【三】ニハルという女(其の四)

 ルクスは辛うじて「正気」を取り戻す。今ルクスは、ニハルの記憶に触れていた。いや「心」に触れていた。強くルクスを求める力。優しく包み込み、だが時にはその強さで相手を引き裂いてしまいそうな荒々しさ。それらが同居した感情がルクスを揺さ振っていた。


『ニハル、これは……』

『何が見えた、ルクス?』

『今時、小学生だってこんな初々しい告白はしないと思う』

『ふふふ、技術者ってのは恋愛下手なのよ』


 そして、ニハルである赤い波が青い波から分離して、少し距離を取った。どこか荒い息をする様に、赤い波が脈動している。


『面白いでしょ? これが次期ARSリングに搭載予定の、感情伝達プログラムよ』

『感情を伝達?』

『そ。喜怒哀楽、そういった感情をダイレクトに相手に伝えることが出来るの。まあ手紙で愛の告白をする奥ゆかしさもキライじゃないけどね』

『もしかしてこれが、「オラクル」なのか?』

『そうね。「オラクル」はこの次期ARSリングのコードネームよ』


 ルクスは目を丸くした。いや今は波なので、波が小刻みに震えた。「オラクル」の正体は次期ARSリングのことだったのか! ルクスは考える。そうなると自分の正体は産業スパイなのか? これほどの機能であれば、きっと同業他社なら金に糸目はつけまい。


『さあ、次は貴方の感情を見せて』


 赤い波が再びゆっくりと近づいてくる。今度はニハルがルクスの感情に触れようとしている。いや待って。ルクスは戸惑う。果たして「自分」はニハルを愛しているのだろうか。今の話であればイエスだ。ニハルの告白は嬉しいし、それに応えたいとも思う。


 しかし今のルクスには、記憶が欠けている。その欠けた記憶が戻って時、果たしてルクスはルクスのままでいられるのだろうか? 昔のルクスは、ニハルをどう思っていたのだろうか?


 青い波と赤い波はより一層深く重なっていく。朦朧とする意識の中でルクスは、自分の感情が曝け出されていく感触を感じて。


 ——その前に、白い空間を震わせるような呼鈴の音がけたたましく鳴り、そして全てがブラックアウトした。





 呼鈴の正体は部屋のインターホンだった。ぴんぽーん、薄暗い寝室に響く。二人は現実へと戻っていた。ニハルはルクスの上から起き上がり、苛ついた表情でリングを投げ捨てた。ぴんぽーん。呼鈴は続く。ルクスもソファー立ち上がる。


「はいはい、今出るわよ」


 ニハルが荒々しくリビングを出て行く。まあそりゃ不機嫌にもなるだろう。ルクスもARSリングを外そうとしてぎょっとする。警告メッセージが表示されている。なんだこれ?! 「爆発物」の警告メッセージ?!


 ニハルが玄関のドアを開けるのと、その身体をルクスが引っ張ったのはほぼ同時だった。ルクスはニハルを抱え、リビングのソファーの裏へ飛び込む。玄関の向こうには、大事そうに両手で荷物を持った配達員がいた。その表情には怒気が溢れている。


「お届け物でーす」


 そして、荷物は爆発した。


 爆発は配達員ごと玄関を吹き飛ばし、更に夜景美しいリビングの窓ガラスを割った。細かく割れたガラスの破片が夜空に舞い散っていく。


「ここでじっとしていろ!」

「ちょっと、ルクス?!」


 怪我が無いことを確認すると、ソファーの影にニハルを残してルクスは飛び出した。焼け焦げた玄関を跳び越えて廊下へと出る。ARSリングを叩くと、動く点が表示される。真上か! ルクスは非常階段を屋上へと駆け上がる。


 屋上は楕円形のフラットな形状をしていた。潮風が強く吹き付ける。軌道エレベータの明滅する灯火を背に、その人物はルクスを待っていた。


「相変わらず碌でなしな仕事をしているじゃないか、ルクバート」


 肩まで伸びる銀髪、細い顎。それは先日、アディル社の社前で奇妙な行動をしていた銀髪の君だった。にやりと笑った唇の間から、水晶の様に透明な歯が見える。


 ルクスは嫌な予感がした。その人物に見覚えはない。だが、肌がざわつく。まるでルクスの身体はヤツを知っているかの様だ。無意識の内にぎっと拳を握り締める。自制しなければ、そのまま襲いかかりそうだった。


「……お前、何者だ?」

「相変わらずヒドい男だ。記憶なくしたんだって? 因果応報だな」


 銀髪の君は濁った瞳で笑いながら、とんとんと自分の頭を叩く。ルクスはじっと相手を見る。首元には黒いARSリングがある。まさか試作機か?


「……なんで試作機を持っている?」

「お、そこまでは思い出したのか。それとも誰かに聞いたのかな?」


 銀髪の君は、首の黒いARSリングをとんとんと叩いた。すると不意に、ルクスの中にどうしようも無く悲しい感情が隆起した。涙が流れ、一瞬眼前から注意が外れる。その隙を縫って、銀髪の君はルクスに接近し、蹴りを見舞った。腹部にめり込む。胃液が巻き散るが、辛うじてルクスは握った拳を振るった。当たりはしなかったが、躱した銀髪の君は距離を再び取った。


 今のは……「オラクル」か?! にやにやと銀髪の君が笑っている。だが、どう見ても銀髪の君の感情が送られてきたとは思えない。まさか「オラクル」は感情を送るだけでなく、操作することも出来るのか?


「なるほど……そうやって人を操っているのか」

「面白いだろ? 感情を操作するだけだから証拠も残らないし、結構便利なんだよね」


 昨日の通り魔。そして直前の爆弾魔。オラクルによって感情を操作されたとすれば合点がいく。だとすれば、こいつテロリストのアンチなのか?


 銀髪の君が再び黒いリングに触れようとした。ルクスはARSリングを投げ捨て、そして駆け出す。ルクスが義足を踏み出した瞬間、脛の部分が小さく開いて何かが射出された。金属の針だ。無音で飛来する針は、銀髪の君の足に正確に突き刺さった。顔をしかめ、体勢が少し崩れる。


 大したダメージでは無い。ルクスは一気に距離を詰めた。右でパンチを繰り出し、返す刀で左からローキックを見舞う。銀髪の君はパンチはかわしたが、ローキックはまともに食らった。コンクリートの床の上を転がる。


 無言で、ルクスはその上に覆い被さった。右手が銀髪の君の喉を締め上げる。喉を潰す為じゃ無い。絞り、捻り上げる。銀髪の君の口からぐぼっと形容しがたい音が鳴る。ルクスは骨を折るつもりだった。


「!」


 瞬間、ルクスは飛び退いた。床の上を転がって距離を取ってから立ち上がる。首筋には一筋の切り傷が出来ていた。


「げほっ……惜しい。あともうちょっとで動脈切れたのに」


 銀髪の君も立ち上がる。その右手からは、何か鞭の形をした物体が垂れ下がっている。その鞭が俊敏に動き、床に切り傷を残す。ルクスは目を細める。義手に、隠し武器か。


 潮風が一瞬止まる。銀髪の君の片眉が上がって、空を見上げた。星空が広がっている闇の中に、星が無い部分を見つける。ヘリコプターだった。夜間飛行用のランプが点灯している。あれだけ派手な爆間だ。警察か、それとも報道のヘリか。


「ち、タイムオーバーか」


 銀髪の君は舌打ちをした。鞭が義手の中に格納される。ヘリコプターのローター音が急速に近くなってくる。ルクスが一歩踏み出すと銀髪の君は背を向け、一目算に駆け出した。屋上の縁へと。


「世界の為といえば聞こえは良いが、やっていることは女たらし。人の心を弄ぶのはどんな気分だ?」


 嗤うような言葉を残して、銀髪の君は屋上から飛び降りした。ルクスは屋上の縁にまで駆け寄って下を見るが、地上すれすれでパラシュートが開くのが見えた。無事着地した様だ。銀髪が夜の闇へと消えていく。


 ルクスは溜息をついた。そして義足を見つめる。仕込針とは……無意識だった。反射的に使えるほど使い込んでいるということか。そして体術にも驚きだ。どう考えても産業スパイが修得すべき能力だとは思えない。段々と焦臭くなってきた。なんか記憶取り戻すのが怖くなってきた。このまま逃げてもいいかな?


 ルクスは投げ捨てたARSリングを拾い、ゆっくりと階段へと向かった。そこにはナイトガウンを纏ったニハルがこちらを見ていた。


「ルクス……今って、どういうこと?」

「さあ、オレにもさっぱりなんだが」


 問い詰めようとしたニハルだったが、それは階段を駆け上がってきた警官の一団によって阻まれた。周囲が慌ただしくなってくる。また警察署で事情聴取か。ルクスは苦笑いするしかなかった。




  —— ※ —— ※ ——




 アトリアは呆然としていた。なんというか、怒りも悲しみも過ぎ去った果てにある感情とは「無」なのかなと、そう思った。だから怒りも泣きもしなかった。ただ事態をあるがままに受け入れる境地に達していた。


 ——夜になっても、ルクスと連絡は取れなかった。通話はブロック。え? 何? どういうこと? 何かルクスを怒らせることでもした? ずっと不安と混乱の中にアトリアはいた。いつもの様にルクスの家に帰り、二人分の食事を作り、ラップに包まれた残った一人分の食事をじっと眺めていた。


 深夜になって。呼鈴が鳴った。アトリアは慌てて玄関の扉を開けた。帰ってきた! そう、帰ってきた。ルクスと、そしてニハルが。


 事情は聞いた。ニハルのマンションが爆発テロに遭って、使い物にならなくなった。だからしばらくニハルを家に泊めてあげる。うん、それは理解出来る。問題はその時ルクスがどこにいて、何をしていたかだ。いいや、ごめん。意地悪かったね。もうそれは正直察しがついている。さすがに恋沙汰に疎いと言われる私にだって、それは分かることだった。何をしていたのかぐらい。


 だが自然と、その時は、追求する気にはならなかった。何も言わずにアトリアは二人を家の中へ入れた。ルクスもニハルも疲れていたのだろう。皆言葉少なく、早々に就寝した。なお寝室にアトリアとニハルが、リビングにルクスが寝た。


 眠りに落ちる直前。アトリアは他人事の様に思った。





 ——明日は、きっと地獄だ。


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