第2話 泣く女
例のビルは銀座のど真ん中にあった。
そう、本当に真ん中の真ん中。
有名ブランドの店が立ち並ぶ風景が、ビルの中からも一望できる。人通りも絶えず、夜でも煌々と灯りが付いたこの街で、むしろこのビルだけが、テナントも入らずに無看板でいることが異様に見える。
5階建てのビル。しかし俺がひとりで過ごすのに全フロアを使う必要はない。1階部分だけで十分だ。なにはともあれ、銀座の一等地に悠々と聳えるこのビルが、今日から俺の城となる。
尊は小さなビルだと言っていたが、60ヘーベイのこの空間は俺にとっては十分すぎると言っていい。
とりあえず入り口付近にはそれらしく机や応接セットを設置した。
とりあえず、報酬をもらうからにはそれらしくする必要がある。そのくらいの誠意は俺にだってちゃんとあるんだ。
パーテーションで区切った奥のスペースを生活空間とした。
まぁ、生活空間と言っても、ベッドと服が入った衣装ケースがある程度だ。
ちなみに、机や応接セットといった家具の類は、尊が親父さんの経営するホテルで使わなくなったものを調達してきてくれた。中古とは言え、尊の親父さんのホテルはどれも五つ星が眩しく煌めく高級ホテルだ。ソファーなんか座ったら最後、一生この上で過ごしたくなるような人をダメにするような優しさの塊でできている。
実家を出てからというものの、一人暮らしの俺には家賃というものが重くのしかかっていたので、ここでの暮らしはまさに渡りに舟。いや、いるだけで報酬が貰えるという、渡りに豪華客船だ。
風呂はないが、銀座にはスーパー銭湯なるものがいくつかあるのでこれもまったく問題ない。
俺の少ない荷物を運ぶのにたいした時間も労力も使うことなく、引っ越しはあっという間に完了した。
いくつか開けてない段ボールもあるが、まずは缶コーヒーを持って、ソファーに座った。
たばこに火をつけて、プルタブを開けると珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。ゆっくりと珈琲を一口味わう。
「ありがとーっ、みことぉ~!俺にとってお前は、まさにドラ〇もん並みの心の友だーーーーっ!」
「勝手に人をドラ〇もんにするんじゃねぇよ」
「え?・・・ぁあ、尊、来たのか・・・」
嬉しさのあまり、尊が来ていたことにすら気づかないとは不覚である。
完全にひとりのつもりでとったポーズが、なんとも居たたまれなくなり、俺は全力で何事もなかったように、ソファーに腰を下ろした。
「とりあえずこれ、開店祝いなっ」
そう言って尊は、テーブルの上に500mlのビールが詰まった段ボールををドスっと置いた。
ぱりっとスーツを着込んで、ワックスでオールバックにした仕事仕様の尊の視線はどことなく冷たい。どうやら、さっきの事をなかったことにはしてくれないようだ。
「おう。ありがとありがと」
尊は事務所の中を歩き回ると、パーテーション裏の俺の生活スペースを覗いて噴出した。
「なに志童、お前・・・本当にここに住むの?」
「あぁ、住むよ」
「まじかよ」
「まじだけど、問題あるか?」
「いや、ないけど・・・・・」
どこか歯切れの悪い尊が気になりはしたが、俺がそれを指摘する間もなく尊は仕事の途中だからと、またすぐに出ていってしまった。
「なんだあいつ・・・・変なの・・・・」
尊が出て行った扉を見て首を傾げるも、俺はすぐに気を取り直してソファーにごろりと横になり目を閉じた。
「やばい・・・最高だ・・・・」
この楽園での暮らしに胸を弾ませながら、このまま昼寝をすることにした。
「・・・・グス・・・うっ・・・・グス・・・・」
――あれ?誰かが泣いているのか?
「うぅっ・・・・ヒック・・・・グス・・・・」
――これはぁ、女の声? 夢? 夢なのか?
「・・・・てください・・・うっ・・・」
――なんだ?耳元で声がするような。息が少し耳に当たるような、随分リアルな夢だ
「おき・・て・・・・・うっ・・・・うっ・・・」
肩に生暖かいじっとりとした感触。その手が、肩から首筋、頬をそっとなぞる。
やたら湿っていて、ぬるっと生暖かい感触が気持ち悪い。
――夢だ。これは夢だ。夢に違いない。どうか夢であってくれっ。
「あのー起きてください」
「夢じゃねーーーっ」
湿った掌で頬のじっとりと撫でられて、飛び起きた。
俺のすぐ目の前には喪服を着た、髪の長い女がひっくひっくと肩を揺らして泣いている。テーブルと、ソファーの間にしゃがみ込んでいるから、やたら距離が近いっ!
――落ち着け・・・・落ち着け・・・・俺
否が応にも、心拍数はあがり、背中を変な汗が伝う。
「あ・・・の・・・えっと・・・・とりあえず、出て行ってもらえます?」
ソファーの背もたれいっぱいにのけ反りながら、女とできる限りの距離をとりながら発した声は、情けなくも震えていた。
女は絵にかいたような猫背を左右に揺らしながら、ゆっくりと立ち上がるとあり得ないくらいの小さな足運びで、向かいのソファーに移動して座った。
――いや・・・座るのかよ・・・
「あのぉ~~」
「はっはいっ」
「こぉこぉはぁ・・・、妖怪相談所ですよね?」
「は?妖怪・・・相談所?」
――それは尊が言っていたジョークだろ?まさか尊の悪戯か?
「もうぅぅぅ、私ぃ・・・・どぉしたらぁ・・・・いいかぁ、わからな・・・くてぇ・・・・」
そう言って手にした数珠を、もじもじと弄んでいる。
――いや、怪しい・・・っていうか・・・怖えぇっ!!!
返事することも忘れて、女を凝視した。
長い黒髪は一切手入れもされていなくて、顔の大半はだらりと垂れた髪に隠されて表情こそみえないけれど、ある意味見えなくて良かったかもしれない。
「ここはぁ・・・・・妖怪相談所ぉ・・・・ですよねぇ・・・・?
黒髪の隙間から、目玉がぎょろりと動いた。
「ひいぃぃっ」
全身に鳥肌が立つ。
「ここはぁ・・・・妖怪相談所ぉ・・・ですよねぇ・・・?」
「ちょちょ、ちょっと!何言って!ここは」
そこまで言ったところで、女が入り口の方を指さした。
「え?」
恐る恐る視線を向けた俺は、我が目を疑った。
入口の外に、置き型の看板。
ご丁寧に、コンセントにもつながれているようで、中の電気が煌々とひかり、そこに浮かぶのは『妖怪相談所』の文字。
「はぁ?なんだ、ありゃっ」
思わず立ち上がると同時に、さっき帰っていった尊の笑顔が脳裏に浮かぶ。
――あいつかっ!なに余計なことしてくれてんだーーーーーっ!
「いや・・・あの、すみません。あの看板は友達の悪戯というか、悪ふざけみたいなもので」
「違うんですか?」
「え?えぇ。妖怪相談所なんてねぇ、普通に考えて意味がわからないでしょう?」
渾身の愛想笑いを浮かべながら、早く目の前の女にお引き取り頂きたくて必死に取り繕う。
「ぁ・・・・のぉ・・・・・・・」
「はっはいっ」
「・・・・・・・・・・・」
――って、喋らないのかよっ!!!
俯いたまま黙りこくっている女に、俺は意を決して言う。
「えっと、そういうことなので、お帰り頂いても・・・・」
そう声をかけた時だった。
まるで頭上から見えない糸で引かれたようにグァリと顔を上げたかと思うと俺を見て、垂れた髪の隙間から見える目玉をカッと開いた。
「ひいぃぃぃっ、すっ、すみませんっ!!!!」
反射的に俺は、頭を下げていた。
――怖い・・・・とにかく、怖すぎるっ。
「ここぉ・・・・妖怪相談所ですぅ・・・・よね?」
垂れた髪の向こうで、血走った眼球がグルングルンと動いている。
「は・・・・・はぃ・・・・妖怪・・・・相談所・・・れす・・・・・」
俺は女に問われるがままに気づけばそう答えていた。
「やっぱり・・・・そぅ・・・だったんですね・・・・ぁあ~・・・よか・・・った・・・」
両手を胸の前で合わせながら、そう言って女ほっとしたようには顔を俯かせた。
――あぁ・・・・・怖かった・・・・・ってか、思わず認めちまったけど、妖怪相談所ってなんだよ!俺だってわからねぇよ!
なにひとつ事態は好転していないことに、焦燥感ばかりが募る。
――いや・・・どうするもこうするもねぇ・・・最初からやることはひとつだ。この女をここから追い出す!よし、頑張れ俺、俺ならできる!
持てる限りの勇気を振り絞り、俺はソファーに座り直すと、小さく深呼吸してから口を開いた。
「ほんとすみませぇん。妖怪相談所なんて、ふざけてますよねぇ。こんなふざけた看板出すくらいですから、言うまでもなく貴方のお力にはなれないかと・・・」
「うっ・・・・ぐすっ・・・うっうっ・・・・そんなことを言って、私を・・・見捨てる・・・・つもりですか・・・・」
――やべっ、また、泣き出した・・・・
「いや・・・・見捨てるとか見捨てないの問題ではなくてですね、その、何かお困りごとなら弁護士事務所とか、探偵社とか、あぁそうだ、警察にいくのもいいかもしれませんよ?」
「そ・・・んなぁ、無責任なぁ・・・じゃぁあなたはぁ・・・・私にぃ・・・・私にぃ・・・この先ぃ・・・ひとりでどうしろとぉ?」
「いやぁ、貴方がひとりかどうかも知りませんし」
「私はぁ・・・・・もうぅ・・・あなたしかぁ・・・・いないのぉ・・・にぃ・・・」
――雲行きが怪しくなってきやがった・・・・たった今会ったばかりの女になぜ俺は、別れ際のカップルみたいな会話をさせられてるのかがそもそもわからねぇ。
「私を見捨てる・・・気なのねぇ・・・・ひどい・・・ひどいわぁ」
一向に拉致があかない状況にとりあえず、ここはなだめるべきかと考え、遠巻きに女の様子を伺いながらも俺はもう何度目かわからないため息をつく。
「はぁ・・・・・あの、泣いていてもわかりませんから。事情があるなら、とりあえず聞きますから」
女はピタッと泣くのをやめて、堰を切ったように話し出した。
「私っ、全国の色々なお葬式の場に行って故人を思い泣くんです」
「は?」
今まであんなに泣いていたのが嘘の様に、女はハキハキと話し出した。
「ほらぁ、今のお葬式ってなんていうかぁ、こうぅ・・・・親族もどこか冷めていて淡々とすすむでしょう?だから、私がそこへ行って、時には棺桶にすがりついたりなんかしながら号泣するとですね、今までわざとらしく神妙な顔をしていた親族や知人たちも、こう目の端に涙が浮かんでくるんですよぉ。
ここっ、ここですよ、私は心の中でそりゃぁもう、ガッツポーズです!
時には故人の大切にしてたものなんかを見つけたりして、私が泣くと周りの参列客もみんな手に手にハンケチを握りしめるわけですよぉ~。だからぁ、私は全国のあらゆる葬儀にそうやって参列するんですけどぉ・・・・・」
そこまで一気に、饒舌且つ陶酔しきりで話していた女の動きがピタリと止まり俯いた。
――なっなんだ・・・・終わったのか?
「それなのにっ!!!」
「ひいぃぃぃーーーっ」
女の叫び声に、俺は飛び上がった。兎に角いちいち怖い。
「最近の葬式は・・・・まず家でやることなんてほとんどなくてっ。
一体、どこで葬儀をしているのかわかりゃしないっ。私がいつものように棺桶にすがりついて泣いても、涙をこぼすところか「あなた、だれですかっ!」なんて言って、しまいには私を葬儀の会場から追い出す始末っ。こんなことって、あんまりだと思いませんか?」
そこまで話すと、女はまた両手で顔を覆っておいおいと泣き出した。
驚きか戸惑いか、それとも恐怖か、兎に角何かの感情が先行して、女の話がなかなか頭に入ってこないが、俺なりに必死に整理してみる。
「ってか・・・貴方は見ず知らずの人の葬式で何してるんですか?」
女はまたしてもグァンと顔をあげ、充血しきったギョロ目でじっとりと俺を睨むように見ると一言、言い切った。
「泣きに行ってるに、決まってるじゃないですかっ」
「・・・・・・・・」
――そんな・・・堂々と・・・・ってかこれ、絶対に関わっちゃダメなやつじゃね?まぁ、妖怪相談所なんかに来る時点で、やばい奴ってのは確実か・・・
「えっと・・・ですね。葬式っていうのは、故人と所縁のあった人たちが集う場であって、見ず知らずの人が行くものではないんじゃないかと・・・」
できるだけ女を刺激しないように、とりあえず愛想笑いを浮かべながら穏やかに女に声をかけた。
女は一瞬、泣くのを辞めて俺の顔をまじまじとみてから、次の瞬間、より一層の大声で泣き出した。
「ぅわぁーーーーーん、残酷だわぁ、私にそんなこと言うなんてっ。残酷すぎるわぁ。そんな、じゃあこれから私にどう生きろと言うのぉ~。」
これまでの何倍ものボリュームに俺は耳を塞ぎながら、ソファーの背もたれいっぱいにのけ反った。
「だからぁ~、俺に言われても困るんだってば~」
目の前の喪服の女は、ひたすら泣き続けている。
「私はただ、ずっとそうしてきたから・・・・ただ、これからもそうしていきたいだけなのにぃ~・・・うっ・・」
――はぁ~、もぉ勘弁してくれ・・・どこもかしこも意味がわからん!
正直言って、この状況で泣きたいのは確実に俺の方だ。
「あのさぁ、見ず知らずの他人の葬式に行くことがそもそもの間違いなんじゃないかな。今は変な奴も多いから、葬式が大きければ大きい程セキリティチェックなんかもあるだろうし・・・」
女は両手で顔を覆った指の隙間から、恨めしそうに俺の様子を伺いながら、長い髪を顔に垂らして肩を震わせただ泣くばかりである。その光景が兎に角怖い。
「それでも私はっ・・・自慢じゃありませんが、今まで多くの人間の役に立ってきたんです。葬式の場で私が泣くことで家族が改めて故人への感謝や、在りし日の思い出を思い出すことができるんです・・・・うっ・・・」
――ぁあ~、ほんと、めんどくせぇっ
そう思ったときだ。あることに気づいた。
――もしかしてこれ相談料とかもらえるんじゃね?よし!これだけ怖い思いをしたんだ。少しくらい報酬を貰っても罰は当たらないはずだ!
俺は気を取り直すと、軽く咳ばらいをして改めて姿勢を正した。
「まぁ落ち着いて。ともかくまずは、お名前から伺いましょうか」
「私・・・は、泣き女です・・・」
「はい?」
一度冷静になろうと、深呼吸をしてみた。
「あのー、お名前は?」
「泣き女です」
俺は盛大にため息をついた。
――こりゃ、相談料とか無理かも・・・・
やっぱりここは一刻も早くお引き取り頂くのがここは最善と判断した。
「はいはい。泣き女さんね。で、相談の内容は・・・沢山の葬儀会場で思い切り泣きたい・・・と」
さっき尊が持ってきたビールの詰まったの段ボールに俺はメモをとり、書き終えるともっともらしくそこをペンで叩きながらしばらく考えるそぶりをする。そんな俺を見て、女は前かがみになり、神妙な顔つきで俺の顔を覗き込んだ。
――うっ・・・・こ・・・わい・・・頑張れ、俺。あと少しだ。
「えっと・・・とりあえず、調査なんかもありますから・・・・、少し時間を頂いて・・・ですね」
そこまで言うと、女はすくっと、立ち上がった。
「わかりましたぁ。ではぁ、3日後にまた来ますぅ」
――おっ、うまくいったかっ
このおかしな女をまんまと追い出せそうで、思わず笑みがこぼれる。
「ではぁ、なにとぞぉ・・・・お願いしますぅ」
女は丁寧に頭を下げると、出入り口にむかう・・・・・のではなく・・・・・
徐々に薄くなり、その姿を消した。
――・・・・・・え? 消えた?
「はぁぁぁぁぁぁぁ?」
俺は弾かれたように立ち上がるとすぐに向かいの女がたった今まで座っていたソファーの下や後ろを覗き込んでみた・・・が、どこにも女の姿はない。
「なっ、なんだよーっ、なんだってんだよー、意味わかんねぇ~っ」
体中に走る悪寒をおさめるように、両手を交差させて二の腕をさする俺の視界に今さっき、俺自身がとったメモが映る。
『泣き女』の文字がそこにある。
「まじかよ・・・・」
体温が下がっていくのを感じながら、俺は生唾を飲み込んだ。
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