第5話 テントの中②
しばらくぼうっとしていたようだった。意識がもどってきたことで、より寒さに海野は体を震わせる。振り返った先には冷たく、真っ白に染まった遺体があった。多くの冷たく湿った衣服に包まれた男の遺体を見て、海野はこれまでの経緯をなるべく想像した。家族にはよく結果を想像してから行動しろと口酸っぱく言われていたのを思い出す。しかし、決定的な場面を思い出せない。その苦痛が精神を苛む。
沈痛な面持ちで、海野はかぶりを振って、あたりを見渡した。遺体ばかりに気をとられていてもしかたない。今はどういった状況なのかきちんと把握するべきだと、我ながら奇妙な冷静さで事を進めることにした。普段ならきっと、こんな狭いテント内の隣に遺体があったら正気で要らないはずだろうに。
テント内をいろいろと探っていくと、様々なバッグや道具などを見つけることができた。しかし、たいしてろくな道具は残っていなかった。五グループの中でも一番先頭を縦走していた為に、多くの荷物を道すがら置いていったからだ。とくに身体を温めるべきものや道具は、重さになる。素早く移動するために、二人は必要なものを持っていなかった。食べ物も飲み物も少なく、一応ガスランプはあったがうまく火がつかなかった。無駄な体力を使うことを恐れ、しばらく周囲を視線だけで探ってみる。この危機的状況をかろうじて救う物資は、己が身にまとっている衣服のみだとわかって落胆した。
仕方なく、なるべく多くの衣服を身につけようとするが、テント内にある衣服のほとんどは、やはり彼の遺体に巻き込まれており手をつけにくい。それに見た目からすべてぬれているように思えた。この状況下で濡れた衣服、もとより遺体から剥ぎ取るのはためらった。
そもそもこのテントはどうやって建てたのだろう。見覚えのないブランドで海野ではこんなテントの立て方はまるでわからなかった。わからないままに寝転んでいた海野を暴風雨から可能な限り防いでくれるテントに、いまは無心に感謝するしかなかった。
そして『僕』は、海野である僕は、唯一残っていたアウターを見つけ身につけた。腕を通すときに時間がかかったが、無事に着付けると多少ましになった。すると、なにやらアウターの胸元のポケットに膨らみを感じる。思わず手で探る。そこから、見覚えのないひとつの財布が見つかった。まるで記憶にないボロボロの財布で、もしかすると遺体の彼のジャケットを羽織ったのかもしれなかった。恐る恐ると僕は、暫定的に彼の所有物だと思しき財布を開く。ふるく今にも解けてしまいそうな財布には紙幣は挟まっていなく、なにやら文字がいっぱい綴っている紙が大量にでてきた。その中でもやはり、運転免許証が目に入った。震える指先で財布から抜き取る。
「天野美春」
その名前に僕は一番の衝撃を受けた。記載された名前は、僕にとって忘れがたいものだった。だって、それは弟だからだ。この遺体は弟なのだと、兄である僕はいまやっと理解できた。あの日、実家を飛び出して十数年後。今は僕の隣で何も言わない死体となって戻ってきた。それに、なぜ僕と一緒に登山ツアーに参加していたのかまったくもって思い出せなかった。
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