【一】ルクスという男(其の三)

 極星インダストリーは親族経営の小さな会社だ。世間的には無名といって良い。だがとある筋、情報処理関連の業界では著名である。なぜならば、今もっとも市場で普及しているARSリングを開発した企業だからだ。無名なのはARSリングの販売を提携先の大企業に任せているせいだ。


 創業百年。黒子に徹し、先進的な技術を幾つも開発している。五感干渉装置のワンチップ化、無線送電、非時差通信、そして膨大な情報処理の大部分を宇宙に浮かぶ巨大な演算衛星「ラグランジュ5」で行う——それらを稼働させるコンパクトなARSリング。それらの画期的な技術革新を持って市場を席巻したのが五年前。今やスマートフォンに代わる個人向けの情報端末である。競合他社の参入が相次いだ今でも、市場シェアは四割を超える。


 さぞかし儲かっているのだろう。それはルクスの食べた寿司のクオリティからも伺えた。火星産の天然マグロって何だ? テラフォーミングした環境下で繁殖した生物は果てして天然なのだろうか。しかし食べ物の正義はその美味さにある。ウットリするぐらい美味かったとルクスは書き残している。


 時計の針は二時を回っている。ルクスはシェアト社長に深々と御礼をした後、ようやく自部署である営業部に顔を出した。ビルの二階が営業部のフロアだ。そこそこ広いフロアに、デスクは三つだけ。総勢三名ってことか。少ない。


「あ!」


 入室すると、鈴のような声がルクスに向けられた。向日葵のような笑顔。金髪の童顔、アトリアだった。


「退院おめでとうございます、先輩っ!」

「ありがとう。仕事、大変だったろ?」

「いえ、ぜんぜん」


 アトリアは屈託無く笑う。いやそこはお世辞でも大変でしたーとか言って欲しいルクスではあった。いてもいなくても問題無い様な存在だったんだろうか。ちょっとめげる。


「先輩、もうお昼食べましたか?」

「ああ、食べたよ」


 回らないお寿司美味しかったです。それに対してアトリアの表情はちょっと曇った。少し辺りを伺う様子を見せてから——この部屋には二人しか居ない——彼女は机の横に置かれた白く小さな鞄の中から何かを取り出した。布に包まれた楕円形の何か。しずしずと机の上に差し出してくる。優しい出汁の匂いがする。なるほど、お弁当か。しかも手作りの。


「あー」


 ルクスは咄嗟に思案する。果たして、この弁当に手を出して良いものか。目下二股疑惑を掛けられている最中だ。状況が把握出来るまでは、あまり迂闊な行動はしない方が良い。しない方がいいが、アトリアの曇った表情を見ると心が痛む。


「ありがとう、いただくよ」

「え? でも……」

「もうちょっと食べたいと思っていたんだ」


 ルクスは情に絆されて、小さな弁当箱をその場で平らげた。軟らかく煮た鶏肉には愛情が籠もっていた。良い子だ。こんな子に二股をかけていたのか? そう思うとルクスは、かなり自分という存在が邪悪に思えてきた。いっそあの交通事故で死んだ方が良かったのでは? そう考えると結構めげる。


「あ。そういえばコレ。出来ました」


 空になった弁当箱を受け取ったアトリアは、思い出した様にポケットから小さなステック状の物体を取り出した。ストレージメモリ? 電子データを記録する機器の様だ。それを「はい」とルクスに渡してくる。


「これは?」

「先輩に調べてくれって頼まれていたやつです。あ、でも先輩、今記憶ないんでしたっけ」


 てへりと舌を出すアトリア。


「でも、見たら思い出すかも知れないから渡しておきますね」

「お、おう」


 ルクスは受け取ったストレージメモリを胸ポケットに入れた。


「頑張って下さいね! 先輩」


 その笑顔はとても眩しく太陽のようで、ルクスはそのちっぽけな良心がこんがり焼かれるのを感じた。




  —— ※ —— ※ ——




「はあい。退院おめでとう」


 缶コーヒーを取ろうと屈み込んだルクスの視界に、高いヒールを履いた黒ストッキングの御御足が入ってきた。見上げると黒髪の美女がいた。ニハルだった。軽く頭を振ると腰まである黒髪がふわりとたなびく。今日は黒縁の眼鏡を掛けている。


 営業部のある三階には、休憩室が併設されている。幾つかの自販機と給湯設備、そしてソファが並んでいる。壁に貼られた薄型モニタにはニュース番組が流れていた。太陽系連合成立百周年の式典の準備が着々と進んでいるという報だった。どうやら式典はここ新オキナワ市で行われるらしい。開催日は八月一日……って、三日後か。


「ありがとうございます、ニハルさん」

「あら他人行儀ね。それも記憶喪失のせいかしら?」

「そう、なんでしょうか?」


 苦笑いを浮かべるルクス。


「その様子だと、認証権限のことも忘れちゃっているみたいね?」

「認証権限?」


 ルクスが首を傾げると、ニハルはその細い指で自分の首に掛けられたリングをとんとんと叩いた。ARSリングの認証権限っていうと、社内セキュリティの権限レベルのことか?


「折角、開発部に入れる様にしてあげたのに」


 ニハルが不平を鳴らす。ルクスはそれで理解した。ルクスは極星インダストリーの営業部社員だが、このビルの中にその資格だけでは入れない場所がある。四階の開発部だ。様々な機密データが開発・保管されているそのフロアには、同じ社員でもごく一部の人間しか入室出来ない様になっている。


 ニハルはその認証権限を改竄し、ルクスが開発部にも入室出来る様にしたらしい。いやいや、それって社長にバレたらやばいのでは? ニハルが微笑むと、その唇の動きがルクスの五感を刺激する。一体開発部で何をしていたのだろうか。なぜその記憶が無いのだろろうか。ルクスはとても残念に思った。


 いやしかし。ルクスは顔をしかめる。昔の自分よ、同じ社内で二股を掛けていたのか。それは流石に節操無しなのでは? 分かる、分かるよ? 気持ちは分かる。アトリアもニハルも、球種は違えどストライクゾーンど真ん中だもんな。その好みだけは、確かに昔の自分と今の自分の共通性を強く感じざる得ない。


「どう? 快気祝いに今夜飲みに行かない?」

「すみません。今日は帰りにまた病院に行かないといけないので……」

「そ。残念」


 ニハルはルクスが手にしていた缶コーヒーを開けて一口飲んでから返し、そのまま手をヒラヒラさせてエレベータホールの方へと立ち去ろうとして、振り返った。


「そうそう。貴方が開発部から持っていったヤツ、そろそろ返してね」

「持っていったヤツ?」

「ああ、そっか。記憶無いんだっけ」


 ニハルは周囲を見回した。誰もいない。


「ARSリングの試作機。貴方が調べたいって持っていったのよ」

「なんでそんなものを」

「知らなーい。早く返してね、社長にバレたらさすがに首切られるかもよ」


 ニハルはニヤリと妖艶と悪戯の双方を兼ね備えた笑みを浮かべた。一緒に破滅しない? そんな倒錯的な誘惑に見えて、ルクスはごくりと唾を飲み込んだ。それも、いいかもなあ。




  —— ※ —— ※ ——




 夜。ルクスは退社すると、タクシーを呼んで乗り込んだ。昼間より往来は少し多いか。タクシーは病院の前を通過し、そのままルクスの指示通り大通りを走っていく。軌道エレベータの地上側の基部である中央島は電波塔ほどの高さのある円筒形をしている。新オキナワ本島と中央島は海で隔てられていて、その間を幾つもの可動橋が架かっている。


 その様子がよく見える本島の端で、ルクスはタクシーを降りた。周辺には薄暗く広大な倉庫街が広がっているが、一棟だけ煌々と明かりを灯している施設がある。ここで働く人の為の商業施設だ。一階はコンビニや商店、二階はレストランが並んでいる。そして三階は住居区画。ルクスは三階に上がり、秘書のマイアに教えてもらった三〇四号室の前に立つ。ここがルクスの自宅、だそうだ。


 マイアから渡された電子錠でドアはあっさりと開いた。ドアが開くと室内の照明がついて、奧から何かの駆動音が響き始める。恐らくエアコンだろう。正味一ヶ月は無人だった計算になる。人の気配の無い部屋特有の匂いがした。


 それほど広いアパートでは無い。キッチン兼リビング、寝室、そして風呂とトイレ。荷物は少ない。ハイスクール時代の趣味はスニーカー集めだったが、どうやらその趣味は飽きてしまった様だ。ルクスはソファーに座って一息つく。ARSリングから送られてくる情報を極力非表示にしていく。まだ慣れないからか、ずっと付けっぱなしだと目が疲れるな。涙腺を押さえて揉んだ後、胸のポケットに入っていたストレージメモリに気がついた。会社でアトリアから渡されたものだ。


 何の情報が入っているのか? ルクスは中身を閲覧しようとしたが、パソコンが見当たらない。小さなデスクの上には何も置いていない。はて、パソコンぐらい持っていないのかなオレは? と思いつつ室内を物色していると、ぴっという電子音がした。


 何の音だ? 音の発生源は寝室の壁だった。ルクスが触れたところが赤く光っている。「指紋認証完了」とのメッセージと共に、壁の一部ががこっと開いた。


「なんだ?」


 ルクスは恐る恐る中を覗くと、そこにはノートパソコンと黒いARSリングが収まっていた。どうしてこんなところに隠し扉が? そもそも一般家庭に隠し扉って常備されているものなのか?ルクスは躊躇いつつもそれらを取り出す。黒いARSリングを見回してみると「Proto Type」との刻印がしてある。ニハルが言っていたのはこれだろうか?


 ノートパソコンはロックされていたが、ルクスの虹彩で解除出来た。中には様々なデータが保存されている。ルクスは幾つかランダムで開いていく。


「……これ、会社のデータか?」


 どれを開いても共通するのは、極星インダストリーに関する情報だということだった。社屋の図面、過去の従業員の来歴、取引先の情報まで。中にはARSリングの設計図まであった。


「ッなんだこれ?!」


 何気なくあるファイルを開こうとしてら、突然画面の表示が崩れてエラー音が鳴り始めた。やばい、コンピュータウイルスか?! 慌ててキーボードを操作するが、受け付けない。


「ドラゴン君ッ! どうにかしてくれッ!」

『はいー』


 ARSリングの視界の隅でドラゴン君が踊りを踊り始めた。その時間、五秒。踊りが終わるとノートパソコンが自動的に再起動し、そして元の画面に戻った。


『未知のウイルスを検出ましたので、対策ツールを自動生成、駆除しました。データ復元も成功しましたー』

「お……おう」


 すごいな。ドラゴン君、こんなことまでしてくれるのか……。ドラゴン君のプログラム本体は、宇宙空間に浮かぶ演算衛星「ラグランジュ5」にある。さすがは世界最大のコンピュータ、圧倒的な演算力だ。


 しかし——いやな予感がした。ルクスは冷や汗をかく。これ、社外に漏れたらマズイ情報が混じっていないか……少なくとも、営業部の一社員が持って良い情報では無い。ルクスははっと気づき、アトリアから渡されたストレージメモリの中身を確認する。


 中身は膨大なメールデータだった。これ、もしかして社内で使用されているメールデータを全部コピーしたやつか? いやいや、これはマズイでしょ。ちらっと見た限りでも、取引先とのやり取りのメールとかが見えた。絶対マズイ。


 ルクスは長い長い溜息をついた。調べれば調べるほど、どんどん外堀が埋められていく気がする。これはひょっとして——オレは、スパイなのか? 収集しているデータから察するに、極星インダストリーを内部から探っている様にしか見えない。


 ぴろん。突然鳴った電子音に、ルクスはびくりと跳ね上がった。ARSリングにメッセージが届いた音だった。ルクスは恐る恐る視界を探る。すると見たこと無いメッセージアプリが起動していた。受信していたメッセージは短い。




『ルクバート諜報員へ。オラクル計画書を転送せよ』




 そしてメッセージの下には入力欄が明滅している。パスワード入力欄だ。何を入力したらいいのか、ルクスにはさっぱり分からない。ルクスはどっと脱力して、ソファーに座り込む。そして思わず頭を抱え込んだ。


 ここまでで、はっきりしたことは二つ。


 一つ。ルクスという男は同じ社内で美女二人に二股を掛けるような、異性関係に関して節操の無い人間であること。


 もう一つは——自分が記憶を無くした間抜けなスパイである、ということだ。

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