Ⅱ
竜介の担任との個人面談を終えた沙友里は、小学校を出るなり深いため息を吐いた。
面談時間は十五分。それをまるまるたっぷりつかって、先生は竜介の学校での様子を話してくれた。
まず、交友関係と普段の生活について。
先生は、「誰とでも仲良くできる、クラスのムードメーカーだ」と竜介を褒めてくれた。
サッカーが得意で他の運動もよくできるので、休憩時間や体育のときにクラスメイトからの注目を集めているという。そこまでの話を、沙友里は頷きながら笑顔で聞いた。
だが、話はそれだけで終わらなかった。
面談の後半で、先生が神妙な顔で成績表を見せてきたのだ。
「ただ、竜介くん、学習面が少し……。最近、テストでの間違いやミスが目立つかなあと。習った内容を理解できてないのかなと思うような回答が多ったり、宿題が出ていない日も増えています。おうちでも少し気をつけてみてあげてください」
先生の言葉に、沙友里は頭の中が真っ白になった。
学校後の時間をほぼ毎日サッカーに費やしている竜介に、沙友里は勉強のことで全く干渉してこなかった。
それでも今まで先生から勉強のことで指摘をされたことはなかったから、まさかの事態に驚いた。
「もう少し、家庭でも勉強のフォローをしていきます」
担任に頭を下げながら、沙友里は頭が痛かった。
家に帰る途中、学習塾の鞄を持った蓮人に出会った。
「こんにちは」
蓮人が、礼儀正しく頭を下げて沙友里に挨拶をしてくる。
「こんにちは、蓮人くん。これから塾? 大変だね」
「そんなことないです。みんな頑張ってるし。ぼくも頑張らないと、志望校に受からないから」
真面目な顔付の蓮人が、しっかりとした口調でそう言った。
博美のしつけがしっかりしているのか、沙友里に対する態度も言葉遣いも、小学四年生のわりにきちんとしている。
凛とした聡明な目で沙友里のことを見上げる蓮人は、一年前まではこんなふうではなかった。
大人相手にもう少し幼い話し方をしていたし、笑うと目尻が下がるのが印象的な可愛い子だった。
それが……。塾に行くとここまで変わるものなのだろうか。
正直、驚いた。それと同時に、成績のことで担任に注意された竜介の将来が急に不安になった。
「じゃぁ、ぼく行きます。竜介に言っといてください。また学校で遊ぼうって」
蓮人が小さく会釈して、走り去っていく。その背中を見つめながら、焦りとも妬みとも言えるような複雑な感情に苛まれた。
好きなことを好きなままにやらせてきた竜介は、このままで大丈夫なんだろうか。
その日、竜介の帰りがいつもよりも遅かった。
「ただいまー。夜ご飯なにー?」
靴を脱ぎっぱなして泥だらけのユニフォームと靴下で家に上がろうとする竜介。いつものことなのに、沙友里はそのことに少しイラついてしまった。
「ちゃんと靴をそろえなさい。汚れた靴下は玄関で脱いで。洗濯機に入れる前に下洗いするから。それよりも、どうして今日は帰りが遅くなったの?」
「練習終わったあとに、チームのメンバーでちょっと遊んでた」
面倒くさそうに靴をそろえた竜介が、特に悪びれる様子もなく話す。
「スマホ持たせてるんだから、遅くなるときは連絡入れてよ。心配するでしょ」
「はーい」
間延びした返事をして洗面所へと歩いていく竜介は、沙友里の小言など気にも留めていない。夕方に見かけた蓮人との態度の違いに、沙友里はイラつくと同時に失望した。
「手を洗ったら、ご飯の前にまず宿題しなさい」
沙友里が強い口調で言うと、竜介が不満げに頬を膨らませる。
「えー、めっちゃお腹空いてんだけど。宿題なんて、ご飯のあとでいいじゃん」
普段の沙友里であれば、サッカーの練習のあとでお腹を空かせて帰ってきた竜介の希望を優先させる。だが、今までの沙友里は竜介を甘やかしすぎていたのだ。
「ダメよ。先に宿題。お母さん、今日、学校の個人面談に行ってきたの。勉強のことで先生からいろいろお話聞いたよ。最近、宿題もあまり出してないみたいじゃない」
沙友里の言葉に、竜介が気まずそうに目を伏せる。
「サッカーもいいけど、もう少し勉強しなさい」
そう言うと、沙友里は学校から帰って来てから置きっぱなしになっている竜介のランドセルを拾い上げた。
その瞬間、きちんと留め金をしていなかったランドセルのフタが開いて、教科書やノートや筆箱が、一気になだれ落ちてくる。
床に散らばった竜介の勉強道具を見下ろして、沙友里はため息を吐いた。教科書やノート類の大半は角が折れ曲がっているし、プリント類はしわくちゃだ。
「こういうだらしないところが成績にも反映されちゃうのよ。蓮人くんはちゃんとしてるでしょ?」
そう言いながら振り向くと、竜介が不機嫌そうに顔をしかめた。
「なんで蓮人が出てくんの?」
「今日の夕方会ったから。すごくきちんとした態度で挨拶してくれて、びっくりしちゃった。塾での成績もいいんでしょ。すごいよね」
少し嫌みっぽかったかもしれない。一瞬そう思ったけど、きっと竜介にはこれくらい言わなければわからない。
「お母さんって、昔から蓮人が好きだよね」
竜介がそう言って沙友里を睨む。
竜介にそんなふうに敵意を込めて睨まれたのは初めてだった。
「竜介……」
焦って呼びかけたけれど、竜介は沙友里を無視して自分の部屋に閉じこもってしまった。
◆
翌朝。竜介は、沙友里に朝の挨拶もせず、牛乳だけ飲んで学校へ出かけていった。
昨日の夜のことでまだ不貞腐れているのか、家を出ていくときに「いってきます」の言葉もなかった。
夫の竜也に愚痴のメッセージを入れると、『反抗期じゃない?』と、能天気な答えが返ってくる。
竜也は子育てを完全に沙友里に任せ切っていて、竜介のことに関してもいつもどこか他人事だ。
昨日だって、個人面談で指摘されたことを真剣に相談したのに、スマホを見ながら沙友里の話を片手間に聞いていた。
沙友里はこれまで、親の都合で子どもに何かを強要したことはないつもりだ。
子どもが好きなことや興味を持ったことは、なるべく口出しせずに自由にやらせてきたし、全力でサポートもしてきた。
だからこそ、竜介の態度や竜也の反応に悶々とする。
それと同時に頭に過ぎるのは、礼儀正しく挨拶してきた蓮人の姿だった。
子どもが同じ年頃なこともあって、沙友里と博美の家とは家族ぐるみの付き合いがある。
子どもの意見を尊重して、のびのびと自由にさせていた沙友里と違って、博美は内でも外でも子どものしつけに厳しく、子どもの希望よりも親の期待を押し付け気味だった。昔から、博美に厳しく叱られて泣いている子どもを見てきた沙友里は、彼女のしつけに疑問を抱くことも多かった。
でも……。厳しくしつけた結果、蓮人のような礼儀正しさが身につき勉強もできるようになったのだとしたら、博美のやり方は必ずしも間違っていなかったのだろう。
竜介の成績が下がっているのも、少し注意しただけで不貞腐れてしまうのも、沙友里が竜介を自由にさせて甘やかせてきた結果だ。そう思うと、落ち込んだ。
午前中の家事を終わらせたあと、沙友里はパソコンを開いて子どもの教育に関する情報をかたっぱしから漁ってみた。
有名な教育評論家や心理学系の専門家。子育て主婦のブログ。教育関連の通信教育や塾情報。さまざまな意見を読めば読むほど、親としての正しい関わり方がよくわからなくなる。
とりあえず、サッカーは控えめにして、竜介には無理やりにでも勉強をさせたほうがいいのかもしれない。今からでも間に合うだろうか。インターネットで検索した記事を読みながら、沙友里は力なくため息を吐いた。
その日も、サッカーの練習に行った竜介の帰宅は遅かった。
「おかえりなさい」
沙友里が玄関まで出迎えると、竜介は汚れた靴を脱ぎ捨てて部屋に逃げこもうとする。昨夜から続く無視に耐えかねた沙友里は、息子の腕をつかまえた。
「帰ってきたら、ただいまでしょ。帰りが遅かった理由は? 遅くなるならちゃんと連絡を入れなさいって言ったでしょう」
問い詰めても、竜介は不貞腐れた顔のままで何も言わない。
「何か答えなさい。お母さんの言うことが聞けないなら、サッカーはやめてもらうから」
いつになく低い声でそう言うと、竜介の肩がビクリと震えた。
「え?」
肩越しに振り向いた竜介が、今までに見たことのないくらい怯えたような目で沙友里を見てくる。その表情に胸がざらつく。記憶の奥深くが針先でつつかれているような、忘れてしまっている重要なことがあるような。そんな気がしたのだ。
「りゅ——」
沙友里が手を伸ばすと、竜介の肩が大げさなくらいに震えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。ぼく、ちゃんと言うこと聞くから……」
最近では生意気に自分のことを「おれ」と言うようになっていた竜介が、急に幼い子どもみたいに泣き始める。
驚いた沙友里は、慌てて竜介を抱きしめた。
少し厳しく注意するだけのつもりだったのに。こんなふうに追いつめて怯えさせるなんて。沙友里らしくないひどい叱り方だった。
「わかってくれればいいの。もう怒ってないから」
竜介の背中をさすりながら、いつかも震えて泣くこの子を慰めたことがあるような。不思議な感覚がした。
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