第2話 蛍の海
彼女の死から六年三か月と二十一日。
常冬の北方諸国には季節の変遷が無い。そのせいかどの村へ行っても、いまいち盛り上がりの無い寂れた雰囲気を感じる。そして寒い。
固い地面、石造りの地面を歩くと人影がぼんやりと見える。
「おーい!そこの行商さーん!」
振り返ると、老婆が寒そうな顔一つせずに僕を呼んでいた。
「私はフィリンツ。宝石商です。少々の雑貨も取り扱っております。商品は南方から東方、荒れた海の先の西方が原産のものもございます。無論、北方諸国の商品も取り扱っております。どうぞ心ゆくまでご覧ください。」
目の前の客の老婆は商品棚の商品をひとつづつみていく。数刻して、老婆はこれをくれ、と指をさした。
「この鏡翠花のブローチと、もしも持っているなら鏡翠花の種をくれんかの。…斯様に村は錆びれとるがの、昔は賑やかじゃった。極星祭の時期になると鏡翠花がよう咲いておっての。翡翠のような光が淡く雪の野原に咲いて、それはもう綺麗じゃった。——あと半年で極星祭の時期じゃからの。今から植えれば祭の時ににゃ満開になるかと思っての。」
老婆の瞳は、憧憬に満ちている。左手に嵌められた指輪は少し傷が入っていて、それが老婆にとって大切な人との繋がりだったのだろうと思う。
鏡翠花。極星祭。
僕にはもう聞くことが無いと思っていた。古い祭りだと彼女が言っていたから。でも、古いから忘れられてしまう。それがかわいそう。彼女はそう言っていた。
それは北方諸国の冬、それも極星祭という冬至の時期にある祭りの夜だった。
その時はものすごく頭が重かった。体もなにか鎖につながれたように動きにくかったのを覚えている。荒くなる白い息を吐きながら、走っていたことも覚えている。
「——ねぇ、フィリンツ!これすごいよ!海みたい!きれい!」
ばかみたいにはしゃぐ声。どさどさと雪をかき分けて走っていく。どんどん遠くなっていくその後ろを、僕は大人ぶって、子供みたいだなんて言いながら追いかけていた。
「この花、もしかしてこれ、きょうすいか!村長さんが言ってた花だ!おまつりの時期になると咲く花だよねー―確か、きょくせーさい?だっけ。」
やっと追いついたかと思えば、彼女は子供みたいに花に顔を近づける。花弁の一枚一枚が鏡のように、宝石のようになっており、それが翡翠色の光を互いに反射している。
「少し落ち着けって…まったく。…この花は鏡翠花。村長は極星祭の時期になるとこの花が咲くって言ってたな。確かに綺麗だ。」
僕は目を細めた。極夜の候、吹きすさぶ風は冷たく、満開の鏡翠花の光は昼の野のように明るい。
その時は思わなかった。彼女がこの花と自らを重ねていることに。少しも、そんな表情を見せなかった。彼女に寿命が迫っていることなんて。
「ね、フィリンツ。」
しゃがみ込んだ彼女は、双眸に星屑を散りばめたように光を反射している。星空の、無数にある星と鏡翠花の花弁の一枚一枚の光が、彼女の双眸をきらきらと照らしている。
彼女の瞳は、その時は美しいと思えた。光が、彼女の奥に隠れている闇を、照らしていたから。
「この景色――ほたるのうみ、みたいじゃない?」
彼女が、ちいさく、そう答えた。
力なく、そう答えた。
「……え?」
その時の僕は、そのちいさな声が、余りにも彼女らしくなかったので、一瞬耳を疑った。小鳥のさえずりやら、冬野の精霊の幻聴だろうと、そう勘違いするほどに。
「蛍の海みたい。ここみーんな、鏡翠花で埋め尽くされてる。。来た甲斐があったよ。村長さんには寒いから行くな!とかなんとかいってたけど、ね。」
彼女は、こういう時がよくある。なにかを問いかけるような。でも、誰かに問うてるというわけでもない。ただただ、孤独な響きで投げかけるような。こういう時、僕はつい気まずくて黙り込んでしまう。彼女が何かに浸っている様子は、僕にとっては言葉を失うものだった。その瞳と表情の微妙な変化に、繊細な何かを感じたから。今思えば、それが彼女なりの弱さを見せている時だったと分かる。生前、彼女は僕から見れば僕よりもずっと強い人のように思えて、その存在が大きすぎたから。
鏡翠花に、僕よりも二回り小さな手でそっと、淡く、ふれる。煌めきがさらに増し、彼女の瞳は潤むように見えた。
「蛍の海か、いいな。それ。」
「え?」
「その例え、好きだな。なんか、リセらしくない。でも、なんかちょっとリセっぽい感じがするから」
そんな曖昧な表現でしか、彼女を言い表せなかった。彼女の儚さをどうやって形容すれば、その思いが伝わるのかわからなかった。
「むふー。いいでしょ。私らしくないかんじ。私だって、ちょっとはフィリンツみたいに言い感じないいまわし、できるもん」
照れるわけではなく、えっへんといった表情で彼女の双眸が僕を見つめている。心底安心した表情で、翡翠の色をした瞳なのに炎のような温かさで。
「——ありがとね。フィリンツ。風邪ひいてるのに無理やりついてきてもらって。」
そうだった。あの時は風邪をひいていた。だからものすごく頭が重かった。体も、だから鎖につながれたように重かった。
「急にかしこまっちゃって。俺、無理してないし。俺だって、美しい景色の一つや二つぐらい、この瞳に収めておきたいと思ってるよ。…思い出になるし、それに幻想的な景色は僕の数少ない楽しみの一つだし。」
その時の僕は彼女のありがとう、という言葉に違和感を感じた。なにか、僕と彼女の旅には、明確な違いがあるように思えて、だから他人のように感じてしまっていた。
「ろまんちすと、なんだね。意外と。」
「そういうんじゃない。ただ――」
「ただ?」
彼女が頭に疑問符を浮かべたような表情をこちらに向ける。その表情を遠ざける様に空を見つめた。彼女と、心の距離を開けるように。突き放すように。
「ただ――自分にとって、僕はここで生きた。そう自分に言い聞かせたかったんだ。だから、ロマンチストなんかじゃない。この風景を見て一言、なにか洒落た言葉は並べられないよ。僕は、そんな風になれない。」
彼女ははっとした表情をしていたと思う。きっと、あの時の彼女にとってその時の僕の言葉は意図せず彼女に孤独と残された時間を感じさせてしまった。
「そう。……」
そのあと、少し沈黙が続いた。
鏡翠花で煌めく雪野は、細かな星々のようにきらめく。沈黙する中、聞こえないはずなのに、きらきら、と煌めきの音が聴こえる気がした。
僕は、そんな沈黙を心地よいものだと感じ、感傷的な感情に浸った。——僕が、あとどれだけの時を過ごして、どんな旅をしていくのか。その中での一期一会に、どんな感謝と別れがあるのか。僕がどう人々の記憶に残るのか。離別の悲しみと、無事とはいかない再会。そんな様々な記憶を巡り、感傷的になった。
「ね、願い事、いっこしてみよ。」
沈黙を破り、彼女は僕の隣、その近くに座った。お互いの肩が当たるほどの距離は、僕にとって少し奇妙な感覚だった。無意識に遠ざけていた彼女との距離が縮まったというのに、それはなぜか居心地が良いものだった。
「急にどうしたの。いいけどさ。」
白い息が空を漂う。冷たく、凍てついたそれが。
「流れ星と蛍の海。綺麗じゃない?すっごい。」
夜空を眺める。冬の夜空には女神の三涙星が並ぶ。神話では、女神の三つの涙が星となったとされている。美しい星々だ。
「うん。」
星々が夜空を描く線のように流れだ。清水のように、静かに。
流れ星は三涙星に負けないほどの光と壮大さを僕らに訴えているようだった。気づけば、幾つもの星々が、流れては消え、流れては消えていった。
流れ星という一瞬の出来事が、時を忘れるほど繰り返された。
感嘆の声を僕は思わず漏らし、彼女はその壮大さに圧倒されながら目を輝かせる。その表情は、まるで大きな虫を捕まえた少年のようだった。
「これだったら、願い事、叶うかな。」
両手の指を胸の前で組みながら、彼女は願い事をしていた。目を瞑り、何を彼女は願っていたのだろうか。繊細な瞳が閉じて、祈る姿は星々の静謐そのものだった。
僕も、その時にとある願い事をした。本当に些細な。
「叶うも何も、何個でも、何でも願えばいいんじゃないか。こんなにたくさん、星があるんだ。わがままなぐらいが、ちょうど良いでしょ。」
彼女は虚を突かれたような表情、あるいは物陰で見つかった猫のような表情をした。そして、彼女は腹の底から笑った。
「あはは!フィリンツ!それは、わがまますぎるよっははは!」
雪の積もった地面をぱんぱんと叩いて粉雪が舞う。硝子のように光を反射し、それは例えば宝石の粒子のように煌いた。
「なんでそんな笑うんだよ。いいじゃないか。わがままで。」
何か変なことを言ってしまったと思い、僕は少し赤くなったのだろう。まだその時の恥ずかしかった感情が思い出される。少し焦ってしまい、頭が少し真っ白になるあの感覚。
ひとしきり笑ったリセは笑涙を拭き取りながらこう言った。
「いやーフィリンツからそんなわがままな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。びっくりしたの。私。」
彼女はいまだに笑い続けている。
段々と自分らしくないことを言ったと思い、恥ずかしくなってきた。
「笑わないでよ。真面目に、そう思ったんだ。」
そんな子供みたいに恥ずかしがる僕は、いつもとは違って、楽しいと感じていた。いつもは退屈だと思っている彼女との旅だったが、その時から、彼女との旅は次第に僕にとって楽しくて仕方がないものになっていた。
彼女もそうだったのならいいな、と今になって思う。
「分かってる。ありがと。なんか安心した。」
彼女は僕にそう言うと、立ち上がって雪を払った。鏡翠花の光は弱まることなく、寧ろこの極星祭を祝うかのような光に満ちていた。
宿屋に帰るなり、風邪が悪化した。
やはり、いくら少年の若さがあるからといって、冬の、それも夜更けに外へと赴き体調を崩さないわけがない。
「そういえば、フィリンツは願い事、したのー?」
寝床の上で転がりながら足をばたつかせて暇そうにしているリセが問う。
「うん。した。」
聞くや否や、彼女は寝床から飛び上がり、こちらへ近づいてきた。
「なになに!なに頼んだの!」
興味津々の表情だ。こう言う時、大抵彼女はしつこく聞いてくる。
「なーんでもないって。くだらない願い事だ。それに、願い事は秘密にしておかないと。僕だけが願ったことを知ってる。その方が面白いじゃん。」
読んでいる本の上から、右から、左から。はたまた下からひょいと出てくる彼女を避ける。
「えーいいじゃん!」
その次には、おねがいおねがい~などと言われる。彼女のいつもの出方だ。
「まったく、いいでしょ。秘密で。それに――」
「それに?」
猫のような双眸をした彼女がひょい、と近づく。
そんな彼女の瞳は、星空を映すことがなくても輝いていた。
疑問は――謎は、そのまま変わらないから美しい。そのまま、隠され続けるから、楽しいし美しいと思う。
少し微笑む。暖炉の焚火はまだぱちぱちと音をたてている。
「——いや、何でもない。忘れて。」
「えー!なんで!な、なんでー!」
再び子供のように暴れ出す彼女を尻目に、紅茶を一口と、本の一頁を捲った。
願い事は、君が笑いますように。
それが、彼女との出会い初めのころの思い出だ。
「——鏡翠花の種は、おまけしときます。」
彼女との思い出の中で、僕は気づいた。
この旅は、一人だが、彼女の思いを継いでいく旅だと。
彼女ならきっと、お人好しだから余計な品物をお客に渡す。きっとそうだ。リセという少女は僕と出会った時もそうであったように、お人好しだ。それも筋金入りの。
「まあ。ありがとうねぇ。これで、今年の極星祭もにぎやかになるじゃろう。」
老婆は大切そうに袋を仕舞うと、ありがとうねぇ。と一言残し、後ろで腕を組み踵を返した。
「まいど、ありがとうございます!」
少し、彼女みたいな大きな声で送る。
彼女との記憶をなぞるように僕の歩みは進んでゆくのだろう。その歩みの中で何かを見つけられたのなら、僕にとってそれが旅路の意味なのだろう。
散ってしまった花びらを、そっとなでるように、少しずつだけど拾い集めていこう。
星の王子と天の姫 編虚 桜 @amuroSakura
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