第二章 八話
慕っていた相手に久し振りに会うのだ。緊張くらいする。
ふわりと懐かしい香が鼻先を
「
すっと
用意された
「お久しゅうございますね、榠樝さま、いえ、女東宮」
榠樝はぎこちなく笑った。
「榠樝でいいわ。久し振りね、笹百合」
目が合って、微笑み合う。
こうして近しく言葉を交わすのはどれくらいぶりだろう。
やはり笹百合の側は空気が優しくて、居心地がいい。
「本日呼び立てたのは、碁の相手を頼みたくて」
「お聞きしました。
「どこまで噂になってるの、それは」
苦笑する榠樝に笹百合はそっと笑う。
「まだ、それほど」
「それなりには広まってるのね」
「早耳はどこにでも居ります
榠樝は肩を竦める。
「まあ、そういうことなの。私があまりに弱くても困るから、少し練習相手になって欲しくて」
「ええ、喜んで」
笹百合は花が綻ぶように微笑んだ。
その笑みを目にして、堅香子は息を呑む。
男なのに、なんと美しい。
「
碁石を並べ始める榠樝に、笹百合が少し目を瞬いた。
「おや、置き碁ですか?」
榠樝はくすりと笑った。
「まだそれくらいしないと勝てないんじゃないかと思ってるけど?」
笹百合は悪戯っぽく笑い返す。
「私相手に三子では、紫雲英どのには七子、いや
榠樝が膨れっ面になる。
「九子も置かないわよ」
「試してみましょう」
楽し気な笹百合に榠樝は力強く応える。
「よくご覧なさいな」
対局が始まった。
ぱちり、ぱちりと静かに碁石の音がする以外は相手の呼吸しか聞こえない。
二人きりの空間のような気すらする。いや、堅香子はすぐ側に控えているのだけれど。
相手の動きを見て、先を読む。
相手が何を考えているか、読む。
榠樝は
榠樝は頭を振る。
余計なことを考える暇は無い。少しでも強くならねば。
本当に星目で相手しなくてはならないのなら、紫雲英は幻滅するだろう。
菖蒲が蘇芳につくことは万が一にも無いだろうけれど。それでも。
榠樝はまた、頭を振った。
それだけは避けたい。
「榠樝さま?」
笹百合が心配そうに声を掛けてくれる。榠樝は目を開け、笑う。
大丈夫、と。
「余計なことを考えたわ。集中します」
睫毛を伏せ、一見冷たくすら見える表情になる榠樝は、十四の少女の顔ではなくて。
笹百合は少しだけ辛そうに睫毛を震わせる。
無理をしないで、と言いたいけれど。それを榠樝は望んでいない。
対局していてわかった。
榠樝は王になりたいのだ。
それも、亡き父王に匹敵するくらいの。比類なき王に。
「あなたは」
笹百合はそっと囁くように、言った。
「強くなりたいのですね」
榠樝が視線を上げる。
先程と打って変わって、星を宿したように強く輝く双眸。
「ええ。強くなりたいわ。強くなるわ」
そうでなければならないのだ。
ぱちん、と碁石が置かれる。
終盤。
細かい陣地の争い、不完全な陣地の補強。
気を抜くと進入されて陣地が減っていく。
後は細やかな目配りがものをいう。見落としが一つでもあってはならない。
「力み過ぎては、却って目に入らぬことが増えるものです」
穏やかな笹百合の言葉に、榠樝はふ、と笑った。
「笹百合には、敵わないわね」
すべて見透かされているような気がする。
少しだけ苦い思いを噛み締めて、榠樝は石を置いた。
「終わりね」
「終わりですね」
ぱちり、ぱちりとダメを詰めていく。
死石を除去し、整地。
笹百合が微笑む。
「黒の三目勝ち。やっぱりお強くなられていますよ、榠樝さま」
「そりゃあ、幼い頃よりは」
でも、と榠樝は笹百合を見る。
「笹百合、手加減したでしょう」
「おや、そのようなことは」
意外そうな笹百合の表情に、榠樝は眉を下げた。
「じゃあ無意識ね」
笹百合は怪訝そうに首を傾げている。全くの意識の外だったのだろう。
「笹百合に手加減してもらっているようでは、紫雲英には敵わないか」
悔しそうな榠樝に、笹百合は申し訳なさそうな表情で頭を下げる。
「ご不快にさせてしまい、お詫び致します。そのようなつもりは無かったのですが」
「謝ってもらう所じゃないわ。ただ、少し残念なだけ」
「残念、ですか」
榠樝は微妙な表情で笑った。
大人とも子供ともつかないような、曖昧な笑顔。
「私は、まだまだ子供で、一人前には程遠いのね」
笹百合が瞬く。
今一瞬、榠樝が
朝日が当たってきらきらと輝く一面の霜の中、その霜と見分けがつかないくらいに白い菊。
霜にも負けずと首を
「いいえ、榠樝さま。あなたは」
笹百合はゆっくりと、噛み締めるように目を細めた。
「素晴らしい大人におなりですよ」
幼い頃から知っている自分が、思わず
柔らかな表情の笹百合に少し照れて。
「だといいのだけど」
小首を傾げる姿は幼いあの日と変わらないのに。
纏う空気が
それは決して自分の気持ちの所為だけでは無いだろう、と笹百合は胸を熱くさせた。
父王を亡くして、その細い両肩に
榠樝は強くなった。そして強さに見合う程に、それ以上に。
少女は美しくなった。
羽化したばかりの蝶のよう。儚くも力強く、そしてこれからもっと輝いていく。
その日はきっとそれほど遠くはない。
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