Ⅳ
深刻にならなくても大丈夫だ、と言われたとおり、その後、沙友里に妙な電話がかかってくることはなかった。
怪しいパンフレットも送られてこないし、竜介に危害が加えられるようなこともない。
竜介の生活態度がだらしないことに変わりはないが、連絡もなしに帰宅が遅くなることはなくなったし、学校の宿題も忘れずに出しているようだ。
平穏な日常が続いていた、とある日曜日の午後。
沙友里は掃除機をかけるために全部の部屋の窓を開けて回った。
綺麗好きの沙友里は、毎日掃除をしたいのだが、夫の竜也が家にいる週末は、どうしても掃除機がかけにくい。テレビを見たり、書斎にこもっている竜也の邪魔になるからだ。
だから竜介がサッカーの練習で、竜也も夕方まで出かけている今日は、家中の掃除をするチャンスだ。
リビングから順番に掃除機をかけ、最後に竜也の書斎の掃除にとりかかる。
狭い部屋には、資格勉強のための本やビジネス書がたくさんあって、机の上や本棚に所狭しと並べられている。
家族の前では能天気な竜也だが、仕事に関しては真面目で勉強熱心なのだ。
竜也には結婚当初から「本棚は勝手に触らないでね。どこに何の本を置いたかわからなくなっちゃうから」と、きつく言われている。
いつものように掃除機だけかけて部屋を出ようとした沙友里だったが、今日に限ってどうしても、本棚に溜まった埃が気になった。
少し拭くだけならいいだろうと、ハンディワイパーを持ってきて、埃のたまった本棚を撫でる。そのとき、乱雑に突っ込まれていた本の一部が棚から落ちてきた。
バレないように片付けないと。
沙友里が焦って拾いあげた本の中には、ライトグリーンの妙な封筒が紛れていた。何気なくそれを手に取った沙友里はドキリとした。
封筒の右下に描かれていたのは、二つの家と相互に矢印の先が向いたロゴ。その横に『ファミリー・スイッチ株式会社』いう社名がポップな字体で印刷してある。
そういう名前の会社から電話がかかってきたのは、もう一ヶ月以上も前のことだ。
沙友里が竜也に話したとき、彼は社名もその存在も全く知らないふうだった。それなのに、どうして……。
封筒をつかむ沙友里の手が汗ばむ。
心臓がバクバクと音をたてて鳴り、もう胸騒ぎどころの話ではなかった。きっと、この中身は見ないほうがいい。
頭の中で警告音が鳴る。けれど、それでも見なければいけない。そんな気もする。
震える手で中身を引っ張りだすと、そこには契約書と戸籍謄本のような書類が入っていた。
契約者の名前は夫の竜也。
戸籍謄本のような書類には、竜也を筆頭に家族の名前が書かれている。
だが、妻の欄は最初に書かれたものが二重線で消されていて、その横に沙友里の名前が記載されていた。
消されているのは、同じマンションに住む博美の名前。それを見た瞬間、沙友里の頭に忘れていた記憶が蘇った。
そうだ。私はもともと、竜也さんの妻でも竜介の母親でもない。本当の私は、蓮人と凛花のママだった。
聡明な顔をした蓮人やはにかんだように笑う凛花と顔を合わすと、いつも博美にちっとも似てないと思っていた。
目が合うと恥ずかしそうに笑う凛花を可愛く思ったし、蓮人を見て一年前よりもしっかりしたな驚いた。それは全て、あの子たちの成長を無意識の中で喜んでいたからだ。あの子たちはどう見たって、博美じゃなくて私に似ている。
少しやんちゃで、だらしないところの多い竜介をいつも怖い顔で怒っていたのは博美で、沙友里は泣いているあの子の背を撫でて何度か慰めた。
可哀想だと思ったし、なんとかしてあげたい気持ちはあった。だけどあの子は、沙友里が産んだ子どもじゃない。
どうして、今まで忘れていたのだろう。
封筒と書類をつかんで立ち上がったとき、背後でガチャリと音がした。
いつ帰ってきたのだろう。振り向くと、書斎の鍵をかけた竜也が、唇を歪めて不気味に微笑んでいる。
「竜也さん、これはいったい……」
「見つけちゃったんだね。だから、書斎の本棚は触らないでって言っておいたのに。すぐに記憶を上書きしてもらわないとな」
口元に笑みを湛えながら、竜也が沙友里にゆっくりと近付いてくる。後ずさった沙友里は、本棚に背中をぶつけて、すぐに竜也につかまった。
「上書きって、どういうことですか? 私は本当は——」
「本当って何? 君もこの前聞いたんでしょ。家族を入れ替えられるっていう話。前の奥さんは、竜介を怯えさせるくらいしつけに厳しかったけど、その割には口ばっかりで、料理も掃除もダメだった。だから、変えてもらったんだよ。僕にとっても竜介にとっても理想的な家族に」
「でも、私の意志は?」
何も知らなかった。家族だと思っていた。でも、本当は私たちには何のつながりもなくて、そこには私の意志すらもなかった。
ぎゅっと眉間に力を入れると、竜也も沙友里の手首をきつく握りしめる。
「勧誘を受けたとき、言われなかった? みんな気付いてないだけで、家族の入れ替えサービスを利用してる人は意外に多い、って」
「でも……、入れ替えられる人の意志も尊重されないまま、記憶まで塗り替えられて……。そんなの、本当に家族って言えるんですか?」
沙友里の心に、蓮人と凛花が生まれた日の記憶が蘇る。頼りなく、可愛い、とてつもなく愛おしい存在。沙友里が一生守りたいと思って抱きしめたのは、たしかにあの子たちだった。
「元に、戻してください。私の本当の家族は別にいます」
「本当かどうか、ってそんなに大事かな? 現に、君だって僕や竜介が家族だって思い込んでたときは、僕らに本気で愛情を注いでくれていたじゃない。竜介のことで悩んだり、喜んだりしてたのも、あの子を本当の子どもだと思ってたからでしょう?」
竜也の問いかけにうまく反論できない。ぐっと唇を噛み締めた沙友里を、竜也が勝ち誇ったような目で見下ろしてくる。
「君が身をもって体験したからわかるよね。血のつながりも、家族の絆も、君の意思も全部、塗り替えてしまえば、それは本物になるんだよ。だからなにも心配しないで。僕たちは、これからも《家族》だ」
突然、沙友里の首の後ろに強い衝撃が走る。薄っすらと閉じ行く瞼の隙間で、竜也がいつまでも静かに微笑んでいた。
Fin.
とりかえ家族 月ヶ瀬 杏 @ann_tsukigase
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