星の王子と天の姫
編虚 桜
第1話 宝石商フィリンツ
もう一度君に巡り逢えるのなら、僕は。
何を思い、何を言うのだろう。
目覚まし時計の音が冬の朝を知らせる。からくり仕掛けのそれは存外壊れることなく、枕元の机で不格好な音を奏でていた。
「——今日も寒いな。」
時計の鈴を止める。時計は時刻を朝の五時と三十二秒を冷たく刻んでいる。
常冬の朝焼けにはまだ時間があるが、人に物を売る仕事はそんな悠長にしているもない。悴む手をさすることもなく台所へ立ち、紅茶を淹れ、少しの食糧と一緒に流し込んだらさっさと出発する。そんな毎日を送る。
棚の奥には、これでもかと並べられた紅茶の茶葉が並んでいる。これはこの地方じゃなかなか出回らない珍品で恐らく手に入ることはもう無い。しかし、だからといって無駄にとっておく必要もないから、朝と夜に何杯か飲むようにしている。
こうして静かな朝を過ごしていると、ふと思うことがある。人間が勿体ない、大切だ、などといって使われなかったものなど、時間の流れの中で幾つもあると。そして大抵の場合それらはそのまま捨てられ、あるいは失われて消えていくというものだ。その価値を何かありふれた意味の言葉で形容したが故に、その価値を真に見いだせない。
紅茶の茶葉は焚火で沸騰した湯をかぶり、紅葉の赤黄色をにじませてゆく。湯けむりが立つ中ティーストレーナーで濾した紅茶を注ぐ。芳醇な香りと、少し苦みのあるような香り。
この香りを嗅覚で感じ、そして視覚で感じる。
地図を広げ、目的地への経路を調べる。一口、また一口と芳醇なその香りと茶葉の奥行を感じると、朝のあの好きになれない悪寒が吹っ飛ぶ。微妙に眠いあの感覚もすぐに消えてゆく。
「今日は……っと」
天至の門を探して二年。この生活も、それでも二年続いていることをふと思う。僕にとって大切だった人を、探すための二年。いつ終わるかもわからない旅路。
天至の門とは、この世界でただ一回、死者に会うことができる門である。言い換えれば、死者の国への門でもある。過去の人々は今日を生きる人間と同じく、生きること、そして死ぬことから逃れることはできなかった。過去や後悔という空虚なものに縋りついた結果、その人々の願いは形となり、天至の門――死者の国、そんなおとぎ話のような世界と繋がる門――となった。
そして、その門を一歩でも過ぎれば、僕の命は無くなる。
五年前、僕は過ちを犯した。やるべきことをいくらでも先送りにして、やり直しをいつでもできると思っていたから。だから、自らの愚を知った時にはもう何もかもが遅かった。彼女が死に、この世界から光が消えた。全ての希望を彼女に見出していた僕はただの空虚な人間だった。
リセ。彼女と旅で出会ってから僕は、何かが変わった。どんな日だって彼女は笑っていた。氷雪の谷を越える時も天空までそびえたつ岩壁を上るときも、危うく獣の餌食になるときも。臆病な僕の手をとって、どこまでも連れて行ってくれた強気でどこかふざけた性分の彼女は、どこにもいない。
遺ったのは、手首に巻かれていたブレスレットの宝石の一粒だけだ。彼女の故郷の宝石――久遠石――が装飾されたそのブレスレットは、彼女の母親から貰ったもので、これを死んだ母に届けたいのだと、そう言っていた。彼女にとって、この宝石を死者の国へと届けることが彼女の旅路の目的なのだとそう言っていた。母親に、せめてもの親孝行をしたいとそう言っていた。
彼女は、生前よく笑っていた。よく人前であんなに笑えるものだと僕はばかばかしく思っていた。
「これを僕が持ってくとは思ってなかったよ。リセ。」
そんな彼女がもういないから、僕は彼女を探し、彼女にこれを渡さないといけない。言えなかったことも、彼女に伝えなきゃいけない。
今後悔している僕は、弱い僕の尻ぬぐいだ。
地図に今日行く目的地への印と道を鉛筆で書き込む。
焚火の音だけが、間借りの一軒家に響き渡る。質素な壁や椅子、机。少し軋むぐらいが、今の僕にはちょうどいい。
「よし。」
少し姿勢を崩しながらも、何とか立ち上がる。ドアノブをぎしぎしと軋ませながら扉を開けると、何ら変わらないいつもの景色が広がっていた。夜の間に降り積もった雪と、木々にぶら下がった大きな氷柱。常冬の国ではこの気候がほぼ一年中続くらしいが僕にとっては退屈そのものだ。中央山岳地帯や他の地域では四季折々の風景の変化とその気候が僕たちの旅を彩っていた。彼女がいない今、もはや旅路に彩など必要ないのかもしれないが。
間借りの家は数十年前の火事で倒壊した家を僕が直した。直すのは大変で仕方がなかったが、火事で倒壊した家にあまり値がつかないというのも確かだ。そのせいか、この大きさの家では珍しく、金貨一枚で購入することができた。むしろ土地の相続者も願い下げの土地だったらしい。
入り口の階段を下り振り返ると、不格好ないつもの家が雪をかぶっている。昨日の夜は吹雪いていたから、恐らく積もっているだろうなと思っていたが、予想通りだった。僕の膝から少し上まで積もる程度のその雪は重くのしかかっている。
「積もってるな…」
屋根の雪をひと通り下すと、すこし疲れた腰をぽんぽんとたたく。
ふー、と伸びをすると、家の玄関に置いておいた荷物を持つ。荷物の中には、僕が得意としている宝飾品の品々が所狭しと並べてしまってある。その一つ一つが触れ合って、傷つかないように丁寧に袋に包みながら。
僕の仕事はつまり、宝石商、とでも言おうか。宝石を始めとした原石から、加工品、つまり今荷物として運ぶ宝飾品を僕は各地で売っている。昔の自分だったら、そんな高級品を扱う仕事に就くなんて思ってもいなかったが。どこかのおてんばなお人好しが僕は細かい作業が向いているとか言うから、こうしてこの仕事を生業としているわけだ。
「行くか。」
浄化の魔法を唱える。これは、僕がまじないとして行っている日課だ。創生の時代、三涙星の女神の涙の輝きを、原初の魔法使いはその目にとどめた。――美しきその涙、灯の永劫――原初の魔法使いは、人という数多の存在の中で初めて、浄化の力を持つ光を魔法という形で創った。その魔法は、今ではこうして旅人の行く末を見守る魔法だと信じられている。
さく、さくと雪を踏み分ける音と、目覚めの囀りが、森をこだまする。
淡く青白い氷と雪が僕らを出迎えると、万年雪の森の奥から、朝焼けが顔を出していた。
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