午後四時三〇分


 どこをどう歩いたのか、記憶にない。気づけば私は館の玄関に立っていた。明後日まで猶予をやる、というタイガの言葉が頭の中で反響した。再び私は口を手で覆うと、床にうずくまった。


「嫌よ、絶対に嫌。私はあんな悪魔なんかに負けない」


 呟きながら立ち上がった。眩暈の感覚をおぼえつつ、大理石の床を進み、重たい木製の扉を押し開けた。

 一歩踏みだした時だった。突然、口を塞がれ、背後から強い力で両腕を羽交い絞めにされた。


「誰だお前」


 私は手足をばたつかせたが、背後の襲撃者の力は強く、まったく歯が立たない。パニックに陥りそうになるのを懸命にこらえた。


「まあいい、取り敢えず叫ぶな。叫んだら殺す。いいな?」


 低い男の声だった。私は何度もうなずいて見せた。


「よし、離すぞ。叫ぶなよ?」


 男の声がそう言うと同時に、体が軽くなった。反動で二歩、三歩と前によろめく。


「姉ちゃん、何者なにもんだ? タイガの何だ?」


 私は振り返り、襲撃者の姿を見た。玄関扉の前に、白髪交じりの中年の男が立っていた。男は白地に無数の十字模様が入ったブルゾンに、白色のズボンを履き、黒いマスクをしていた。何より異様なのは、左手に持った抜身ぬきみの日本刀だった。やいばに波打つ紋様もんようが、ぎらぎらと目にまぶしい。


何者なにものでもないわ。強いて言うならタイガの……被害者」

「はっ、そうか」


 男はそう言うと、くつくつと笑った。喉元に覗く龍の刺青いれずみが、男の笑いに合わせてひくひくと動く。


「実はな、俺もそうだ」


 ふと、男の右目の視線に違和感をおぼえた。


「ああ、俺はな、あいつのせいで眼球めんたま無くしちまったんだ。おかげで今は義眼だよ」

私の視線に気づいた男は、そう言って笑った。狂気に満ちた笑みだった。

「タイガの奴、珍しく今日はボディガードつけてないらしいな。ぶっ殺してやる」


 目の前の男の狂気じみた暴力性に、思わず後ずさった。


「あぁ、ごめんなぁ姉ちゃん。あんたには何もしないよ。俺はクズリっていうんだ。なぁ、俺と一緒にあいつをらないか? 拳銃チャカも持ってきたんだ、確実に殺れるぜ」


 クズリはブルゾンの内ポケットから黒く光る拳銃を取り出した。冷や汗が背筋を滑り落ちるのを感じつつ、私はなんとか口を開く。


「いえ、その、私は遠慮しておきます」

「なぁんだ、ノリ悪いな。まあいい。なら俺一人で行くぜ」


 クズリはそう言うと、私を押しのけて玄関から中に入っていった。


 しばらく私は呆然としていたが、ふと我に返り、慌てて車へ走り出した。早く逃げなければならない。このまま上手くやれば、私の思い通りにことが運ぶかもしれない。

 車のドアを開けた瞬間、頬に冷たさを感じ、天を仰いだ。雨が降り始めていた。

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