予期せぬ異変

「これは、理論上あり得ない現象です」


クレア・チェンの声には、困惑と興奮が混ざっていた。投影された分子構造モデルが、既知の物理法則を超えた振る舞いを示している。


スマートファイバーの核となるのは、直径20ナノメートルのカーボンナノチューブだ。量子ドットが規則正しく配列された表面を、形状記憶ポリマーが覆う。この三層構造により、分子レベルでの制御が可能となる。しかし今、その構造が予期せぬパターンを形成し始めていた。


「アリエット、全パラメータの履歴を表示」


ピエールの命令に、作業空間が数値とグラフで満たされる。


T-10:00:00

量子コヒーレンス: 99.2% → 99.8%

分子整列度: 0.997 → 0.999

エントロピー変化: -0.003/s

重力場歪度: 0.0001G


「エントロピーが自発的に減少している」クレアが息を呑む。「しかもマクロスケールで」


「アリエット、製造プロセスの緊急停止」


「警告。プロセス停止に失敗。自己組織化が継続中」


AIシステムによる制御が完全に無効化されている。ピエールは祖父から受け継いだ技法を思い出す。量子状態を直接感知するための特殊な感覚。制御パネルから手を離し、織機に直接触れる。


「驚くべきことに」クレアがデータを凝視する。「あなたの接触により、量子状態が安定化している」


「これは単なる異常現象ではない」クレアの声が確信を帯びる。「新しい物質相を観測しているのかもしれない」


警報は鳴り止んでいたが、問題は深まるばかりだった。


「チェン博士」ピエールは織機から手を離さず問う。「あなたの依頼した特殊環境作業服。これと関連があるのでは?」


クレアは表情を硬くする。「その通りです。私たちの研究所でも、似たような現象が観測されていました」


緊急アナウンスが響く。「全セクションに告ぐ。外周工房区画で重力異常が発生。全作業員は直ちに避難せよ」


「アリエット、構造解析を」


「異常な量子もつれが工房全体に拡大。スマートファイバーが空間そのものと相互作用を始めている可能性があります」


浮遊する分子構造モデルが、複雑な幾何学模様を描き出す。その形状は、理論物理学で提唱された「空間の量子フォーム構造」に酷似していた。


「これは」クレアが画面に駆け寄る。「量子レベルで空間の位相が変化しています」


「どういうことですか?」


「簡単に言えば」クレアは言葉を選ぶ。「このスマートファイバーは、プランク長スケールで空間構造と共鳴している。理論上は不可能なはずの現象です」


重力センサーが急激な数値の変動を示す。


0.301G → 0.285G → 0.256G


「研究所では、新世代の環境適応服の開発を進めていました」クレアが説明を続ける。「人工筋繊維と量子センサーを組み合わせて...」


その時、ピエールは織機に手を伸ばす。分子の振動が、かつてない強度で伝わってくる。しかし、その中に彼は一つのパターンを見出していた。


「これは...祖父の最後の織物に似ている」


「どういうことですか?」


「量子状態を安定させるための特殊な編み方です」


彼の指が織機上を舞う。伝統的な技法と最新の量子理論が、一つの動きの中で融合する。狂乱的だった分子の動きが、徐々に新たな秩序を形成し始めた。


「信じられない」クレアが目を見開く。「理論的には説明できないはずの制御を、あなたは感覚的に行っている」


「チェン博士」ピエールが真剣な眼差しで問う。「この現象の本当の原因を突き止める必要がある。全てを話してもらえませんか?」


工房の窓の外で、地球が青く輝いている。その光は、かつてないほど不安定に揺らめいていた。

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