量子の織物
風見 ユウマ
伝統と革新の境界線
「本物の織物は、重力と光の間で生まれる」
0.3Gの微小重力区画で、ピエール・デュボワ=アオキは祖父の言葉を反芻しながら、織物の分子構造に目を凝らしていた。ホログラフィック・ディスプレイに浮かぶ複雑なパターンは、従来の物理法則では説明できない振る舞いを示している。
外周工房区画の壁面には「Maison Dubois - Est. 2142」の文字が、創業以来変わらない書体で刻まれていた。しかし、この工房で生まれる「織物」は、もはや地球のそれとは本質的に異なる存在だ。
「ピエール、量子状態の収束が始まっています」
AIアシスタント「アリエット」の声が響く。ホログラムの中で、カーボンナノチューブの配列が幾何学的なパターンを形成し始めていた。
「収束値は?」
「現在、波動関数の確率分布は0.897。許容範囲内です」
スマートファイバーと呼ばれる新素材を、量子レベルで制御しながら織り上げていく。その過程では、AIシステムによる精密な計算と、人間の直感的な技能が絶妙なバランスを保つ必要があった。
「環境データを確認します」
新たなホログラムが空中に展開される。
温度: 21.3℃
湿度: 45%
重力: 0.301G
放射線量: 0.12mSv/h
量子コヒーレンス: 99.2%
数値は正常範囲。しかし、ピエールは違和感を覚えていた。量子揺らぎのパターンに、通常では見られない微細な乱れが見て取れる。
通信パネルが青く点滅する。「新規オーダーです」アリエットが告げる。「バイオテック研究所、チェン博士からの依頼。特殊環境作業服の試作依頼です」
「受注履歴は?」
「初めての取引先です。ただし、推薦者として井筒商事が入っています」
井筒商事。地球で最も古い宇宙服メーカーの一つだ。その推薦は、並みの依頼ではないことを示唆していた。
「仕様書を展開して」
ホログラムに表示された仕様は、これまでに見たことのないものだった。従来の織物理論では説明できない要求が、いくつも含まれている。そして、その一つ一つが、先ほどの量子揺らぎのパターンと不思議な共鳴を示していた。
「アリエット、この依頼を受けるわ」
決断の瞬間、コロニーの人工重力が僅かに変動する。窓の外の地球が、いつもより鮮やかに輝いて見えた。
何かが始まろうとしていた。技術と伝統の境界線で、新たな物語が紡ぎ出されようとしていた。
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