新たな可能性
研究所の制御室で、ピエールとクレアは宙に浮かびながら作業を続けていた。祖父の織物から得られたデータは、三つの重要な発見を示していた。
第一に、量子状態の異常な安定性。通常、量子もつれは環境との相互作用で即座に崩壊する。しかしこの織物は、むしろ環境との相互作用を利用して、より安定した状態を維持していた。
第二に、スケール間の橋渡し。プランクスケールでの量子効果が、なぜか巨視的なスケールにまで影響を及ぼしている。
そして第三に、自己組織化能力。システムが自律的に、より高次の秩序を形成していく傾向を示していた。
「まるで、織物が私たちに何かを伝えようとしているかのようです」
分析装置に掛けられた織物は、予想を遥かに超える複雑なデータを示していた。
「これを見てください」クレアがホログラム空間に織物の量子状態マップを展開する。「これは従来の量子もつれ効果の範囲を超えています。空間の位相そのものが、プランクスケールで再構成されています」
「アリエット、祖父の作業記録にアクセスして」
「警告。データベースへの物理的アクセスが制限されています。現在の重力異常により、ストレージユニットとの接続が不安定です」
クレアは即座に代替案を提示する。「直接的なアプローチを取りましょう」
研究所の量子センサーアレイが起動する。織物の表面から放射される微細な波動が、高精度のセンサーによって捉えられていく。
「これは従来の量子もつれとは異なります」彼女のデータ分析が続く。「むしろ、空間の位相そのものを操作しているような...」
ピーレルは織物に手を伸ばす。触れた瞬間、彼の指先に微細な振動が伝わってきた。
「この振動パターン...」彼は目を閉じ、感覚に集中する。「編み目です。この振動は、空間を編み上げるためのパターンを示しています」
クレアが息を呑む。彼女は急いでホログラム表示を切り替えた。織物の量子状態マップと、コロニー全体で観測されている異常のパターンを重ね合わせる。
「完全に一致します」クレアの声が高まる。「あなたの祖父は、空間構造そのものを『織物』として扱う方法を発見していたんです」
研究所全体を揺るがす振動が走る。
「警告」アリエットの声が緊急性を帯びる。「重力制御システムの崩壊が加速しています。残された時間、推定28分」
「間に合います」ピエールの声には、確信が込められていた。「クレア博士、量子センサーアレイの感度を最大まで上げてください」
センサーアレイの出力が限界まで引き上げられる。同時に、織物からの信号が鮮明になっていく。
ホログラム空間に、これまでにない精密な量子状態マップが展開される。それは三次元の幾何学模様というより、むしろ四次元、あるいはそれ以上の次元を持つパターンのように見えた。
「これは...」クレアの声が震える。「時空の織目そのものです」
研究所の重力が、一時の安定を取り戻す。浮遊していた機器類が、ゆっくりと床に降りていく。
「局所的な制御に成功しています」アリエットが報告する。「研究所領域の重力が、通常値に収束し始めました」
「これは始まりに過ぎません」ピエールは真剣な眼差しで告げる。「研究所規模の制御に成功しただけ。コロニー全体となると...」
「より大規模な実装が必要ですね」クレアが頷く。「でも、理論的な基礎は確立できました」
警報音が、二人の会話を遮る。「コロニー全域での重力異常、限界値の92%に到達。完全な制御喪失まで、推定22分」
残された時間は僅か。しかし、二人の表情には、もはや迷いはなかった。
研究所の窓の外で、不安定な光を放つ人工空が、わずかに落ち着きを取り戻したように見えた。希望の光明は、確かにそこにあった。
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