第二章 八話

榠樝かりんは緊張していた。

慕っていた相手に久し振りに会うのだ。緊張くらいする。

ふわりと懐かしい香が鼻先をくすぐる。優しい風のような香り。沈香じんこう丁子ちょうじが涼し気ですがしい。榠樝には嗅ぎ分けられないが、奥深く色々な香が品よく混ざり合っている。

縹笹百合はなだのささゆりどの、参られました」

堅香子かたかごが告げる。

すっと御簾みすくぐり笹百合が入って来た。

用意されたしとねの前で膝をつき、こうべを垂れる。

「お久しゅうございますね、榠樝さま、いえ、女東宮」

榠樝はぎこちなく笑った。

「榠樝でいいわ。久し振りね、笹百合」

目が合って、微笑み合う。

こうして近しく言葉を交わすのはどれくらいぶりだろう。

やはり笹百合の側は空気が優しくて、居心地がいい。

「本日呼び立てたのは、碁の相手を頼みたくて」

「お聞きしました。菖蒲紫雲英あやめのげんげどのと勝負をなさるとか」

「どこまで噂になってるの、それは」

苦笑する榠樝に笹百合はそっと笑う。

「まだ、それほど」

「それなりには広まってるのね」

「早耳はどこにでも居りますゆえ

榠樝は肩を竦める。

「まあ、そういうことなの。私があまりに弱くても困るから、少し練習相手になって欲しくて」

「ええ、喜んで」

笹百合は花が綻ぶように微笑んだ。

その笑みを目にして、堅香子は息を呑む。

男なのに、なんと美しい。

三子局さんしきょくでいいわね?」

碁石を並べ始める榠樝に、笹百合が少し目を瞬いた。

「おや、置き碁ですか?」

榠樝はくすりと笑った。

「まだそれくらいしないと勝てないんじゃないかと思ってるけど?」

笹百合は悪戯っぽく笑い返す。

「私相手に三子では、紫雲英どのには七子、いや星目せいもくになりますよ」

榠樝が膨れっ面になる。

「九子も置かないわよ」

「試してみましょう」

楽し気な笹百合に榠樝は力強く応える。

「よくご覧なさいな」

対局が始まった。


ぱちり、ぱちりと静かに碁石の音がする以外は相手の呼吸しか聞こえない。

二人きりの空間のような気すらする。いや、堅香子はすぐ側に控えているのだけれど。

相手の動きを見て、先を読む。

相手が何を考えているか、読む。

榠樝はじっと笹百合の手を見つめる。優美な指先。きれいな爪。だけど堅香子とは違う、少し骨ばった、大人の男の手。

榠樝は頭を振る。

余計なことを考える暇は無い。少しでも強くならねば。

本当に星目で相手しなくてはならないのなら、紫雲英は幻滅するだろう。

虹霓国こうげいこくの将来を見るに、王家は駄目だと判じられたら。

菖蒲が蘇芳につくことは万が一にも無いだろうけれど。それでも。

摂政せっしょうにつく方が分のいい勝負と判断されたら。

榠樝はまた、頭を振った。

それだけは避けたい。

「榠樝さま?」

笹百合が心配そうに声を掛けてくれる。榠樝は目を開け、笑う。

大丈夫、と。

「余計なことを考えたわ。集中します」

睫毛を伏せ、一見冷たくすら見える表情になる榠樝は、十四の少女の顔ではなくて。

笹百合は少しだけ辛そうに睫毛を震わせる。

無理をしないで、と言いたいけれど。それを榠樝は望んでいない。

対局していてわかった。

榠樝は王になりたいのだ。

それも、亡き父王に匹敵するくらいの。比類なき王に。

「あなたは」

笹百合はそっと囁くように、言った。

「強くなりたいのですね」

榠樝が視線を上げる。

先程と打って変わって、星を宿したように強く輝く双眸。

「ええ。強くなりたいわ。強くなるわ」

そうでなければならないのだ。

ぱちん、と碁石が置かれる。

終盤。

細かい陣地の争い、不完全な陣地の補強。

気を抜くと進入されて陣地が減っていく。

後は細やかな目配りがものをいう。見落としが一つでもあってはならない。

「力み過ぎては、却って目に入らぬことが増えるものです」

穏やかな笹百合の言葉に、榠樝はふ、と笑った。

「笹百合には、敵わないわね」

すべて見透かされているような気がする。

少しだけ苦い思いを噛み締めて、榠樝は石を置いた。

「終わりね」

「終わりですね」

ぱちり、ぱちりとダメを詰めていく。

死石を除去し、整地。

笹百合が微笑む。

「黒の三目勝ち。やっぱりお強くなられていますよ、榠樝さま」

「そりゃあ、幼い頃よりは」

でも、と榠樝は笹百合を見る。

「笹百合、手加減したでしょう」

「おや、そのようなことは」

意外そうな笹百合の表情に、榠樝は眉を下げた。

「じゃあ無意識ね」

笹百合は怪訝そうに首を傾げている。全くの意識の外だったのだろう。

「笹百合に手加減してもらっているようでは、紫雲英には敵わないか」

悔しそうな榠樝に、笹百合は申し訳なさそうな表情で頭を下げる。

「ご不快にさせてしまい、お詫び致します。そのようなつもりは無かったのですが」

「謝ってもらう所じゃないわ。ただ、少し残念なだけ」

「残念、ですか」

榠樝は微妙な表情で笑った。

大人とも子供ともつかないような、曖昧な笑顔。

「私は、まだまだ子供で、一人前には程遠いのね」

笹百合が瞬く。

今一瞬、榠樝がまばゆく輝いて見えたのだ。

たとえるならば、霜の中に咲く白菊。

朝日が当たってきらきらと輝く一面の霜の中、その霜と見分けがつかないくらいに白い菊。

霜にも負けずと首をもたげて凛と立つ白菊は、なんと清らかで美しいことだろう。

「いいえ、榠樝さま。あなたは」

笹百合はゆっくりと、噛み締めるように目を細めた。

「素晴らしい大人におなりですよ」

蘇芳紅雨すおうのこううが一目で恋に落ちるくらいに。

幼い頃から知っている自分が、思わず見蕩みとれてしまうくらいに。

柔らかな表情の笹百合に少し照れて。

「だといいのだけど」

小首を傾げる姿は幼いあの日と変わらないのに。

纏う空気がきらめきを増している。

それは決して自分の気持ちの所為だけでは無いだろう、と笹百合は胸を熱くさせた。

父王を亡くして、その細い両肩に否応いやおうなく重責を負って。

榠樝は強くなった。そして強さに見合う程に、それ以上に。

少女は美しくなった。

羽化したばかりの蝶のよう。儚くも力強く、そしてこれからもっと輝いていく。

その日はきっとそれほど遠くはない。


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