第二章 九話

菖蒲紫雲英あやめのげんげを迎え撃つにあたって。

榠樝かりんは雑念を捨てるべく、瀧に打たれるような気持ちでいた。

明鏡止水めいきょうしすいの如く。

「婿がねを迎える姫君ではなく、決闘の前のお顔ですわね」

堅香子かたかごが呆れるくらいに浮ついたところの無い榠樝だ。

もう少し心躍るとか、そういう気持ちにならないものだろうか。

「まさしく決闘よ、堅香子。私のすべてを懸ける気持ちで挑むわ」

凛と。

榠樝は威儀いぎを正して勝負に臨む。

「菖蒲紫雲英どの、参られました」

「通せ」

ぴんと張り詰めた声。緊張が頂点に達する。

ふわりと薫物たきものが香った。焦る心を静めてくれるような、爽やかな香り。

荷葉かように近いが若干、白檀びゃくだん甘松香かんしょうこうが強い。

心が落ち着く良い香りだ。

紫雲英がゆっくりと御簾みすを潜る。決して強過ぎず、けれど爽やかな甘みが良く似合う。

「菖蒲紫雲英にございます。此度こたびの機会をくださいましたこと、心より御礼申し上げます」

声も透き通るようで心地良い。

「うむ。おもてを上げ、楽にせよ」

紫雲英はすっと躊躇い無く顔を上げる。榠樝は紫雲英の視線を真っ向から受け止めた。

却って紫雲英の方が狼狽ろうばいする。

頼り無げな少女ではなく、美しく強い一人の女性がそこに居た。

おうちのかさねもあでやかに、凛とした女東宮。それが最初の印象だった。

つんと取り澄ました紫雲英の顔に、一瞬だけ当惑した少年の表情がよぎった。

勝った。と堅香子は思った、と後に榠樝に告げている。

あの瞬間に、既に勝負は決したのだと。

「では、始めようか」

榠樝は扇を鳴らし、碁盤を運ばせた。

「ご無礼申し上げます。置石は幾つになさいますか」

紫雲英の台詞に榠樝は告げる。

「要らぬ」

ぎょっとしたような紫雲英と堅香子に、少しおかしくなった。

「たとえ星目せいもくでも、そなたが私に負けることはあるまい。そのつもりで来たのだろう?」

紫雲英は一瞬言葉に詰まり、けれど素直に頷いた。

「勿論です」

榠樝は悠然と微笑み、言う。

「私が勝つことはあり得ぬかもしれぬ。だが万が一もあろう。それに、」

榠樝は白石の碁笥ごけを紫雲英の方へ押し遣る。

「負けるとしても無様な負け方はせぬよ」

得物を狙う猛禽類のような眼だった、と後に紫雲英は語っている。

そんな物騒じゃない、と榠樝は反応したらしい。

ともかく、とても鋭い眼光ではあった。

「では」

少し声が裏返って、紫雲英は咳払いをして誤魔化して。

白石を握った手を盤上に置く。

「半先」

榠樝が宣言する。紫雲英の開いた手の下には碁石が五つ。

にこりと榠樝が笑って黒石の碁笥を引き寄せる。

「始めようか」




ぱちり、ぱちりと。ゆったりとした時間が流れて行く。

しかし空気は酷く張り詰めている。

堅香子が手に汗握る状態だ。

榠樝が善戦している。逆に紫雲英の方が焦っているようだ。

現在優勢なのは紫雲英の方だというのに、気持ちにゆとりが無い。

榠樝は静かに石を置いていく。

紫雲英が顔を顰めた。アタリの石を助けるか、否か。

ちらりと榠樝を見ると、榠樝もまた紫雲英を真っすぐに見据えていた。

一点の曇りもない、澄んだ双眸。

その中に自分の顔が映っている。

動揺して、紫雲英は思わずがちゃりと石を鳴らした。

らしくない挙動に、ますます紫雲英は狼狽うろたえたようで。

珍しく、繋ぎに失敗した。

手が滑ったのだろう、と榠樝は思う。

紫雲英の方がずっと強いのだ。

相手の動揺に付け込んで、榠樝は遠慮なく白石を取っていく。

それから。

紫雲英は酷く乱れた

「終わりだな」

「終わりましたね」

ふう、と榠樝は長く息を吐く。

黒の半目勝ち。辛うじて、辛うじて勝った。運がよかった。

きっと次は無い。

「動揺のあまり打ち損じました」

「だろうな。付け込ませてもらった」

悪びれない榠樝に紫雲英も小さく苦笑を返す。

「万が一にも負けることなどないと思っていましたよ」

「うむ、そうだな。私もそう思っていた」

あまりにあっさりと榠樝がうなずき、紫雲英は苦笑を深くする。

「此度は私に龍神の加護があったのだろう。ありがたいことに、そなたが随分と失敗を重ねてくれた」

「見誤っていたかもしれません」

紫雲英が溜め息交じりに零した。

「うん?」

紫雲英が平伏する。

「私は女東宮をあなどっておりました」

真っ直ぐに言われ、榠樝は思わず声を上げて笑った。

「ははは、見縊みくびられているのはわかっていたが、はは、まさか真っ正直に言ってくれるとはな!」

「お怒りでは?」

「怒っていたら、そもそも呼ばぬよ」

扇でぱたぱたとあおいで。榠樝は笑いを収める。

「直接話がしたかったのは、というか、直接見極めたかったのは私も同じでな」

二人の間にぴりりと緊張感が走る。

「菖蒲家の嫡男ちゃくなん、紫雲英。そなたも家の名に圧し潰されんとするのをね除けようと日々努力を重ねているだろう」

「女東宮も、真っ直ぐに真っ当に、王を目指しておられるのですね」

榠樝は肯く。

「ただの王では意味が無い。良き王にならねばならぬ」

「私も、良き当主にならねばなりませぬ」

紫雲英が榠樝の眼を真っ直ぐに見据え、言う。

「畏れながら女東宮は、私と似ておられます」

「ふふ、そうか。似ているか」

楽し気な榠樝に、紫雲英もにやりと笑った。

今までの貴公子然とした笑みではなく、それこそ榠樝と似た表情だった。

「貴方とまつりごとの話がしたい」

「奇遇だな。私もだ」

見つめ合って、しっかりと頷く。

熱い視線がぶつかって、爽やかな風が吹き抜ける。

堅香子は天を仰いだ。

恋ではなく友情が芽生えたらしい。

盛大に溜め息を零しつつ、堅香子は言う。

「お二方ともお疲れでしょう。茶を用意させましょう」




「亡き父上が仰せになられたのは、国は身体であるということだ」

「なるほど。道を整え、滞りなく物資を流さねば、各部分がいずれ壊死していく」

「そう。血を一つ所に留めようとしてはならないと。身体の隅々まで行きわたらせ、各々の部署が正しく機能してこその朝廷である」

「仰せの通り。ゆくゆくはいちなどももっと盛況に致したく。活気ある都になればと思っております」

「その為にも大路だけではなく小路も整えねば。あと水」

「そう、水。物資の運搬だけでなく、疫病の対策だけでなく」

大いに盛り上がる二人に、堅香子は茶を差し出しながらそっと溜め息を吐いた。

どうやら意気投合したらしいが、恋の欠片も見当たらない。

距離を詰め、頬を紅潮させ、話し合うのは政。

「婿がねなんですけどねえ」

堅香子の呟きは二人には拾われずに消えた。


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