第1話
「──」
僕は今、夢から現実へ切り替わる刹那の
ああ、そろそろ目が覚めるなと自覚する意識をできる限り思考の隅に押しやって、もうどんな内容だったかも思い出せない夢の残滓にしがみつこうとする。
暖かいお布団様の感触と
「──!──!」
だがそんな抵抗も虚しくこの瞬間にも急速に意識が現実に浮上していく。
しかし、この刹那が一日の中で最高の瞬間と言っても──。
「
僕が完全に覚醒しきる前に声が降ってきたかと思うと、お布団様が剥ぎ取られてしまった。
四月に入ったとはいえ朝はまだまだ寒い。冷えた空気が全身に絡みつき、僕は容赦なく目覚めを強要される。
爽やかな朝の目覚めを邪魔された僕は、不本意な覚醒にうめき声を上げつつもうっすらと目を開ける。
未だぼんやりとしている視線の先には僕の顔を覗き込む誰か。その姿は定かでなくともそれが誰であるかは明らかだ。
「……
「ダメですよ。そんなものは時間通りにきっちり起きてから言ってください」
僕のふにゃふにゃとした抗議の声に対して静さんがめっ、と指を立てているのがぼんやりと見える。
静さんは枕元を離れるとカーテンを開けて僕に陽光を浴びせかけた。容赦の無い光に対し、僕には身体を背けて逃げることしかできない。
身体を傾けたついでに枕元のスマホに手を伸ばして時間を確認すると、六時を過ぎたところだった。
確かにいつも通りであれば六時には起きているので寝坊といえば寝坊であるが、僕にだって言い分はある。
「休日の、それも春休み最後の日までそんなきっちりすることないじゃないか。起きないとは言ってないんだから、自然に気持ちよく目覚めるぐらいの贅沢は許してよ」
「だからこそです。明日はもう入学式なんですから、睡眠サイクルを崩して寝坊でもしたら大変ですよ。義人さんが初日から遅刻なんてしたら旦那様に申し訳が立ちません」
「旦那様って父さんのこと?なんでそんな他人行儀な……」
確かに静さんは僕や父さんに丁寧な言葉遣いをするけれども、そこまでバカ丁寧な敬称を用いたことはなかったはず。
僕が首をかしげている間にも僕の目も開き始めて視界が明瞭になり、僕を見下ろす静さんこと一ノ瀬静音の姿がはっきりと像を結ぶ。
黒艶が烏の濡れ羽のような髪は肩を滑り、その容貌は相変わらず端正で眉目秀麗という言葉がよく似合う。
そしてしなやかに引き締まりつつも要所で女性らしさを過剰に主張している身体を安っぽい生地のメイド服に包み……って。
「……静さん、その服どうしたの?」
「ああ、これですか」
静さんは言葉では何気なく応じつつ、良くぞ聞いてくれたと言わんばかりの表情を浮かべながら僕に全身を見せびらかす。
「以前、駅前の量販店で売られていたものを購入しておいたんですよ。既製品だから生地が安っぽいのとサイズが合わなくてちょっとぴちぴちなのが欠点ですが、義人さんはこういうの好きですよね?」
「いや、好きか嫌いかで言えば好きだけれど、それは僕だからというわけじゃなくて男の子なら大体皆好きだというか……」
僕は静さんに言い訳しつつも、静さんがやたらと短いスカートの裾をつまみあげて瑞々しい太ももをアピールするので視線はそこに釘付けになってしまう。
だって、男の子だもん。
だからわかっていますよと言わんばかりの笑みで頷くのはやめてほしい。
「と、というか僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて、なんで静さんがそういう恰好をしているかということなんだけれどっ!」
僕が会話を本筋に戻して再度問いただすと、静さんは大きな胸を反らして答えた。
「実は私、お母さ……もとい母から本日より里崎家の家事全般と義人様のお世話を仰せつかったのです!」
「ええ……?」
確かに静さんの母親である
そんな静さんに家政婦のまねごとをさせるのはいかがなものかと思うのだが……。
「というか、別にうちはそんなに人手がかかるような家でもないでしょ?紗雪さんがいればわざわざ静さんが仕事を手伝わなくても……」
「いえいえ、そういうわけにはまいりません。母は旦那様の長期出張についていってしまいましたので、しばらく家に戻りませんから」
「出張?」
はて?
確かに紗雪さんは会社で父さんの秘書みたいなこともしているらしいので父さんが出張となればそれについていくこともあり得るのだろうが、昨日の夜は普通に家でゆっくりしていたと思うのだけれど。
「ええ。義人さんがご就寝なされた後、夜中にロスの支店から緊急の連絡が入ったようです。慌てて早朝にご出発なされました」
「そうだったんだ……。起こしてくれれば見送りぐらいしたのに」
「一応義人さんにもお声がけはしましたけれど、声をかけてもまったく起きる気配がございませんでしたので」
「あ、そう……」
なにそれ気まずい。
僕は誤魔化すように話題を変えた。
「ロ、ロサンゼルスってことは海外出張ってことだよね?それはまた急だなあ」
「旦那様が家をお出になる際に、真っ青な顔で税関がどうとか漏らしていらっしゃいましたので、なにかトラブルがあったのではないかと」
「ははあ……」
それはまた、ただ事じゃないな。
もしかしてしばらく帰ってこれなくなりそうな感じだろうか。そうだとすると、当分この家には僕と静さんのふたりきりということになる。
それはなんというか、ちょっと落ち着かない。
ひとつ屋根の下と言いながらも里崎家と一ノ瀬家の住まいは二世帯住宅よろしく住居スペースが分けられているのだが、静さんは今みたいに平然と里見家のスペースに入ってくるだろうし。
静さんとは今の半同棲みたいな状況でそれなりの年数を一緒に過ごしているので今さらではあるのだけれど。
しかし最近の静さんは今のコスプレみたいに僕の心臓に悪いお巫山戯が多いので、それなりに心の準備をしておかねばならない。
「というかそういう話なら、静さんがお世話してくれる必要はないよ。自分のことは自分でやるから」
僕ひとりのために静さんの時間を奪うのは忍びなさ過ぎる。
そう思っての発言だったのだが、それを聞いた静さんの表情に影が差した。
「義人さんは私がご奉仕するのはお嫌ですか……?」
「い、いやそういう話じゃなくてさ……ほら、僕のお世話なんかをやらされる静さんに申し訳ないし」
「私はまったく気にしておりませんので問題ないですね。はい論破」
「えええ……」
僕の言い訳にあっさりといつも通りの表情に戻って言いきる静さん。
「というわけでこの件に関して義人さんがご遠慮なさる必要はまったくございませんよ。……旦那様からバイト代も出していただけますし」
「親父ぃ……」
いや、労働に対価をちゃんと支払うのは良いことなんだけれども……。
「さあさあ、朝食も準備してありますので早く起きてくださいな」
「……わかったよ」
僕は静さんに促されて渋々ベッドから起き上がった。朝に弱々な僕はのろのろとした緩慢な動作で立ち上がるが、静さんはその間にも部屋を出て行くことなく突っ立っている。
「……いや、着替えの手伝いとかそういうネタはいらないからさっさと出て行ってよ」
ご奉仕精神マシマシな静さんの発想を先回りしたつもりでそう伝えたのだが、当の静さんは僕の言葉に頭を振った。
「いえいえ、私はただ義人さんの生着替えを観察したいだけですので、お気になさらず」
「それならせめて手伝ってよ!」
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