第6話 喫茶店④

 ふわりと真っ白に染まった息が宙に舞う。

 僕は、おもわぬ衝撃に手に持っていた財布を取りこぼした。いちど、財布とその中身がバラバラと卓上で跳ねた後に、それらはすべて宙へと散って消えた。もう一度息を吐くと、やはり僕の息は真っ白に染まっていることがわかった。きちんと暖房が効いているはずの喫茶店だと頭ではわかっているのに、身体の芯から寒さが染み渡っている。寒すぎてむしろ身体が震える余地などないかのように。

 しかしそんな僕の状況もなんのその、なにごともなかったように時間は進んでいたようだ。目の前に座っているのは、我が学校の後輩である柊がいた。彼女は得意そうな表情で、自作したのだという小説の一部を語り終えたところだったようだ。

 ふと隣の席へと視線を向けた僕は、すこし驚いた。真っ白な遺体のような姿だった客は、先ほど見た状況とは異なり大量の衣服に包まれており、まるで灰色の蚕がソファーに転がっているように見えた。座席の下には、大量の水がしたたっていた。衣服から漏れた水か何かだろうと思った。そして、鼻下まで隠された衣服のせいで表情はいまだ見られなかった。

 僕は視線を戻して柊に「お兄さんは生きてたんだね、途中までは」と言った。柊は「その通りです。だって死因は自殺ですから」と半ば言い切ったところで、


「この二人が兄弟だと書いてましたっけ?」


 と疑問を呈し、急いで手元の小説へと目を走らせる柊。僕は曖昧に頷いてマグカップを手に取った。喉元を通る甘ったるい液体が身体を癒やしていく。暖かいままであった珈琲に僕は感謝するように、ほっと息を吐いた。その息はもう白くはなかった。そんな仰々しい態度に、柊はすでに視線をあげていた。妙に冷静な視線を向けながら口を開いて「つまり、どう思います?」と訪ねる。


「どうって?」

「テント内の状況と、二人の死因。そして死亡推定時刻で分かるとおり首をつった海野正平は、低体温症で死亡した弟の天野晴海より後に死んだと言うことです」


 それはつまり、これはクローズドサークルだったかと聞きたいのだ。


「このテントに、ほかの誰かが介入していないという根拠は?」


 いい質問ですね、というかこの話の根幹ですものね、と柊は頷く。


「ここまでの話で明らかになっていることは、海野と天野、二人が無茶なルートを先行していたという情報。あと数人が彼らとともに先行組として出発したと証言が残っています」


 この事件が起こったツアーのメンバーは皆、死んでいた。だが彼らの行動はきちんと情報として残されていた。

 登山ルートには二つの中継地点として、第一避難小屋と第二避難小屋が建っていた。そこで第一避難所では別の会社が企画した登山ツアーに参加していたグループがいたのだ。その日、彼らは違った登山ルートを選択し無事であったために、後の証言を得られたのだ。彼らの話によると、昨晩、ツアー参加者の一人が朝早くにでないと手遅れになると騒ぎ出したという。

 それに同意した数人とツアーガイドが話し合い、ツアー参加者のほぼ半数に先発組と後発組とでわかれたという。その際に、悪路が予想されたために彼らが所持していた荷物を第一避難所に置いていった。なるべく登山スピードを上げるためだったと今では予測されている。そして明朝、先発組が第二避難小屋目指して出発予定より二時間ほど早く出発した。

 このときその先発組に海野と天野は含まれていた。当日は大雨であってもそれほど気温も低くなかった。のちに後発組が出発したが、やはり登山道は雨によって川のように水が流れており歩きにくく進みが悪かった。その間に、山の天候は崩れ冷たい暴風が吹き荒れ始めたことによって、ツアー参加者たちが散り散りとなったのだろうと推測された。

 後輩ちゃんは「この先発組というのがやっかいでしてね」と新しいコピー用紙を取り出す。書面には簡易的な地図がプリントされており、事故が起こったT山の主稜線が描かれていた。

 後輩ちゃんが指を指した場所は第一避難小屋。そして次に第二避難小屋まで道筋まで伸ばしていく。距離にして十キロメートル。第二避難小屋は、ツアーの最終目的地のT山温泉まで残り五キロだった。ほとんど目と鼻の先だと言っていい。


「先発組は第二避難小屋付近でほとんど低体温症で亡くなっています。この兄弟も、T山温泉を目指す道中でテントが見つかりました」


 つまりはここが分岐点だった第一避難小屋と第二避難小屋の間につんと指をおいた。指が指された地図の場所にはT沼と表記されていた。当時は大雨だった為に、沼は大量の雨水で氾濫し大きな川となって登山道を横切ったという。水深は膝下まであり、幅は約二メートルもあった。ここで多くのツアー参加者たちがずぶ濡れとなって低体温症を加速させたのだ。


「先発組が? 後発組が?」


 僕があえて端的に言うと、柊は頷いて答えた。


「この沼の氾濫で立ち往生したのは後発組なんです。T沼地帯は携帯の電波が入る最終地点でしてね、沼から発生した川の前でビバークを開始。携帯で救援要請を出していました」


 その後、後発組の何人かはこの川を渡りきった。残ったグループもいたが、彼らもテント内で軒並み低体温症で事故死。川を渡った彼らも第二避難所にたどり着くことなく病状が悪化して死亡した。

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