【三】ニハルという女(其の一)
反太陽系連合組織。通称「アンチ」。その成立は西暦末期にまで遡る。太陽系内へ進出を果たした人類は、異星知的生命体との接触に備えて人類統一政府となる太陽系連合を樹立した。反連合国家群は統一に反対したが統合戦争の結果、敗北、解体された。その残存勢力がゲリラ化したのが「アンチ」である。
発足当時は世界統一への反対を旗印にしていたが、時が経つにつれて太陽系連合への様々な反対勢力を糾合しつつ肥大化、複雑化して、今ではその全容を知る者は「アンチ」の上層部にもいないと言われている。「アンチ」の下部組織同士が抗争することもそう珍しいことでは無い。
様々な欲望や不平不満を飲み込んで、彼らは当初の目標を見失ったまま迷走している。そしてそれらの圧力は、大抵の場合「テロ」という形となって噴出するのだ。
「ああ、無事「オラクル」は起動したよ。試運転の結果もまあまあだ」
薄暗い公園に中性的な声が響く。日は落ち、青白い照明が等間隔で辺りを照らしている。人の気配は無い。だからその声を聞き止める者もいない。黒いARSリングを装着した銀髪の君は、ベンチに座って虚空に話しかけている。
「——分かっている。そっちにも協力するさ。全く、そんなことをして何が楽しいんだか」
銀髪の君は溜息をついたり怪訝そうな表情をしたり、まるで独り言を言っている様に見える。恐らくはARSリングで誰かと映像通信しているのだろう。銀髪の君の目と耳には、きちんと相手の姿と声が聞こえている。
「式典は明日だ。追加の「オラクル」の受領は——了解だ。シュリタワーで、だな」
ゆっくりと銀髪の君が立ち上がる。潮風にふわりと銀髪が流れる。
「アンタも見に来ると良い。楽しいショータイムになるだろうからな」
にやりと笑った唇の奥に見えたのは、透明な歯だった。
—— ※ —— ※ ——
——宇宙歴百年七月三十一日。
「さて、どういうことかしら?」
朝一番、ルクスは詰められていた。極星インダストリー社屋の四階。広々とした開発部には今ルクスとニハルしかいない。整然と並んだノートパソコンたちは、主がいないにも関わらず忙しなく動作している。開発部所属社員の殆どは自宅からオンラインで作業しているのだ。ニハルは珍しい出社組だ。
「まさか同棲までしていたなんて」
「いやオレもびっくりしているところだよ」
「貴方、本当に記憶喪失なんでしょうね? そうやって誤魔化そうとしていない?」
ぐいっと、ニハルがルクスのネクタイを引っ張る。吐息が迫る。身長はルクスの方が頭一つ分高い。引っ張られたせいでルクスの体勢はへっぴり腰になっている。
「本当だよ! 本当に記憶が無くってオレも困っているんだ」
「そうでしょうね。それで二股と同棲が発覚したんですものね。さぞお困りでしょうね」
ルクスは思った。美人とは何をしても美しいんだなあと。眉間に皺が寄り、眼鏡越しに瞳孔が怒りを体現するかの様に揺らめいている。そこにはギリシアの彫像の様な美しさを感じる。一つ問題があるとすれば、その怒りの矛先がルクスに向いていることだが。
ぱっと、ニハルはネクタイから手を離した。ぺたりと座り込むルクス。冷たい。
「まあいいわ。兎に角、貴方との関係もここまでね。さよなら」
「ちょ、まてまて。待ってくれ」
ルクスは慌てて立ち上がった。ニハルは背を向けるが、その肩に後ろから手を乗せて引き留める。ちらりとニハルが値踏みをする様に視線だけを向ける。
——引き留める必要があるのか? ルクスは自問する。ニハルの方から立ち去ってくれるのであれば、比較的穏便に二股関係を解消出来るってことだ。未解決問題かと思っていた難問が解決出来る。それはきっと良いことだ。
だが。ニハルとの関係が破綻するのはマズイ。ルクスの直感がそう告げている。記憶喪失前のルクスが何を考えていたかは分からんが、ニハルと懇意になったのには理由があるハズだ。と思いたい。出ないと本当に欲望のままに籠絡と二股をしたド外道になってしまう。
「せめて記憶が戻るまで待ってくれよ。戻ったら、全部洗いざらい吐くからさ」
「そんなこと。他の子との惚気話でも聞かせる気?」
「二股に何か理由があるかも知れないだろ?」
「どんな理由?」
「分からん」
「あのねえ」
「でも」
ルクスはニハルの肩に力を込めた。指先が食い込む。
「少なくとも今は、オレは、ニハルのことが好きなんだ」
ゆっくりと語気強くルクスは告げた。そして静寂。かたかたと空調とパソコンが動作する音だけが二人を包み込む。
ルクスは思った。今の自分も、そして恐らくは過去の自分も、好意を抱いていない相手を弄ぶほど酷い男ではないと。そう信じたい。まあ二股は充分に酷いことなんだが、それでもせめて相手のことを本気で好きだということだけは、疑いたく無い。そこまで自分に失望したくなかった。
そして今のルクスは、ニハルに好意を抱いている。これは紛れもない事実だ。ニハルが都度、ルクスの様子を見に来ていたことは気がついていた。大抵アトリアが傍に居たから近づいてはこなかったが。病院のベッドで目覚めた時、彼女が出迎えてくれたことは多分一生忘れない。
「……はあ、わかったわ」
ニハルはふうと溜息をついて、折れた。肩に置かれたルクスの手を払い、くるりと振り向く。舞った黒髪がルクスの鼻先を撫でる。
「一つ条件があるわ」
「なんでしょう?」
「これから買物に行きましょう」
「は?」
そんなルクスの表情を見て、ニハルはようやく笑顔を見せた。
「これから? どこへ? っていうか、この要望書はどうするんだよ」
ルクスは、昨日アディル社から持ち帰ったアタッシュケースを手にした。そもそも、この打ち合わせの為にルクスは開発部へ来たのだ。ニハルはふんと鼻を鳴らし、首に掛けたARSリングをそのしなやかな指でとんとんと叩く。
「あー、マイア? ちょっとお願いがあるんだけど。うん、開発部の机の上にケース置いておくから、社長に渡しておいて? うん、そう。よろしくねー」
通話が終わると、ニハルはルクスの手をアタッシュケースから奪った。どんと雑に机の上に放置する。ルクスの身体が引っ張られる。ニハルの指が腕に巻きついていた。
「今日から私の家に住みなさい。それが条件よ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます