第10話 海野正平の過ち③

 そして、昨日の夜のこと。明日の天候が崩れる可能性が予想された時、彼とはじめて直接的な会話を行ったのだった。美春はそのかがやく活力のままに口にしたのだ。


「このまま天候の様子見をしては、より最悪な状況で進むことになるだろう」


 この話はサブガイドの僕に向かって言われた。あの日、彼が自分の夢を僕にだけ語ってくれたように。そして、より決定権のあるメインガイドに言わなかったのは、この話が棄却されることを恐れていたと思うことなど僕にはできなかった。あの日、僕をおいて去っていった彼がいう言葉だと考えると、どうしても聞き逃せない物だったからだ。

 高級そうな登山用のブランドに染め上げて、若々しい彼の力強い言葉。僕は就職に失敗し、両親の顔色をうかがって不相応な職場にいる僕に向けられた言葉なのだと思った。


 この話をメインガイドに伝えると賛否両論となった。小さくボロボロな第一避難所では、この話題もツアー参加者にも当然聞こえてしまう。それにより僕と美春、そして一人のメインガイドと数人の参加者で先発組が組まれた。そして当日。いまだ雨が吹きすさむ参道は、なるほどたしかに予想されるほど悪路ではなかった。雨によって視界は悪く地面はぬるりと滑るが、数時間たった先を考えると、マシなものだろうと誰もが口にした。しかし、第二避難所を目指し向かった先にあったのは勢いよく氾濫した山頂下にあるT沼だった。幅は一メートルほどで、足首までしか水位はなかった。けれど雨風と足場の悪さで水のあふれかえる参道を突き進むには厳しい物があった。精魂疲れ果てていた先発組をもり立てていたのは、やはり弟の美春だった。僕はツアーガイドとしての役割をほぼ放棄している状況だった。やはり様子をみるべきだったと恐れをなしていた。


 そんな日和った僕の心を読み取ったのだろう。美春は静かに僕を見つめていることに気づく。僕はみえない何かに心を動かされることに気づいた。その視線にたいして、いまの僕がやるべきことを考えなければならないと必死になった。

「荷物を置いていきましょう。足場は依然として悪いのですから、できるかぎり身体の負担を減らして第二拠点へと向かうのです」

 この状況を打破するためには荷物を捨てるべきだと僕は思った。いまだ体力が残っていた僕と美春は、荷物を捨てて身軽になった先発組を率先して誘導する。風によって転ぶ姿も見られたが、可能な限り彼らを無事に第二拠点へと向かわせるよう努力をした。


 僕らは最善の行動を常に意識して行っていたと思う。けれどこれはもっとも間違っていたことで、僕のような人間が行った選択による落ち度だと世間一般では広まっていくだろう。熟練度の低さと、ブームに乗ったおきるべくして起きた事故なのだと。じきに先発組が一組一組と列から遅れている様をみて、僕は後悔がよぎった。けれども十年ぶりにやっと並んで道を突き進む今を、僕は逃したくはなかった。たとえ意識が朦朧としはっきりとルートを把握できていなくても、弟の美春と一緒に同じ道を進んでいる現実に僕は満足していた。


 けれどそのせいで彼は、兄の僕より先に瀕死の状況となって、今は僕の隣で遺体となって存在していた。


 あらためて僕は思った。静まりかえるテント内で、いまのいままで見張るの死に際の記憶を失ってしまったことが良かった。役に立たないひ弱な僕を率先して引率し動いてくれる彼を、最後の最後まで見届けられたことがとても喜ばしかった。

 あの日、弱り切った心のまま美春が突き進んでいった背中の行く末を、いまこうやって一緒のテント内で見届けられたことに僕は満足している。なんてやるせない感情だろうと思う。けれど、このまま僕のわがままで彼を殺してしまった人間として生きるには、とてもつらすぎた。なにより彼の言葉を信じ切っていたならば、僕はこの今が至るべき道だったのだと思った。心地よくも薄暗い感情をたたえたまま死んだ方が良いのだと、おとといの自分ならば絶対に思わない決断を胸に、すでに感覚のなくなった手でゆっくりとアウターを脱ぎ捨てた。そして袖をそっと自分の首に巻き付ける。すぼまった袖をぎゅっと握りしめて、テント天井の中央へと結びつけた。

 膝から力を抜く。苦痛はなかった。まどろむように意識は溶け落ちていく。視界はもう一度、起きたときのように暗闇へと遡っていき、最後に僕は美春の遺体に向かって口を開いた。


「どうでもいいけど」

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