第7話 喫茶店⑤
「この沼の氾濫で立ち往生したのは後発組なんです。T沼地帯は携帯の電波が入る最終地点でしてね、沼から発生した川の前でビバークを開始。携帯で救援要請を出していました」
その後、後発組の何人かはこの川を渡りきった。残ったグループもいたが、彼らもテント内で軒並み低体温症で事故死。川を渡った彼らも第二避難所にたどり着くことなく病状が悪化して死亡した。
残るは2時間早く出発した先発組の当時の状況だ。
「先発組は携帯で救難信号をだしていません。ここからなにひとつとして情報が残っていないんです。みんな死んでしまったから、当時の情報が残っていない。どう進み、どうやって彼らが会話をしてなにをしたか。唯一、彼らは歩を早めるために持っていた荷物を登山道中に放棄していた。それをまとめた書類があります。あと、ひとまず第二避難所まで目指したのはわかっている」
第二避難所までを目指した天野と海野。つまり先発組は、2時間前のいまだ川の氾濫が緩やかであったT沼地点を通過した。
そして疲労困憊のまま第二避難所に到着する。
「私たちの話の軸である海野と天野は、たしかに第二避難所を出発しています。そこだけはわかっている」
書類を取り出し、点々とマークがついた部分を確認。これは先発組の彼らが荷物を放棄した地点だという。ほとんどの赤いマークはT沼と第二拠点の登山道についていた。そして第二拠点から続く赤いマークは一つ。
「これが彼らの荷物だった。つまり先発組で唯一彼ら二人だけが第二避難所から出発したという根拠だということか」
「ええ。これが彼らの死因に他人が関係していない根拠です」
だってみんな道中で死んでいるんですから、と柊はなんとなしに肩をすくめた。
「この話は殺人だったと君は言ったね」
僕は静かに平坦に語る。まるでこの話題をあまりしたくないと言わんばかりだった。まるで他人のお話だ。ここまでは自己を介入するほどのことではない。夏山で起こったとは思えない悲惨な事件だったろう、ガイドの情報と経験不足による悲惨な事故だったのだろう。やるせない話だった。けれど話題を振っている柊だって飄々としたものだ。だがそれでも、僕はこの話題は触れてはいけないものだと訴えていた。
「ええ。この事件はクローズドサークルのフーダニット『犯人は誰か』であって、しかしながらハウダニット『どのようにして殺したか』でもあるのです」
私は答えを知っていますと言わんばかりの断言具合だ。きっと聞かなければならない情報がいくつか点在しているのだろう。ヒントは幾つかあったのだろうと思うし、配られた書類に記載されたものでも推測ができるのかもしれない。
「せんぱいさん?」
彼女の戸惑った声が聞こえた。彼女の目は僕の頬へと注がれており、気づくと僕は涙を流しているようだった。こぼれ落ちた涙がテーブルの上へと落ちる。すると卓上に財布が落ちていることに僕は気づく。さきほど落として宙に溶けた財布だった。
僕は自然とそれを手に取って中身を開き、大量のレシートなどを取り出して納められていた運転免許証をつまみ上げた。免許証に記載された見覚えのある顔つき。それはきっと僕にとって忘れられない人だった。彼の顔を見ていると懐かしさと後悔が胸のうちを押し寄せてくるのが分かる。
「それにしても君は、本当に人でなしだ」
僕は心の満ち引きを自覚しながら、言葉を紡ぐ。
「怒ってますか?」
「いいや、褒めてるんだ。これがクローズドサークルが確定された物だというのなら、君が綴った小説部分は君の想像で書かれた物なのだろう? 君はどういった気分でこれを書いたのか気になってしまってね」
「とくには。これは私の妄想なのですから」
彼女は笑みも浮かべず端的に答えた。なるほど、彼女らしいもっとっもな返答だった。僕の知っている彼女と少しも変わりない。兄の海野正平がたどる自殺への生き様を描く執念に僕はなんとも言えない気分となる。この場合は死に様だろうか。しかし彼女がここまで人の死に対して冷徹になれるのは、はたして、いかなる人生を歩めば完成されるのだろう。
「人はいつだって死んじゃいますよ、せんぱいさん。誰がどうの後で綴ろうとも予想しようとも、それはある程度の答えでしかありません。せんぱいさんが感化されやすいことを知っています。だから私の発言、気にする必要などないです」
僕の唐突な発言に、柊は特に責めはしなかった。この涙に対して言及した物だろうと僕は分かっていた。たしかに僕は人に感化されやすくて流れやすい人間だ。思ってもないことを感じて、意味も無いことを信じて、したくもないことで傷つく。やるせない人間だ。
僕は隣の席へと顔を向ける。そこには依然として灰色の繭につつまれた真っ白な人間がいた。未だ彼の表情はうかがえない。
「けれど、僕は彼のことを思い出さないといけない。彼との遠い思い出を振り返らなければいけないと思う」
僕は首を吊って自殺した兄の海野正平として、弟の天野晴美を回顧するのだ。
「ひとつ僕の持論を言おう」
「ええ、どうぞ」
視界の先では、後輩である彼女がどこか期待したような目で僕を見ていた。
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