第八話「あきらめたくない」

帰り道、誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉は、冷たい空気に飲み込まれるように消えていった。




自宅は、小さなアパートの一室。親がいなくなってから、俺は一人暮らしをしている。薄暗い部屋に入ると、すぐに鞄をソファに投げ出し、その場にへたり込んだ。




「はぁ……」




溜息が止まらない。全身の疲労が一気に押し寄せ、目の前が暗くなりそうだった。それでも、鞄に収めたあの杖のことが気になって仕方がなかった。




「どうせ大したものじゃないけど……一応見ておくか」




鞄から取り出した朽ち果てた杖を、そっと机の上に置く。表面に走る無数の亀裂や欠け落ちた宝玉が、改めてその「役立たず」ぶりを物語っている。




その瞬間、杖の柄に何かが刻まれているのに気づいた。




「……文字?」




近づいて目を凝らすと、それは見慣れない文字だった。現代語ではないことはすぐに分かったが、古代語でもなさそうだった。




(なんだ……この文字?)




文字は杖の柄全体を覆うように彫られており、かすかに磨耗している部分もある。それでも、何かしらの意味を持つものだということは伝わってくる。




杖をしばらく眺めていると、不意に頭の中に響くあの声が再び囁いた。




《スキルを使え》




その声に、俺は飛び上がりそうになった。




「……誰だ!?」




思わず声を上げ、周囲を見回す。だが、部屋の中には誰もいない。開け放した窓から冷たい夜風が吹き込んでいるだけだった。




「……今の、何だよ?」




声の正体を探そうと耳を澄ませるが、室内はただ静寂が支配しているだけだった。あたりをもう一度確認しても、何かが動いた形跡はない。




「……幻聴?」




胸がざわつく。ダンジョンでの恐怖がまだ頭に残っているせいか、それとも自分が限界まで追い詰められているせいか。どちらにしても、こうして誰もいない部屋で声を聞くなんて異常だ。




(俺、ついにおかしくなったのか……?)




自嘲気味にそう思ったが、その不安は胸の奥で静かに膨らみ続けていた。




スキル《過去視》――俺に唯一与えられたスキルだ。だが、1秒前の過去が分かるだけのこの力で、この杖に何が分かるというのか?




「意味ないだろ……」




そう思いながらも、無意識のうちにスキルを発動していた。




視界がわずかに歪み、杖の「1秒前の姿」が映り込む。だが、当然ながら見えるのは今と変わらない朽ち果てた状態のままだ。




「ほらな……何も分からない」




失望が胸を支配する。それでも、何か引っかかるような感覚があった。この杖に彫られた文字、そして謎の声。それらが無意味だとは思えなかった。




再び杖を握り直し、目の前にウィンドウを呼び出す。




【ぼろぼろに朽ち果てた杖】


種別:武器/杖


ランク:F-


説明:耐久性なし。威力なし。破損寸前の状態。


【付与属性】スキル効果の重ね掛け可能




「……重ね掛け可能?」




ステータス表示に書かれたその言葉が目に留まり、思わず眉をひそめる。




(どういう意味だ?)




通常、スキルの効果は一回の使用で完結するものだ。それが「重ね掛け可能」とはどういうことだろう? 杖の性能や状態に作用するのか、それともスキル自体の性質を活かせるのか?


頭の中で考えが渦を巻く。そして、ふとある仮説が浮かんだ。




(もし……この杖に《過去視》を何度も使えば……?)




「……やってみるか」




握りしめた杖に再び視線を落とす。もし《過去視》を重ねて使えば、この杖の「もっと前の姿」を見ることができるかもしれない――その可能性に賭けるしかない。朽ち果てたこの杖に、ただのゴミ以上の意味があるのなら、今この瞬間がそれを見極める時だ。




椅子に深く腰を下ろし、机の上に杖を置く。そして、スキル《過去視》を発動した。


1秒前の杖が映り込む。だが、当然ながら見えるのは今と変わらない姿だ。




「やっぱり、これじゃ何も分からないか……」




頭を振りながら、もう一度スキルを使う。さらに1秒前、そのまた1秒前――視界に映る杖は相変わらずボロボロのままだ。




(本当に……これで何か分かるのか?)




不安が胸をかすめる。それでも、手を止めることはできなかった。もし、これで杖の過去が見えるなら、俺のスキルにだって意味がある。それが確かめられるなら、今は続けるしかない。




「《過去視》……《過去視》……」




スキルを繰り返すたびに、視界がわずかに歪む感覚が広がる。集中を保つのが難しくなってくるが、目の前にある杖に全神経を注ぎ込んだ。


10回、20回、30回……繰り返しても、まだ変化は見えない。




「くそ……本当にこれでいいのか?」




呟いた声が空回りする。時計の針は夜中を過ぎ、部屋の中は完全な静寂に包まれている。それでも、俺は杖を握り続けた。




(もう少し……いや、もう……)




手を動かすたび、心の中に次第に膨らんでいくのは「諦めたい」という弱い声だった。




(これで何になる? 役に立たないものに、役に立たないスキルを重ねて……俺は、いったい何をやってるんだ?)




その声は、学校で城戸たちから浴びせられた「無能」「役立たず」という嘲笑を思い出させる。




(どうせ笑われるだけだ。……何をやっても無駄なんだ)




手が止まりそうになる。自分の存在が無意味だと思い知らされた日々。クラスで居場所をなくし、「目立たないように」「怒られないように」と生きてきた自分。何もしないほうが楽だ。そう思った瞬間、指が杖から離れそうになった。




その時だった。ふと、記憶の底から家族の声が蘇ってきた。




「蓮、頑張れー!」




それは、小学生の頃、運動会で母と姉が応援してくれた時の声だ。苦手だった徒競走で、俺が転びそうになりながらも走り抜いたあの日の光景が、鮮やかによみがえる。




「蓮ならできるよ! 諦めないで!」




姉の明るい笑顔。母の優しい声。その姿が、はっきりと脳裏に浮かんだ。




「……できる、か」




自分でも呟くようにそう言葉が漏れた。思えば、家族はいつだって俺を信じてくれていた。運動会だって、勉強だって、失敗しても怒られたことは一度もない。ただ、何度でも励まされてきた。




(……だったら、俺だって……)

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