【三】ニハルという女(其の二)
夜になると、洋上は真っ暗となる。新オキナワ市の近くに他の島は無い。人工島が黒い海の上で蛍のように輝く。そしてそこから星空へと向けて、点滅する赤い光の列が伸びていく。軌道エレベータの航空障害灯だ。
新オキナワ市は太平洋上に造られた人工島である。但し埋め立てではない。海に浮かぶ巨大なメガフロート——浮体式構造物——である。下層には移動する為の推進器がついていて、海流の動きに流される島を軌道エレベータに対して静止する様に動かしている。街一つがすっぽりと収まるほど大きさである。島の上で揺れを感じることは殆ど無い。まれに敏感な人が船酔いするぐらいである。
浮島という構造上、その上に乗っている建築物には区画ごとに重量制限が設けられている。新オキナワ市を俯瞰すると、区画ごとの建物の高さの平均が大体一定になっているのはこの為だ。ニハルの住まいは四十階建ての高層マンションである。周りは緑豊かな公園で、同じ区画に他の建物は存在しない。
「随分高いところに住んでいるんだな」
「それ前にも聞いたわ。これでもARSリングの開発者ですから、お金には困ってないわ」
「いいなー。ちょっと分けてほしい」
「もう五百万ほど貸している、って言ったら信じる?」
ルクスが焦った表情を浮かべると、ニハルは満足げに笑った。マンションのエントランスからエレベーターホールへ。通過する度にニハルのARSリングの一部が点滅する。ニハルがエレベータの前に立つと丁度のタイミングでドアが開く。フロアボタンを押す必要も無い。
ニハルに続いて、ルクスは感心した様子でエレベータに乗った。両手には紙袋。中身は昼間デパートで買い揃えたルクスの着替えや歯ブラシなどのお泊まりセット一式である。結局ルクスは今日仕事をしていない。日中はニハルの買物に付き合わされて終わった。
——いいのか? 今日もいないであろう営業部々長からは何も言ってこない。アトリアからは一回電話が入ったが、開発部の打ち合わせということで誤魔化しておいた。もっとも今夜はアトリアの自宅に戻らないから不審に思われるのは時間の問題である。ルクスはARSリングを視線で操作して、アトリアからの着信をブロックする設定に切り替えた。
エレベータは最上階に着いた。左右に廊下が延びているが、扉は一つしかなかった。四〇〇一号室だけがそこにある。ニハルが近づくと鍵が自動的にがちゃりと音を立てる。中に入ると、全面ガラス張りの向こうに夜景が輝いていた。リビングだけでルクスのアパートの倍はありそうだった。室内は既に適温に空調されている。ルクスにとってはちょっと暑い。
「部屋はそっちにあるから好きなの使って」
ニハルの言われる通り「そっち」リビング左手の廊下を行くと、四部屋分のドアが並んでいた。どうやらゲストルームの様だ。中を覗くとクローゼットやダブルベッドは勿論、バスルームやキッチンも完備している。これ一室だけでルクスの家より広く立派だ。ルクスは溜息をつき、とりあえず一番近い部屋に荷物を置いた。
一番奥の部屋は倉庫と化していて、積まれた書籍が古くさい紙の匂いを漂わせていた。そして幾つかの写真が飾られている。恐らくはニハルの幼年期の家族の写真だ。父、母、そして弟か? そしてニハル。眼鏡っ娘だった。犬も映っている。
ルクスがリビングに戻ると、空きっ腹に響く匂いが漂ってきた。オープンキッチンには白い貫頭衣に着替えたニハルが料理をしていた。そういえば夕食はまだ食べていない。
「料理出来たんだ」
「料理なんてもんじゃないわ。ただ切って煮るだけだもの」
そう言う割りには手慣れた手つきで鶏肉を捌き、手早くじゃがいもを剥いていく。電磁コンロでは寸胴の鍋で汁が煮立っていく。醤油ベースの優しい香りだ。ニハルは刻んだ具材を鍋に投入し、蓋をする。
「まだ時間かかるから、ワインでも吞んでたら?」
ニハルはルクスに背を向け、冷蔵庫を開ける。まだ何かを作る様だ。ルクスが周りを見回すと、キッチンとリビングの間ぐらいにワインセラーを見つけた。二十本ぐらい入る、結構大型のセラーだ。ルクスはワインセラーを開け、一本取りだして見る。
「おお、エウロパボルドーじゃん。なかなか良い趣味してますなあ」
「そう? 銘柄って良く分からないのよね」
「選んで買ってきたんじゃないの?」
「それサブスクだから」
ワインのサブスク。そんなものがあるのか。話を聞けば、一定金額で吞んだ分だけ適当な銘柄をチョイスして送ってきてくれるらしい。悪くないサービスだ。月額料金の設定を除けばだが。
ルクスは折角なので一本、赤ワインを取り出して一口含んだ。美味い。もう一口と思い、自重する。アルコールには強い自信があったが、一昨日なぜか二日酔いしたばかりである。あまり酔っ払うわけにはいかない。先日しこたま二日酔いになったしな……。
鶏肉の煮物、スパゲティ、パインサラダ。そしてワイン。ルクスとニハルはリビングで夕食を共にした。藪蛇になりそうだから聞かなかったが、記憶を失う前のルクスは幾度とここに通っていたと感じた。メニューがルクス好みだった。偉いぞルクス。昔の自分はちゃんと任務を遂行していた様だ。二股さえかけていなければ百点満点だ。
しかし疑問も残る。昔のルクスはどうやってニハルと懇意になったんだろうか。まあ多少は外見に自信があるし、ハイスクール時代は結構モテた。でもこれだけの美女を落としたなんて、こんな状況でなければ、大はしゃぎしているところだ。贈り物攻勢? いやそれはないな。年収一年分の指輪なんて、二人で比べたらそれこそ月とすっぽんになるだろうし。
食事を終えると、何となくまったりとした雰囲気になる。ソファーに肩をつけて座り、夜景とドライフルーツを肴にちびちびと酒を呑む。窓ガラスにはテレビが埋め込まれてあって、コメディ番組が放送されている。ニハルは時折笑いながら、ルクスの右足から取り外した義足で遊んでいる。
「機械式なんて珍しいわ」
ニハルは太股の上に置いた義足の指を、親指から順に折り畳んでいく。ゆっくりと丁寧に。ニハルの指のマニキュアは落ちていたが、それでも綺麗な薄い桃色をしている。
「安いからじゃないのか? それに生体式は繋げる時にリハビリ込みで二週間はかかるだろ。定期交換の時が面倒だから、それで機械式にしたんじゃないのかな」
「何年前なの?」
「三年前だって」
「何の仕事してたの?」
「ダイビングインストラクター。鮫に食われたらしい」
「海の男って感じはしないわ」
ニハルの指が、今度はルクスの胸元を撫でる。厚みのあるバスローブの上から指先を押し込んで、ルクスの胸の凹凸に沿って這わせていく。
「海の男を知っているの?」
「いえ、なんとなくよ。……なに、気になる?」
「あまり他人の話は聞きたくないね」
「そう?」
そういってニハルはまた笑った。ルクスはそのニハルから義足を取り上げ、右足に装着する。丁度膝関節から下が義足になっている。ピッという電子音がすると、右膝から下の感覚が戻ってきた。足の指がルクスの意思通りに動く。
ニハルは立ち上がり、一度その黒髪を両手で梳いた。シャンプーの香りか、日中とは違う花の香りがルクスを包み込む。ニハルが両手をソファーにつくと、端正な顔がルクスの視界一杯に広がった。
「少し変わったわね、ルクス。前は昔話、全然してくれなかった」
「そうなの?」
そうかもな、とルクスは思った。何せ今のルクスには六年間の記憶が無い。人間の心が記憶の積み重ねだとすれば、記憶喪失前と後のルクスはある意味他人といっても良い。少なくとも今のルクスはハイスクールを卒業したばかりの、世間擦れしていない大人になりきれていない少年だ。
「あまり良くないかな?」
「いいえ、悪くないわよ」
ルクスの唇が熱を感じる。ニハルはもう、見えないところにまで近づいている。接した二つの唇が動き、そしてかなりしてからゆっくり離れた。
ニハルはテーブルの上に置かれた二つのARSリングに手を伸ばした。一つはルクス、もう一つはニハルの。ニハルのARSリングは黒い。例の試作機か? 一台だけじゃなかったのか
「それって」
「ん? 貴方にも貸したじゃない。次期ARSリングの試作機よ」
ニハルはルクスにARSリングを掛けさせると、自分のリングを操作した。電子音がして、ニハルのリングから何かデータが転送されてくる。十秒ほどで転送は終わり、ルクスの視界に「オラクル」という表示がポップアップしてくる。
「……え? ちょっと、なにこれ?!」
「ふふふ、ちょっと面白い遊びよ」
ニハルは柔らかく微笑んだ。そしてARSリングが構築する仮想現実へと、二人の意識は落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます