じゃ有名な女性工作員だ」

「女性? アイツ女なのかよ」


 そういえば中性的な顔つきをしていた。思い返せば、透明な歯が普通の白い歯だったら結構な美人さんだ。ルクスは納得する。あの物騒なヤツ、やはりアンチなのか。


「オラクルに感情を操作する機能があるのなら、連中はそれを利用してテロを起こすだろう。お前、心当たりがあるだろ?」


 ありまくりだった。刃物で襲われたり、爆弾テロにあったりしている。イザールによれば他にも数件類似事件が発生している。多分「試運転」をしていたのだろう。


「オレはアビーを追う。お前はオラクルを押さえろ」

「試作品なら一台入手済みだ」

「他にはないのか?」

「いや、それは……」

「調べろッ! これ以上アンチの手に渡る事態は避けたい」


 そういってイザールは足早にトイレを出て行ってしまった。残されたルクスは捨てられた子犬の様に口角を下げた。

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