第2話

 ダイニングに入ると、めちゃくちゃ気合いの入った朝食が用意されていた。

 スライスされたバゲットにはチーズやらトマトやら何かの葉っぱやらが載っていて彩りを感じるし、コンソメスープも具沢山でかぐわしい湯気をくゆらせている。大きめのオムレツも半熟ふわとろで、普段紗雪さんが用意してくれる朝食より品数が多くて手が込んでいた。朝が弱い僕としては完食できるか心配になる量だ。


「というかこんな量作るのなんてけっこう時間かかったんじゃないの?静さんちゃんと寝てる?」


 昨日父さんが夜中に出かけたことを把握していることからして僕よりも遅い時間に寝ているはずで、その上で僕より早起きしているのだから僕の睡眠時間を気にしている場合ではないだろうに。

 しかし僕の指摘に、静さんは涼しい顔をして答える。


「これぐらい大したことありませんよ。昨日は旦那様のお見送りでちょっと起き出しただけですし、朝も母に仕事を任されたことにテンションが上がって普段より早く起きただけですから」


「そ、そう?」


 家事手伝いがそんなテンションを上げるような仕事には到底思えないが、本人がそういうのなら問題はない、か……?

 気を取り直してテーブルにつくと、静さんが横からすっとケチャップを差し出してくれる。

 僕がありがたく受け取ろうと手を伸ばすと静さんは差し出した手を引っ込めた。 


「静さん?」


「これは私が」


「いや、別にそれぐらい自分で……あっ」


 静さんの行動になんでわざわざと疑問に思った僕だったが、今の静さんの衣装を思い出して言わんとすることを理解した。してしまった。

 静さんは僕の様子を見てにこりと微笑むと、ケチャップを構えた。そして書道家が半紙に書をしたためるが如き真剣さでオムレツに向き合う。

 その端正かつ怜悧な横顔は何年一緒に暮らしていてもつい見惚れてしまうほどであったが、ケチャップで描いているのはハートマークだとか僕の名前だとかなので非常にシュールだ。


「……よし、できました」


 しばらくしてケチャップアートを描き終えた静さんは満足げな様子で顔を上げる。

 完成したケチャップアートはなんというか、こう、実に萌え萌えしい感じの様相となっている。大きめサイズとはいえオムレツの上に色々と描いたものだからたまごの黄色よりも赤が目立つぐらいだ。まあ見た目で腹が膨れるわけではないし、僕としては濃い味が好みであるのでこういうのは大歓迎だけれども。

 そういうわけで早速いただこうとナイフとフォークに手を伸ばす僕の手を、静さんがそっと押しとどめる。


「まだすべての準備ができていませんよ。義人さん」


「へ?」


 まだこれ以上なにかあるのかと視線で問うと、静さんは真面目な顔をして言った。


「まだ美味しくなるおまじないをかけていません」


「そ、それもやるんだ……」


 それはもう、というかケチャップアートの時点で極一般的なお手伝いさんではなくメイド喫茶の定員さんめいた所業だと思うのだが、これは冗談と取るべきかそれとも真面目にやっているのか……。


「それではいきますよ。義人さんもご一緒に」


 僕の懊悩など気にもせずに胸の前で両手を合わせてハート型を形作る。


「せーのっ美味しくなあれっ萌え萌えキュン☆」


 美人さんな静さんのキレッキレで可愛らしい動作に一瞬見惚れつつも、僕も慌てて後に続く。


「も、萌え萌え……きゅん」


「義人さん、そんな小さな声じゃオムレツが美味しくなりませんよっ!ほらもう一回!萌え萌えキュン☆」


「萌え萌えキュン!」


 静さんの容赦のない指導が入ってヤケクソ気味におまじないの言葉を唱えた僕を見て、静さんがにこりと微笑んだ。


「ごちそうさまです」


「鬼かよ……」


「さあ、これで準備万端ですね。さっそくいただきましょう」


「そうだね……いただきます」


「いただきます」


 僕が手を合わせてから食事に手を付けたのを見て、静さんは対面に座って自分も食事に手を付ける。

 おまじないをかけられたオムレツを切り分けて口に放り込むと、ケチャップの酸味がかった甘さの中にたまごのほのかな甘みが合わさり美味であった。お子ちゃま舌な僕もにっこりである。


「美味しいですか?」


「うん。美味しいよ」


「ふふ、ありがとうございます」


 静さんの問いに素直に答えると、静さんは満足げな表情を浮かべた。

 料理上手な紗雪さんの薫陶を受けた静さんの料理が美味しくないことなどあり得ない。

 これまでも幾度となく食べた味なので食べるまでもないまである。

 後はこの美味しい料理達を頑張ってきれいに片付けるだけだ。


「ああ、そうでした」


 僕が熱々のコンソメスープと格闘していると、静さんが思い出したように切り出した。


「今日お暇なようでしたら一緒に買い物に出かけませんか?明日から学校が始まりますし、文房具を買い足しておきたいのですが」


「ああ、そうだね。せっかくだから僕も筆記用具とかを新しく新調しようかな。……しかし学校かあ」


 前向きな返答を返しつつもきたる高校生活の到来は前向きに受け取れず、思わずため息を吐いてしまう。


「気が重いなあ。普通に考えて中高一貫校に高校から入るなんて無茶もいいところだよ……」


 なにしろクラスメイトの大半は中学からの進学組で交友関係は固まっているだろうから特別コミュ力が高くもない僕が交流の輪に入り込むのは苦労するだろうし、授業からして私学特有の特別カリキュラムでこれも順応してついていくのに大変苦労するだろう。


「大丈夫ですよ義人さん。青嵐せいらんの生徒は皆優しいですし、勉強は今まで通り私がお教えしますから」


 弱音を吐く僕に静さんが優しくフォローしてくれる。

 静さんは僕が明日から通う高校、私立青嵐学園に中等部時代から入学していて学園内での成績優秀者でもある。

 僕が厳しい受験戦争を乗り切れたのも静さんの教えの賜物と言っても過言ではない。なんなら受験終了後にも、入学してからの授業についていけるように勉強を教えてくれさえしている。

 だから青嵐学園でもなんとかやっていけるとは思うのだが。


「けどさあ。僕は中学受験のためにめちゃくちゃ頑張って勉強して普通に落ちた男だよ?そんなやつが青嵐学園でやっていけるかどうか……」


 僕がうじうじと悩みを吐露する理由がこれだ。僕は父が通っていた母校、青嵐学園に入学するため中学受験に挑戦したのだが、あえなく不合格となってしまっていた。

 その当時には先に入学していた静さんからいろいろと教えを受けて受験に望んだのに不甲斐ない結果に終わってしまったため、申し訳なさと挫折感を一年ぐらい引きずったものである。

 そんな経緯があるものだから、青嵐学園という学校に通うことへの不安が拭いきれないのだ。


「仕方ありませんよ。受験に百パーセントというものは存在しないのですから。……しかしあの時は本当になんで不合格だったんでしょうねえ。私の見立てでも合格確実だと思っていたのですが……」


「まあ、きっと僕がなにかとんでもないやらかしをしていたんだろうね。解答をずらして書いたとか、面接官の人を怒らせたとか」


「でも、中学受験よりも難易度が高い高校外部受験に合格したのですから、胸を張って通えば良いんですよ。私だって全力で義人さんをお支えしますから!ねっ?」


 そう言って静さんは僕の手を取り、僕を安心させるように両の手でぎゅっと握りしめてくれた。

 うつむきがちだった顔を上げると静さんは僕を安心させるように優しげな笑みを浮かべている。


「……そうだね。せっかく静さんに助けてもらって合格したんだから、もっと自信を持たなくちゃ」


「そうです、その意気ですよ!」


「ありがとう、静さん」


 まったく、僕は静さんに出会ってからというもの、彼女に助けられてばかりだ。

 これ以上静さんに助けられなくても良いようにと努力はしているつもりだけれども、静さんの手をわずらわせずにいられるようになるのはいったいいつになることやら。

 今日も今日とてそんな引け目を感じつつ、静さんにことさら明るく声をかける。


「それじゃあ早いところ朝食を片付けて、出かける準備をしようか」


「かしこまりました」


「……」


「……」


「……ねえ、静さん」


「はい?」


「手を離してくれないと、ご飯が食べれないんだけれど」


「やっぱりもうしばらくこのままで」


「……」


 結局手を離すどころか握った手をすりすりとなで回されて、解放されたのはしばらく後のことだった。

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