【二】アトリアという女(其の一)
——宇宙歴百年七月三十日。
「ドラゴン君」
『なんでしょうかー?』
「パスワードを教えてくれ」
『セキュリティポリシーに違反しますので、お答えできません。恐らくユーザ本人のみが把握している情報と思われますー』
「ですよねー」
ルクスは頭を抱えた。出社してすぐ自分のデスクに突っ伏している。痛い、そして吐き気が断続的に襲ってくる。傷の後遺症では無い。二日酔いだった。昨晩はあまりの精神的負荷に耐えかねて飲酒した。しかし、そんなに痛飲したつもりはなかったが、記憶喪失とは別の意味で記憶が無い。自分、アルコールに弱いのだろうか……。
まあ痛飲したとしても、仕方が無いといえる。目下、ルクスには難題が二つあった。社内で二股を掛けていたこと。そして自分がスパイらしいということ。記憶喪失のルクスにとっては、どちらも回答不能の未解決問題の様に思えて涙が出てくる。
いや記憶があっても詰んでいるだろ、これ。社内で二股かけて、それでどうしようとしていたんだ過去の自分よ。
「先輩、大丈夫ですかー?」
アトリアが近寄ってきて、ことりと小さな瓶を置く。ちらりと見ると、二日酔いに効くという栄養ドリンクだった。ルクスは震える手で蓋を回し、一気にあおる。すこし刺激のある食感。心なしか、胃のムカムカが良くなった様な気がする。
「……ありがとう。ちょっと楽になったよ」
「病院に行くって嘘だったんですね。そういうの良くないと思います」
アトリアの表情は厳しい。眉間に皺が寄っている。
「いや、昨晩は病院に検査で泊まって……」
「嘘。すごくお酒臭いです。本当に病院に行ったのなら、問い合わせてもいいですよね?」
「ごめんなさい」
「はあ。みんなには黙っておきますね」
なでなでと、アトリアがルクスの頭を撫でる。先輩と言いつつ子供扱いしている気がしたが、ルクスは黙っていた。少し冷たいその手が気持ち良い。
優しいな、この子は。二股を掛けていた、控えめに言って人の心が無いクズに対しても優しく接してくれる。こんな子と恋人同士だったなんて、記憶喪失になる前に自分は実に見る眼がある。二日酔いの痛みを、ドリンク剤よりも彼女の優しさがふんわりと和らげてくれる。
だがしかし、その彼女の優しさがルクスの心を締め上げてもいる。そんな子に二股をかけていたのか……そんな外道の胸倉を締め上げたい気分だが、それは記憶が無いとはいえ自分の首でもあるのだ。
「先輩。今日アディル社へ行く予定ですけど、どうしますか?」
「行く」
ルクスはゆっくりと上体を起こし、きりっと表情を整える。記憶は無いが、サラリーマンとしての性質は身に染みついている様だった。
「仕事の内容って分かっていますかあ? その、記憶喪失ですよね」
「大丈夫、書類関係には一通り目を通した。ARSリングの追加機能の打ち合わせだろ?」
アディル社はARSリングの販売メーカーである。極星インダストリーの開発したARSリングを独占的に取り扱っている。販売の他、プロモーション、エンドユーザサービスなども行っている。一般ユーザからすれば、ARSリングはアディル社の製品との認識だ。ARSリング市場の伸長に伴って急成長している新興企業であり、今や世界的な大企業だ。
ARSリングを含む情報端末は基本、定期的にアップデートされる。従来の機能を改修したり、新機能を追加したり。その内容の打ち合わせが今日あるのだ。もっとも営業であるルクスたちの役目は、アディル社から提示される改修要望書を受け取って、弊社の開発部へと渡すこと。本来の語義からは程遠いお役目ではある。まあだから記憶喪失のルクスでも務まる訳だが。
時計が十一時を示す。「それじゃあ行ってきますー」とアトリアは律儀に挨拶してから、無人となる営業部を出る。営業部には三人目の社員、管理職である部長がいるはずだがルクスは一度もその姿を見ていない。いいのかそれで。
二人はタクシーに乗り込んで、アディル社へと向かった。車中、アトリアが何かを見つけて反対側の車線に視線を注ぐ。赤い流線型の車が、少し速い速度で擦れ違っていった。アトリアの頭がそれを追ってぐるりと回る。他の自動車と違い、運転席でハンドルを握る人の姿が見えた。
「今の車、手動車ですよ。いいなー」
「へえ。この辺りじゃ珍しいな」
「認可、厳しいらしいですよー。車も運転免許も」
手動車とは人間が運転する車のことだ。ここ新オキナワ市は自動運転を前提に都市設計が行われているので、ほぼ手動車は存在しない。ごく一部の好事家たちのオモチャである。知ってるか? 手動で運転するのにオートマっていうらしいんだぜ。
「ああいうの、ちょっと憧れます」
「車を運転したいの?」
「いいえ。助手席っていうのに座って、海沿いの道をドライブするんです。良いと思いませんか?」
アトリアがうっとりした表情を浮かべる。ルクスには今一ピンと来ないが、ああ、古典映画とかではよくあるシーンだなとは思う。昔は車が恋人たちの恋を語らうツールの一つだったという。
西暦時代の北米大陸では、恋人たちのデートスポットは自宅だった。付き合い始めたらまず家族に紹介するのが一般的で、家族で食事を取るのがデートだった。勿論、初々しい恋人たちによっては堅苦しい。そこに車というアイテムが生まれた。恋人たちは率先して車に群がった。車は恋人たちの足として、堅苦しい家庭から解き放ったのだ。
今に例えるとなんだろうな? 軌道エレベータの特等室で地球の地平線を眺めながら「君の瞳に乾杯」とかいうヤツだろうか。
「アトリアは随分古典的なのが好きなんだな」
「でも最初に言い出したのは先輩ですよ。忘れちゃってますけど」
屈託の無いアトリアだったが、ルクスは心拍数が上がった。知らない自分がまた出てきた。分からん。昔のオレは、手動車になんか興味の無い人間だった。ルクスは内心、苦渋の表情を浮かべる。六年という年月は思いの外大きい。
タクシーはロータリーをぐるりと回って静かに停止した。長方形の箱を横に幾つも重ねて並べた様な大きなビルが二人の眼前に立っている。最近流行の全面ガラス張り。ルクスとアトリアは視線を向ける。すると建物表面に「アディルカンパニー・新オキナワ本社」とのロゴが浮かび上がった。二人はゆっくりとビルへと入っていく。
——さすが今をときめく大企業である。一階の受付兼ラウンジには多数の来訪客がいた。受付係も十人いる。皆、綺麗な顔立ちをしていて、目元にバーコードの様な印がある。プロメティアだ。無論というか、皆、首にARSリングを着けている。無論最新型である。
アトリアは手慣れた様に受付係と会話をする。するとすぐに奧から別の係が出てきて、アトリアとルクスをラウンジの中でも奥まった位置にあるエレベータまで案内した。どうやらVIP待遇の様だ。
エレベータは無音で二人を最上階まで送り届けた。「ここで少々お待ちください」と案内係が告げた部屋は、軌道エレベータと新オキナワ市が一望出来る展望室になっている。どうみてもビジネスマンが会議する様な部屋では無い。偉い身分の悪役が自分の悪事を披露しながらワイングラス片手に高笑いする場所だ。
「やあ待たせてしまったね、アトリアさん、アビオールさん」
十分ほどして、アディル社側の担当者が入室してきた。白い縁の眼鏡、紅茶色の瞳、そしてちょっと生えた無精髭。衣装もラフで着崩したワイシャツとジーンズ。靴はスニーカー。ルクスはその人物にちょっと驚いた。アディル社のCEOだったからだ。
「いつもお世話になっております」
物怖じせずゆっくりと頭を下げるアトリア。ルクスはやや遅れて、ぎこちなく挨拶を交わした。アディル社のCEOといえば、今年の人百選に選ばれるような有名人である。それがまさかこんな小企業の営業の前に姿を現すとは。それだけ弊社を重要視しているということだろうか。
ふと、ルクスは表示されているアイコンに気がついた。CEOの頭の辺りに「遠隔映像」とポップアップしている。ああ、なるほど。本物のCEOはどこか別の場所にいて、立体映像だけARSリング経由で送っているのか。すごいな。全く気がつかなかった。
「すまないね。通信管理局との話し合いで、今はラグランジュ5にいるんだよ」
「何かあったんですか?」
「いや、大したことではない。アンタの所の製品が売れすぎてるからどうにかしろって。まあやっかみだな」
CEOは肩を竦めて眉を曲げて笑ってみせた。通信管理局は知っている。大統領府直属の、情報通信を統括する部局だ。地球と月の間に浮かぶ巨大な演算衛星ラグランジュ5が本拠地。ARSリングを含む今の情報端末はその演算力をラグランジュ5に頼って成立しているので、まあお上には逆らえないというやつだ。建前上はインフラ中立を標榜しているから滅多なことでは介入してこないはずだが、何かやらかしたのかな?
「さて、これが弊社からの要望書だ」
CEOは後ろで控える秘書に指示する。秘書はリアルでここにいる。彼女は鞄の中からクリップで纏められた紙束を取り出し、差し出した。アトリアが受け取る。ルクスはちょいと覗き込むが、表紙は白紙だ。いや。ARSリングを外すと「次期ARSリング設計要望書」と書かれているのが見えた。なるほど。機密文書だからスキャン出来ない様に特殊な印刷がされているか。ARSリングは無反応だ。情報技術が進んだ現代、こういったアナログな紙の方が案外機密を守りやすかったりするのかも知れない。
「ところで、ニハルさんは元気かね?」
「ええ、今回のプロジェクトも前向きに作業されていますよ」
「それは良かった。彼女には頑張ってもらわないとね」
CEOはにっこりと微笑む。ニハルは開発部所属。会話から察するに、ニハルはARSリング開発のメインエンジニア、と言っていい重要なポジションについているらしい。
「少し前に懇親も兼ねて食事に誘ったんだが、断られてしまったよ。だからちょっと心配だったんだ」
ルクスの眉がぴくりと動く。それはあれか、ヘッドハンティングか? それとも異性として接触しようということか? それはちょっと聞き捨てならない。ニハルは恋人だ、粉掛けられて気分が良いものでは無い。だがしかし、そんなルクスは二股を掛けている外道であった。はい、すみません。ルクスの顔が情けなく垂れる。
「弊社のニハルは男嫌いですから。きっと女性役員からのお誘いであれば受けると思いますよ」
そういってアトリアは用意された紅茶を飲んだ。CEOの視線がアトリアに向く。
「そういえば、アトリアさんは開発に移る気はないのかな? プロメティアの方には優秀なエンジニアが多い。弊社でも開発の三割はプロメティアだ」
三割、それは多い。ルクスは感心した。確かにプロメティアには理数系を得意とする者が多いが、機密情報を扱う部門でそれだけの人数を運用しているケースは珍しい。
「私、人と接する仕事が好きなんです」
言外にヘッドハンティングのお誘いだったそれを、アトリアは満面の笑顔で返した。その目元にはバーコードが煌めいていた。
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