【三】ニハルという女(其の三)
仮想現実とは、コンピュータやネットワーク上に構築された電子空間の総称である。地球全域を仮想空間上で再現している「テラ2」が有名だ。「テラ2」では宇宙に浮かぶ巨大コンピュータ群「ラグランジュ5」の膨大な演算能力を用いて地球をシミュレートし、気象予報や科学実験に役立てられている。
——ルクスはどこまでも続く白い三次元空間上に立っていた。
いや立っているという表現は正しくない。ルクスはそこに存在していた。視覚的に言えば、ルクスの姿は「波」になっていた。白い空間に揺らめく青い波。それがルクスだ。ちょっと寒々しい空間だなとルクスが思うと、青い波の一部がさざ波の様に揺れる。引いては寄せ、そしてゆっくりと元に戻っていく。
それらは全て、ARSリングの五感干渉機能が見せる仮想空間である。現実のルクスは今もニハルに迫られたままソファーに座っているはずだが、あらゆる感覚がARSリングからの仮想空間からの刺激に置き換わっているのだ。
しばらくすると、赤い波が出現した。ただの波。だがルクスにはすぐに分かった。赤い波はニハルだ。赤い波は脈動を繰り返しながら、その一部がルクスに向けて伸びてくる。ルクスも自分の一部を伸ばす。青い波と赤い波が触れあい、ゆっくりと重なり合う。波と波が複雑に絡み合い、紫色になって何か鈴のような音を立てた。
ルクスは思わず「立っていられなくなった」。感じたことの無い快楽がルクスの「全身」を震わせる。それはニハルも同様だった。何が起こったのか? ルクスには言葉で表現が出来ない。五感への刺激では無い。それとは別の、何か別のものに触れた感覚だった。
『どうだった? 今の感触は?』
『良かったけど、なんだいこれは?』
『「感情」よ。今のは私が貴方に抱いている、素の感情。それを伝えたの』
『感情だって?』
そして再び波同士が重なる。赤い波から伝わってくるのは激しく、強く、痛く、でも暖かい。それらが渾然となってルクスを炙り出す。やばい、これはヤバイ。時間の経過さえあやふやになってくる。どれだけの時間こうしているんだ。一分か、それとも一年か?
そうしているうちに突然、「視界」が開けた。なんだ? 触れた瞬間、ニハルの記憶が垣間見えた様な気がした。幼い頃のニハル、学生時代のニハル。しかし、本当にルクスが「見た」のはそれなのだろうか。先程までの渾然とした感触ではない。もっと具体的なイメージ。
——不意に。ルクスはニハルになった。劇場で古い映画を見る様に、ニハルの記憶が再生され始める。
—— ※ —— ※ ——
ルクスがスパイではないか? ということに関しては、何となく察していた。女の勘、だとすればちょっと誇らしい。ニハルの周囲には色んな人間が寄ってくる。ニハルが朝出社してまずやる仕事は、社外のスカウトマンからのメッセージを根刮ぎ消去することだ。ざっくりとは自動で選別はするのだが、最終的にはニハルの目で確認する。以前、取引先からのメッセージを誤って削除してしまって大騒ぎになったからだ。全自動の世界はまだ当分先の様だとため息をつくまでがワンセットである。
ここ数年、ARSリングの開発に成功してからずっとこれが続いている。うんざりする。開発者として名前を出すんじゃ無かったと後悔する時も間々ある。でもなー、名前出した方が給料のアップ率が良かったのだ。お金はあるに越したことはない。
ぴっと音が鳴る。メールが届いた音だ。ニハルは両手でコンピュータを操作しつつ、視線でARSリングを操作する。メールのタイトルは「今見た」、送り主はルクスだ。フルネームはルクバート・フルド。半年前に営業部に入社した新人だ。ここ最近の、ニハルの遊び道具である。
ニハルは溜息をつく。この男、やる気あるのかしら。ニハルがルクスにメッセージを送ったのは昨日の夕方だ。内容は端的に言えば「今度の休みに買い物付き合わない?」だ。ニハルは、ルクスが社内に送り込まれてきたスカウトマン、もしくは企業機密を狙った産業スパイじゃないかと思っている。そういう人間は何人も見てきたから、何となく分かる。ただ、少し変わっているのはガッついていない点だ。
先のメールは、ニハルからの事実上のデートのお誘いである。スパイならチャンスとばかりに食いついてくる案件だ。なのに返信を忘れる。あえて焦らす作戦かとも思ったが、社内メールのやり取りを覗いてみると大体返事が遅いか忘れたかで怒られている。更に。先日、ルクスの社員証を開発部に入れる様にセキュリティ変更してやったのに、一度も使っていない。
それでも待ち合わせの時間に遅れたことは無いし、食事や服装の好みはよく見ている。その点は好感が持てる。だからついつい構ってしまう。
ニハルは集合時間と場所だけを打ち込んで、メールを返信する。しばらくしても応答は無い。何コレと聞き返してこない点は高評価だし、きっとルクスは遅れずに来るだろう。その程度の信頼はしている間柄にはなっていた。少なくともニハルはそう思っていた。
時間は跳んで。ニハルとルクスは火葬場にいた。とても清潔で、酷く殺風景な白い空間に棺桶が鎮座している。周囲にいるのは二人だけ。棺桶を運ぶのも、焼くのも全て全自動だ。炉を閉鎖する扉の一部が窓になっていて、中の炎が見える。炎を色は赤色から青、そして一気に無色となって全ての物を灰にしていく。数分後、炉から正立方体の金属箱に納められた状態で故人が出てきた。ニハルの弟だった。
——十五年前の事件で弟は「心」を失った。
現在主流のARSリングは覚醒型と呼ばれる。仮想現実を体感しつつも、体験者の意識は覚醒している方式だ。これに対し当時主流だったのは、非覚醒型と呼ばれる方式である。これは体験者が非覚醒、つまり睡眠状態でアクセスする方式だ。大型のポッドが必要になるものの、体験者の意識が覚醒していない分、仮想現実の解像度は高い。
その没入感の高さが好評を博し、様々なサービスが提供された。「ラグランジュ5」が膨大な演算力の提供を始めた頃である。現実とほぼ同等の精密な仮想世界が提供され、ゲーム、旅行、スポーツ、そしてメンタル治療などに利用された。
そこで事件は起きた。
非覚醒型の仮想現実ポッドはプロメティアの生産にも利用されていた。元々、製造されたのプロメティアの白紙の脳に初期記憶を刻印する為の道具として開発されたのだ。プロメティアの工場には大型ポットが多数設置されていた。
その生産を妨害すべく、反プロメティアの活動家が工場の大型ポッドに対してハッキングを仕掛けた。正常な記憶では無く、ランダムで無意味なデータを書き込むことによって製造されるプロメティアを廃人化しようとしたのだ。
かくして目的は達成された。当時地球上に七つあった製造工場の内、五つのハッキングに成功。製造中だった数千というプロメティアが廃人と化した。誤算があったとすれば、そのハッキングプログラムが世界中に漏洩したことだった。
——仮想現実を経由して人間の記憶を改竄出来るのではないか? という懸念は開発当初からあった。しかし研究が進み、記憶は様々なデータが複雑に絡み合っている集合体であり、仮に一部を書き換えたとしても他の関連する部位からの補正が働いて元の状態に修復される、ということが明らかになった。唯一「夢」を見ている状態を除いては。
ハッキングプログラムによる廃人化は、プロメティアにしか作用しないはずであった。しかし全世界に拡散したプログラムは「夢」というセキュリティーホールを通じて、人間にも作用した。
ニハルは当時、まだ小学生だった。母と父、そして弟と一緒に仮想世界旅行の真っ最中であった。シリウス星系に見出されたという地球型惑星での楽しい一時。それが突如暗転した。
緊急解放されたポッドから出たニハルを待っていたのは、地獄だった。父と母、弟は運が悪かった。丁度脳が「夢」を見ていたのだ。彼らの記憶はランダムデータに書き換えられた。それが何を引き起こすのか。いっそ死んでいれば、まだ幸せだったのかも知れない。およそ人とは思えぬ行動を繰り返す家族を見て、ニハルの心は悲鳴を上げて壊れた。
それから十五年間。ニハル以外の家族は全員病院で寝たきりになった。身体のあらゆる所から管が伸び、そして初期型のARSリングが彼らを沈静させる感覚を送り込み続ける。正に生ける屍だった。だが、この「治療」を受けられた者はまだ幸運といえた。どの家族も、無秩序に暴れる被害者の対応に苦慮していたからだ。もっともその治療費の支払で、ニハルは膨大な借金を背負うことになった訳だが。
政府からの援助は微々たるものだった。そして仮想現実に没入していた対象者全員が一様に被害を受けた訳ではないことも、被害者の親族親類を苦しめた。被害者には元々そういった素養があったのだという風説が流れたのだ。最終的に「夢を見ていた」という条件が判明したが、政府の対応は後手後手に回り続けた。事件の主犯も捕まっていない。だからニハルは政府を嫌っている。
父が死に、母が死に、そして今弟も死んだ。ふうと溜息をつくニハル。生きる屍、あれは私にとって家族だったんだろうか。「心」の無い肉の塊、それでも結局ニハルは最後まで見捨てられなかった。
「ルクスは私の身体が好き? それとも心が好き?」
「無意味な問題だと思うけど。身体と心は不可分だ。両方合わさった状態がニハルだと思うよ」
「もしもの話よ」
「どっちも好き。出来るだけニハルにはスマートでいてもらいたいね」
「正直者め」
ニハルは笑った。二人の目の前で金属箱が運ばれていく。明日の便で軌道エレベータに乗せられ、いずれ宇宙葬で弔われる予定だ。両親も先に待っている。
二人は火葬場を出る。ニハルは立ち止まり、大きく息を吐いた。肩の荷が下りた。もう今の仕事を続ける理由も無くなった。
「付き合ってくれてありがと。お陰で随分楽になったわ」
「別に大したことはしてないよ。ぼーと眺めていただけだ」
「今日のことだけじゃないわ。入社してからずっと、私に付き合ってくれてたでしょ」
ニハルはルクスに親近感を感じていた。それは彼も家族を同じ事件で失っているから——同じ境遇の者同士でなければ共有できない感情が、二人の間にはあった。
「それもまあ、大したことじゃない」
「ARSリングの試作機、調べたいのなら貸してあげるわよ。スパイさん」
そう告げた時のルクスの表情。カメラで撮っておけば良かったとニハルはちょっと後悔した。ちょっとだけ素が覗いたと思えた表情だった。
「なんのことかな、よく分からないな」
ルクスの取り繕う声の語尾は微妙に震えている。
「まあいいわよ、黙っておいてあげるから。その代わり」
ニハルはルクスの手を掴んで、そして引っ張るように歩き出す。
「今度は、私が纏わり付く番だからね」
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