【二】アトリアという女(其の三)
自宅に入るとルクスは少し暖かな匂いを感じた。照明は自動的に点灯し、空調が冷たい空気を送り始める。玄関、小さいキッチンについたリビング、寝室兼個室が一つ。狭いながらもバスとトイレは別だ。壁紙やカーテンが明るい暖色で統一されているところに女性らしさを感じる。
ぐるりと見回す。キッチンにコップが二つ、洗面台にも歯ブラシが二つ。だがタオルは一つ。アトリアは手慣れた様に、バスにお湯を張り始める。寝室には敷かれたままの布団が、二つ。ルクスは認めるしか無かった。うん、これは二人住まいの環境だ。同棲とも言う。
ルクスはアトリアが煎れてくれた紅茶を啜りながら自問する。マジか、マジなのかオレ。まあ百歩譲ってアトリアと付き合っているのは、まあ許容しよう。しかし一緒に住んでいた? そこまで親密な関係だったのか? どこまで? 軌道エレベータの頂上までか?
アトリアがひょいと顔を出す。
「先輩ー。お風呂入ります?」
「いや、オレはいいよ」
「え? 一緒に入らないんですか?」
ぶふっ。思わずルクスが紅茶を吹き出す。
「い、一緒にってお前な」
「なーに今更恥ずかしがってるんですかー。人のほくろの数を数えて遊んでいたくせにー」
にやにやとアトリアが半目になる。ルクスは咳き込む肺を必死に抑えて、じっとアトリアを見つめた。真っ直ぐな視線と視線がぶつかり合う。
「いや、嘘だ。お前、こっちに記憶が無いからって好き勝手言うなよ」
「あれー、バレちゃったか」
「どうせ記憶が戻ったらバレるだろが」
「そうなんですけどー。ちょっと刺激を与えた方が、早く戻るかなーって」
「どうせなら正しい事実で刺激してくれ……」
「はーい。でも本当のことの方が、もっと刺激的かも知れませんよ?」
そう白い歯を見せてから、アトリアはバスルームに引っ込んだ。
アトリアが入浴している間に、ルクスはドラゴン君に頼んで役所のデータベースを調べた。アトリアの戸籍を確認する。ルクスが確認したのは「保護者」の欄だ。名前はタイゲタ・アラダ。八十三歳、男性。新オキナワ市にある孤児院の院長を勤めている。
プロメティアには限定的な人権がある。何が限定的なのか? 子供の人権がその幼さ故に制限し守られているのと同様、プロメティアが社会で活動する為には人間の保護者が必須となっている。保護者がプロメティアを監督・保護し、時にはその責任を取るのだ。
ルクスはタイゲタという人物の現住所をマップに登録すると、データベースを閉じた。今回の件には関係ないかも知れないが、一度は確認した方がいいかも知れない。
アトリアが入浴から戻るタイミングで、ルクスはドリアの冷凍パックを解凍して共に夕食をとった。壁掛けテレビでは早速昼間の事件がニュースとして流れていた。ルクスの名前は出ていない。気になるのはここ数日、同様の通り魔事件が何件か発生していることだ。何か関連があるのだろうか。
「あのデータ、役に立ちましたか?」
食事が終わったタイミングでアトリアが聞いていた。聞いてから「あ、記憶ないんでしたっけ?」とアトリアがばつの悪そうな表情を浮かべる。良い子だね本当に。もしルクスが彼女の立場だったか、今頃馬乗りになってぶん殴っているところだ。むしろそうして欲しい。アトリアが良い子であればあるほど、ルクスの心の罪悪感が大きくなっていき彼を押し潰してしまいそうだった。
「あれをコピーする様に頼んだのは、オレなのか?」
「そうですよー。結構大変だったんですからねー。褒めて下さい」
「なんでオレは……そんなことを頼んだんだろうか……?」
「え? スパイさんだからじゃないんですか?」
屈託の無いアトリアの言葉に、ルクスは食後の緑茶を吹き出した。
「す、スパイだって、オレが言ったのか?」
「はいー。ウチの会社、誰か悪いことしている人がいるから捜査に協力して欲しいって」
「そ、そうか……」
ルクスは頭が痛くなってきた。スパイがスパイであることを明言したのか……なんかすごく自分が間抜けなスパイに思えてきた。い、いや。アトリアが有力な内部協力者として味方にしたのであれば、ありえないことじゃない。実際協力してくれている様だし。
スパイなのはほぼ確定か。しかしそうなると、一体どこから派遣されたスパイなんだろうか。社内で良からぬ事をしている人間を探しているということは、シェアト社長に雇われた内部調査員なのだろうか。いやそれだと、アトリアに頼んでメールデータを引っこ抜いた理由が分からなくなる。
むしろ、他社の産業スパイという線の方が納得感がある。何せ極星インダストリーは圧倒的なシェアを誇るARSリングの開発元だ。同業他社から見れば、ある意味宝の山だ。悪さしている人を探しているというのはアトリアを騙す方便で、実は門外不出の技術データを探しているとか?
ルクスの視界の隅には、例の謎のメッセージアプリが起動したままだ。転送する為にあるファイルが指定され、パスワードの入力を待っている。指定されたファイルの名前は「オラクル計画書」。但し中身は分からない。暗号化されていたのだ。何の計画書だろうか? 次期ARSリングの計画書? 「オラクル」がそのコードネームというのはあり得そうだが……。
「なあ。「オラクル」って名前に聞き覚えはないか?」
「先輩が探しているモノですよね? あたしは聞いたことないです。以前、プログラムの名前ってことは先輩が言ってましたよ?」
「そうなのか」
「……あっ!」
突然、何かをひらめいたのかアトリアが立ち上がった。ぱんと両手を叩き、そしてルクスを見つめる。ぱあああっと言う擬音が聞こえてきそうな、とても明るい表情。
「そうゆうことだったんですね、先輩!」
「どうゆうこと?!」
戸惑うルクスに構わず、アトリアは密着する様に隣に座って深く腕を絡ませてきた。風呂上がりと少し湿った髪がルクスの顎をくすぐる。いつもの柑橘系の香りがより強く感じられる。
「ニハルさんと付き合ってるふりをしているのは、オラクルを探す為なんですね!」
「え、そうなの?」
聞かれたルクスが問い返す。少し考えて、ああと納得する。「オラクル」が何かのプログラムである以上、それがあるのは十中八九、開発部だ。となればチーフエンジニアであるニハルが関わっている可能性が高い。
つまりアトリアが言いたいのは、ルクスの探している「悪いことをしている」のがニハルで、ルクスはニハルから「オラクル」の情報を引き出す為に籠絡した、と。まあ、確かにニハルからはARSリングの試作品をこっそり借り受けているしな。色恋沙汰を釣り餌に情報を引き出すのはスパイの典型ではある。
(……あ!)
ルクスはとんでもないことに気がついた。いや、正確にいえば少し前から気がついていたが、あまりの酷さに目を瞑っていたと言うべきか。ルクスは努めて平静な表情を保っていたが、内心は真っ青だった。
(すげえ! 碌でもないぞ、過去の自分!)
色恋沙汰を武器にするのはスパイの典型。だとすれば、籠絡されているのはアトリアの方かも知れないという予測に、ルクスは気がついてしまった。いやニハルもそうだとすれば、籠絡した上で二股してるってことになる。おいおいおいおい。
ルクスは心の良心が折れかかっていた。こう、なんていうのかな。百歩譲って、恋のゲームをしている様な相手だったら、そういうのも良いだろう。しかしだな、アトリアの様な素直で優しくって純真無垢な女性を相手に籠絡に二股って、そりゃお前……(絶句)。
そんなルクスの内心を知らずに、アトリアは会話を続ける。
「ニハルさん、ちょっと怪しいんですよ。彼女の自宅、タワマンの最上階全部なんですよ。ワンフロアまるまるです。ウチの会社、そんなに高給取りなんですか?」
「いや、それは分からんが……」
「男嫌いだって言っていたのに、先輩に色目使うし……ちょっと信じられません」
ぎゅううっと絡みついた腕を強く締め上げてくる。柔らかい肌の感触は正直気持ち良いが、まるで大蛇に絡みつかれている感じもする。大蛇は絡みついた相手をどうするか知っているか? 丸呑みにして食べちゃうんだよ。
「早く記憶が戻るといいですねー」
アトリアはすりすりと頬ずりをしてくる。
「そうだな」
それはそう。ルクス自身がそれをもっとも望んでいる。記憶が無いままに、なにかヤバイ案件を踏み抜くことが一番怖い。もっとも、記憶が戻ったとしてもこの状況を何とかできるとは考えにくい。詰んでいる。少なくとも女性関係については完全に詰んでいる。
「こんな事件さっさと終わらせて、早く結婚したいですー」
「……はい?」
ルクスは首を動かしてアトリアを見た。彼女もその綺麗な碧瞳でルクスを見上げる。じっと。お互いの瞳にお互いが映り、やや揺らめく。嘘だ、と言いたかったがルクスの直感がそれを否定する。
「け、結婚の約束を、したのか?」
「今度は本当ですよ」
アトリアがニッコリと笑う。ルクスはかつてない衝撃を受けたが、残念ながら記憶は戻っては来なかった。
衝撃の余韻が覚めやらぬ中、その日は早々に就寝した。アトリアも隣の布団で寝た。そしてルクスは知る。彼女の寝相が悪いことを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます