第4話 テントの中①

 海野正平がはじめにわかったことは、自分がとてもつもなく具合が悪いということだった。


 開けた瞼の先で周囲に視線をむけるが、頭は鈍くうまく思考が回らない。ただひたすらに、自分の体調の悪さに全ての意識を持っていかれてしまう。神経をまるごと抜き出されたような感覚。頭から足の指先まで通った一本の強い痺れがあった。

 時間をかけて彼は、上半身を引き起こした。途端に、喉から激痛が走る。涙を浮かべながら咳をくり返した。全身がひきつれを起こしたかのように波打つ。あきらかな異常事態に、驚きと不安に襲われる。けれど不思議と痛みは喉元だけだったので咳も収まると、痛みも自然に止まった。


 周囲はさほど暗くもないが、明るくもない。微妙な光明のもとに視線をめぐらせて、ぼんやりと目の前にそびえたつ壁を発見する。青白くなめらかな光沢を発する壁が、彼を覆い被さるかのように存在していた。そしてここが、まるで知らない閉鎖空間だとわかった。胸元で重なるように固まっていた腕を伸ばす。ポキポキと鳴る腕の関節を聞きながら壁へと触れた。指先につるつるとした感触と、伸びるような伸縮性を感じる。なるほど、この壁はビニール製によく似た材質なのだとわかった。その青白い壁が周囲を二メートルほどの距離で囲っているようだった。それは、おおきなビニール袋で覆われている感覚に陥った。


 今はいつで、ここはどこなのか。いったい自分はいままでなにをしていたのか。まるで分からない状況下で改めて脳が混乱する。必死に思い返そうと眉間に力を込めるが、一切の記憶を掘り起こせない。この場所までの記憶も、見覚えのない閉鎖空間のことも、なぜこんな場所で起きる寸前まで寝ていたのかさえわからなかった。


 いまは思考するために、一つぐらい情報が欲しい。まずはこの空間の出口を見つけることにした。砂のように崩れそうになる身体をこらえ四つん這いになるが、意外とすぐに答えは見つかった。両手両膝をついた体勢のまま顔を上げたその先に、ほんのすぐ目の前の壁に一本の大きな線が走っている。よく目を凝らせば、それはぴったりと閉じられたジッパーだった。


 海野は、飛びつくようにチャックの根本へと手を伸ばす。だが止まらない震えに指先が安定せず根本をつまめなかった。ここではじめて止まらない震えが、寒さによるものなのだと理解した。かんじかんだ指先が真っ赤に染まり、悲惨なほど震え上がっているのだ。冷たさは、むしろもう感じない。身体が危険信号として動作しているだけのようだった。


 よりいっそう自分が陥った状況がわからなくなるが、目の前にある解決の兆しを見逃せるわけがなく、必死に指先へ息を吐きかけて熱を灯す。はやる気持ちを抑え込んでジッパーの根本をつまんだ。


 じりじりと上方へと根本を伸ばしていき、途中何度も指を滑らせながらも最後まで開け放った。いざ外に躍り出ようとした瞬間、突風が吹き入り込む。鋭く走ったスリットがぺらりと歪んだ青白い壁にほとばしるかのようにバチバチと波打たせる。


 閉鎖空間をまるごと揺り動かす衝撃に海野が身体をすくめると、いまのいままで気づかなかったのが嘘のように冷たい風が室内に吹き荒れた。堪えることができないほどの寒波に身体を硬直させ、恐怖に声も出てこない。なんとか急いで立ち上がり、ジッパーの根元を掴んで引き下ろした。開けるよりも閉じるほうが楽だったことに虚無感を憶えるが、いまは安堵の方が勝った。海野は、荒い息を吐いてしばらくジッパーの根本を握りしめて蹲っていた。


 数分はじっと身を固めていたが、恐怖と寒さに閉じかけていた意識がゆっくりと戻ってくる。そして、ぼんやりと後ろへと振り返ってから海野正平は自分の目を疑った。ただの荷物だろうと認識していた物体。それが先ほどの突風で上に被さっていたものがとっぱわれて中身があらわになっていた。


 それは、男の遺体だった。つまり海野は知らない死体と一緒に、いままで寝ていたらしい。そこで彼は思い出した。無理な登山ルートを強行したことにより、ツアー参加者たちが散り散りとなってしまったこと。自分たちはほかのグループよりも独断専行を選択したこと。だからこうして見知らぬ場所で、よくわからない状況に陥ってしまったことも。


※※※


 ――ああ、そうそう、そうだった。昔から『僕』は、海野正平と呼ばれる『僕』は、よく間抜けで気が抜けているやつだと指摘される人間だったんだ。もはや判断能力が欠けていると言ってもいい程に。昔から、僕は家族からどんくさいなどとよく馬鹿にされていた。自分がやった行いが、どの程度の問題になるのか判断できず、後の結果を想像することを苦手としていた。だから兄の僕よりも弟のほうがよく家族に可愛がられていた。できがよく社交的な弟は、皆から愛されているような存在だった。しかしある日、僕が起こした事件が原因で実家を飛び出していってしまって以来、僕と弟が出会うことはなかった。

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