第二話 お説教
愛にはさまざまある。余人には理解できないものもある。
例えば、傷つけあうことでしか示せない愛、沈黙して我慢することでしか受け入れられない愛、他者を見下す一方で慈しむ愛……。人は自身に理解できないものをことさらに忌避する。
朝樹もその一端を知っている。
例えば、知り合ってすぐの怠け者の世話を喜んでするような奇人は、どう見えるのだろうか——
入学して数日、クラスメイトともある程度馴染んできたころ、朝樹はとある少女の負担を負っていた。お隣さんは
昼下がり、朝樹は眠気まなこをこする猫人にご飯を食べさせていた。そう、箸を持って餌をあげる。なんなら「あらあら可愛い子」と朝樹がほおを緩ませる始末。
実際苦ではなかったし、お世話には慣れていた。小動物を手懐ける、そんな癒しさえ感じていた。だが苦言を呈するのは猫人ではなかった。
「ふみちゃん、猫人さんとは知り合いだったりするの?」と、歩み寄ってきた相坂の遠慮がちな問いに、朝樹はそんな訳ないでしょと笑う。
相坂の理解できないと言った顔に猫人の口元を拭いながら付け加えた。
「確かに出会って数日の距離感じゃないかもしれない。でもね、わたしは孫ができたみたいで嬉しいのよ」細身とはいえ男性の顔で女性の言葉は違和感があった。しかし相坂は腑に落ちた。
ああそういうことか。
一方で疑問が次々と湧いてくるが、質問責めするほど空気が読めない訳でもない。
くりっとした黒目に、猫耳付きのジャンパーの猫人はなされるがまま、食べ終わると「ありがと」と言葉少なに寝てしまった。
「いい声ね」しみじみ呟き、手早に弁当を片付ける。朝樹が少女のバックを開ける様にだれもなにも言わない。
「相坂さんふくめみんな、きっと甘やかしすぎてると思ってるでしょ」
「そうね」
「もちろんわたしも了解してる。でも、時間をかけて改善していけばいい話じゃない?」
「……」
二人で猫人を眺める。
いまだ常識の範疇で考えてしまう相坂は朝樹という人間をはかりかねていた。猫人の中学時代も散々だったが、今思えば授業中に起きていたことなど見たこともなかった。そういう意味では、たしかに朝樹の努力も納得できるかもしれない。
肩の力を抜いた相坂を見上げた。
「気にかけてたんでしょ」
「え、いやそんなんじゃないけど……」
染め髪をいじる相坂は口篭ってしまう。
しきりに猫人を見やる相坂を何度か見てきた。話しかけるでもなく、近くにいるわけでもなく、ただ健やかにいることを安心しているように思えた。
朝樹はそんな彼女が微笑ましかった。
「思われていることに気が付かないこの子には、お説教が必要かもね」
ひそめ笑うと、相坂も緊張をといて眉を下げた。
彼我の間には薄い膜がある。彼らを隔て、衝突をはばむ抑止装置だ。相坂はそれを感じ、喉の奥が詰まった。
「……おせっかいだよ」
「そうかもね、わたしはおせっかいで、相坂さんは心配性だ」
今度こそ笑えた。
朝樹は陰りのない笑みに安堵し、席を立つのだった。
「どっか行くの?」
「図書委員の仕事でね。昼休みと放課後は図書室にこもる。その間は猫人さんを任せたよ、背伸びしたお姉さん」
軽やかに去る朝樹に目を丸くした相坂は無言でうつむいた。
「ねーあいっち!もう話終わったんならこっちきてよー」
「ごめん、ちょっちこっちにおっとくわ」
間を感じさせず両手を合わせて謝辞する。
いつもの女子たちはなんかあったのかといぶかしむ。相坂は理解の外にある性の少年の代わりに、その席へ腰を下ろした。足も組まず、ほおづえをついた彼女の目には春の陽光に気持ちよさそうな少女がうつっていた。
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昼休みはともかく放課後は朝樹の時間だった。
司書は定時で帰宅、残った仕事もあるというのにだ。朝樹はキーボードを打ちながらため息をついた。
ディスプレイ角の時刻表示はは十七時をまわり、静かな室内は冷え切っていた。
不意に身震いし、腰掛けでもほしいとつぶやいていると勧告書の作成は終わる。
新学期が始まって数日、返却期限を過ぎた人への『早よ返し来い!』的な紙を作るのもゆいいつ真面目な朝樹の仕事だった。
そんなとき、受付前をおさげ髪が通り過ぎた。目で追ってみれば女生徒だった。上履きの色を見て三年だと思い至り、ものめずらしく感じつつも仕事に戻った。
「二年三組……三年六組……。あとは明日配ればいいか」
印刷機の前で枚数をかぞえてバックに入れる。別室の、司書が使っているデスクのメモ用紙に伝言を書く。
「あ、そうだ。ここの掃除忘れてた」
別室から出て行こうとした矢先、はっと思い出して急ぎ足にホウキをとりに奥の部屋に行く。
図書室には生徒が使う一般室と司書が使う別室、加えて小さな奥部屋が用意されてあった。奥部屋は机一つにいす二つ、朝樹は思うに密談のための部屋ではないかと考えている。今では埃かぶってだれも使っておらず、ときたま朝樹が掃除道具を取りに来るくらいだった。
「さて、と……」
黙々とごみをはわいて掃除を終えると窓外は真っ暗だった。下校までは余裕があり、適当に時間を潰つぶそうと本棚にむかう。小話くらい読めそうな時間があるので外国の短編小説を手にとって開いた。
翻訳された小説は独特のリズムや言い回しがあり、いつも単調な論文ばかり読んでいるから息抜きにはちょうどよかった。そうして一話読み終えたところで不意になにかを聞き取った。耳を澄ませてみれば、ぴちゅくちゅと水音のようだ。
眉をひそめた朝樹は本をもどして音のもとを探っていく。
奥の方だ。
足音を消していくと、その光景を目にして息をとめた。
「はあ、あっ」
ふんわりしたおさげがゆれ、口元を抑えていても漏れだす甘い声がテーブルに落とされる。聞いたこともない女子の気が緩みきった声と腰だけを動かす前後動作に静かな衝撃を受けた。
なにやってるのとか安易に声をかけられる雰囲気ではない。のぞいてはいけない女子の私生活を垣間見てしまったような、そんな得もいえぬ空気に朝樹の足は自然と後ずさった。
中学の時から懇意にしている女子の友達から聞き及んではいるのだ、その行為について。だから一旦冷静になれた。まあなんで朝樹のまえで猥談できたのか女子どもに問いただしたいという思いもあったが、すべては後の祭りだった。
本棚に背を預けて深呼吸してぐっと拳を握る。
よし、ここはガツンと言ってやらなければ!
意を決して飛び出す。
「あなた『ひゃい!』なにやってるんですか!」
「え、とあのその……」
あたふたし出した少女が言葉を発せないでいると、大きくため息をついた朝樹がまあまあとなだめる。その流れでいつのまにかテーブル越しに対面する形になった。
少女と呼ぶには先輩なので失礼だが、やはりちぢこまっているさまは少女だった。
朝樹は肘をつき、手を組んでいる。圧迫感を与えかねない仕草ということにすら気を配れないほど彼も動揺していた。
「あえて明確には言いません。だから事情を聞かせてください」
無人の図書室での秘め事。シチュエーションとしてはありきたりであるが、朝樹はその手の知識に疎く、少女の行いを異常なものとして捉えた。結果には原因が伴うと信じて疑わない朝樹にとって、リスクある行為には相応の理由があると踏んだ。
それは間違いではなかったのかもしれない。
「……勉強がやになって」
なるほど、朝樹はうなずいた。
口数は少ないが言葉を選んでいる。慎重に思えるその態度は必ずしも羞恥からくるものではないと考えた。それだけなら頻繁にここを訪れているはずだから、司書が知らないほうがおかしい。放課後も仕事する朝樹にそれを告げなかったのなら、判断をあやまっている。
少女は居心地悪そうに目を泳がせるが、朝樹の冷たい眼光に射抜かれて頬が紅潮していた。
「わたしは図書員としてあなたの行為を止めました。付け加えるならば、わたしはジェンダーレスなのではっきりとあなたを異性としては認識していません」
「へ……?」
「言いふらす理由もなければ、脅しにかかるだけの魅力もないってことです!」
大きなため息をつく。
少女は目を丸くしていたが、朝樹がウエットティッシュを投げ渡すと「これは……」と困惑した顔で朝樹を見やる。
「使ったとこは拭いてといてください。三十分後に消灯にきますから、それまでに」
言うやいなや朝樹は席を立ち、その場を後にした。
残された少女は朝樹の後ろ姿を見送ってつぶやいた。
「……変な子」
盛りのついた男子ならしゃぶりついてくると身構えていただけに、拍子抜けしてしまったのだった。
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