第8話 海野正平の過ち①

「にいちゃん。絶対オレ、都会にでてミュージシャンになるんだ」


 僕の弟の美春は兄にくらべて活発な人間だった。友達も多いし、中学生の弟にはもうすでに彼女だっていた。

 実家は森と川しかない田舎町で、僕ら兄弟は退屈で仕方なかった。僕と美春は正反対な性格で、好みも違うし、遊ぶ友達のイメージも全く違った。けれどいつだって僕らは、この退屈な田舎を心底恨んでいた。濁った雰囲気は澄み切ったなにもない田舎ではよく見られる物だ。そんな共通認識はいつまでも同じだったと思う。心底馬鹿にして、こんな町に居を構えた両親を馬鹿にして、閉じられた世界でかがやかしい未来を目指さない同級生たちや町の人たちを馬鹿にしていた。

 そうしなければいけないという気持ちが止まらなかった。だからといって、僕はなんの努力もしていなかった。両親に言われるままに、同級生と流れるままに中学と高校に進んだ。けれど僕とは頭の出来がちがった弟は、口だけじゃなくきちんと未来を見据えて慎重に事を進めていた。

 彼は高校を卒業を機に僕たちの実家を出て、都会へ飛び込むつもりだったのだ。そのための資金もバイトでせっせと貯金しており、誰にも相談せずに己の夢である「ミュージシャンになる」ために心から誠実だった。これだけはどんな人間相手でも譲れない大切な夢だったのだ。普段はちゃらんぽらんな雰囲気が目立つ彼だが、そんなまじめな一面を知っている唯一の人間がきっと僕だった、と言っても過言じゃないだろう。彼の一途な夢を僕は心から応援していた。叶ってほしいと心から願っている。きっとかなうのだろうと、僕は確信していた。

 一方僕は両親の言われるがままに地元の大学へ通うことが決まっていた。僕が幼い頃から嫌悪していたルートを辿っていることに、半ば気づいていたのだが止められなかった。悩み考えることが大変だったからだ。

 決まったルートを辿ることがいかに簡単なのか、弟の必死さを見て学んでいたのかもしれない。いやそれさえもいいわけに過ぎないのだろう。僕は頭を使うことを諦めたのだ。きっかけさえあれば、きっと僕も違った未来を辿っていたのかもしれない。そう自分を慰めることでしか、輝かしい弟の背中を見られる勇気はわいてこなかった。こんな田舎町で一生を過ごす気持ち悪さは、この気持ちは、僕だって一緒なのだと共有したかった。けれど弟の美春はすでにそんな地点には立っていなかった。

 彼は僕をおいていってしまう。それだけは確かに悲しいことで、心からつまらないことだった。だれかにこんな惨めな愚痴をこぼしてしまいたい感情に日々、あふれてしまっていた。黙って彼の背中を押してあげれば良かったのに。彼の夢を唯一知っている兄として暖かく未来へ送り出してしまえば良かったのに。ちっぽけで惨めな感情なんて消し去ってしまえば良かったのに。今、こんなにも後悔しても、僕はいつだって考えの浅く馬鹿な人間だったことには今の僕だって変わりなかった。遠い昔にあざ笑っていた田舎に住む人たちのように、人の心と心の距離を履き違えたできごとで彼を傷つけてしまうだろう。


「兄貴。オレはアンタにもう今後一生なにも言わないから」


 ある日、実家の玄関先で額から血を流したまま立っていた美春から、そう端的に告げられた。いままで聞いたことのない弟の声だった。湧き上がる激情を押し殺しているのだろうか、それとも目の前にいる人間を心から失望したことによるものなのか。美春から冷め切った瞳を向けられた僕は返事一つ返すことはできなかった。たとえ口を開いても、ろくな言葉など出てこなかったに違いない。

 どうやら僕の愚痴が回り回って両親の耳に入ってしまったようだった。当時、付き合っていた彼女に弟の夢を語ってしまったのだ。美春は高校卒業後、地元を離れひとり都会へと行ってしまうとこぼしてしまった。美春は、年代の違う僕たちの世代でも名前が知れ渡っているほど有名なやつだった。社交性の塊で、騒がしく元気な集団がいたらその中央には弟がいた、なんて記憶が幾らだって僕にはあった。だから頑なに語りがたらない弟の進路希望という話題は、スキャンダルとして町中を勢いよく駆け巡ったのだろう。そして、我が実家にその話が伝わったのだ。

 玄関奥から重苦しい足音と、聞き苦しい怒声が聞こえた。玄関先に立つ弟の向こう側から、なにかが勢いよく飛んでくるのを見た。僕らの兄弟の父は怒るとああいった滑舌の悪い怒鳴り声をあげて、よくそこら辺にある物を投げる癖があった。そして今日も、父親が癇癪のままに何かをこちらにむかって投げつけたらしい。地面にぶつかって甲高い破壊音が鳴り響いた。僕はその音におびえたように意識を向けると、視線の先には、地面にしたたかと打ち付けられ壊れたエレキギターが転がっていた。みんなが普段使いしている靴とサンダルの上に、ギターの破片がばらばらと飛び散っていた。あれは美春がもっとも大切にしていた、エレキギターだ。バイトで頑張って貯めたお金を、思い切って使って購入したあの日を僕はいまだに覚えている。弟と一緒に楽器店へ向かい、新品のエレキギターを緊張した面持ちで受け取った弟を固唾をのんで見届けたのは僕だけだった。帰り道、ぎりぎり後悔してそうな弟を励ましたのも兄であった僕だった。そんなもう古いけれどきちんと整備されてぴかぴかだったギターは見るも無惨な姿になっていた。

 息をのんで立ちすくむ僕の目の前で、弟の美春は一瞬震えた。そして、目をつぶった。振り返ることなく小さく息を吐いた。それはきっと、なにか重要なものを今吐き捨てたのだろうと思ったが、僕は弟の感情を深く読み取ることができなかった。しでかしてしまったのだという恐怖しか、僕の弱い心にわいて出てこなかった。なにか彼にいうべきなのだろうと思った。しかしなにも頭に出てこない。ただひたすらに今の状況が僕の感情と関係なく時が過ぎ去ってほしいと願ってばかりだった。

 美春は目を開いて、まっすぐ遠くの方へ視線を向けた。その目にはすでにこの状況は意識してなどいなかった。進むべき未来への道を見定めたように、向かってくる怒声と足音など耳に入らずに、しっかりと一歩足を踏み出していく。


「美春」


 僕の声に一回だけこちらに弟は視線を向けた。それはまるで炉端に転がる石をみるような目つきで、僕の背筋が凍った。僕の浅はかな行動で起きたのだと、きっとばれているに違いなかった。口を開いても、名前を呼ぶだけ以外はなにも出てこない僕を置き去りにして、今度は一度も立ち止まることなく、行き先は決まっていると言わんばかりに力強い歩みで去っていった。僕は彼の背中が消えるまで、ずっと見ていることしかできなかった。

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