第2話 喫茶店②

「この喫茶店、珈琲が絶品なんです」


 『僕』は首を傾げた。サイフォンから流れ出す水が沸騰する音に気を取られていたので、彼女の言葉を聞き逃してしまっていた。


「なにが美味しいって?」

「オレンジジュースです」


 彼女は一切顔色を変えずにさらりとまるごと放棄した。

 僕は無表情にこちらを見る彼女へ、「拗ねるなよ」と苦笑を零した。


「まあいいでしょう。とりあえずお昼、たべてしまっても?」

「もちろんだとも。ごめんね、お昼の邪魔をしてしまって」


 彼女はしばらく間を空けて嬉しそうに微笑むと、やがて我慢できなかった犬のように大きく口を開いて笑った。

 僕には彼女がなにをそんなに嬉しいのか分からなかったが、きっとどうでもいいことなのだろうと思った。


「それで、せんぱいさんなに飲まれます?」

「これでいいよ」


 テーブルの上にはすでにガラスのコップが置かれていた。

 中身は透明な水。

 喫茶店に訪れてすぐに、喫茶店のマスターが置いていったものだ。

 からんとかさが減った氷が小さく音を立てる。

 僕はさきほど一口つけて、ふつうに水が美味しいのでこのままでいいと静かに主張する。しかし何事もなかったかのように彼女はメニュー表を手に取って「珈琲がオススメですからね」と言った。

 僕は素直に彼女のおすすめとやらに従うことにする。

 しばらくの間、僕と彼女は頼んだセットメニューを嗜みつつ会話を楽しんだ。

 日頃あまり学校じゃあ関わり合いの薄い関係性、とは言わないけれど。こういった異なる場面では、普段の会話程度でもほどよく弾む。そして突然、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

 どこか懐かしく、けれど記憶には残ってはいない。

 脳には残らず嗅覚だけが憶えていた不自然さに、変な違和感を覚える。

 僕達が座る座席の横にさきほどのマスターがまた現れて、二つのマグカップをしずかに置いた。

 匂いの元が更に近くにやってきたことで、脳の違和感がさらに際立つ。どうやら僕は、この珈琲をすでに飲んでいるようだった。

 机の上に置かれたマグカップを手にとってひとくちつける。

 舌の上に流れ落ちた複雑な味に、僕の脳が活性化する。


「うぅむ。おいしい」


 しかし記憶の水面には波は起こらない。しかたなく対面の席に座っている彼女へ視線をやると、なぜだか珈琲には手をつけず此方を無言で見つめていた。

 静かに笑みを浮かべる彼女に、まるで気味の悪さを覚えなかった。

 そして見つめられているという気恥ずかしさも。


「珈琲が冷めるよ」

「冷たいのも好きなんです」


 そうなんだ、と気にせず僕はテーブルに置かれた小さな金属のいれものへと手を伸ばした。

 中から真っ白な砂糖を付属したスプーンですくい珈琲へと入れ、混ぜた。

 またひとくちをつけると、今度は鮮やかな風味となって口の中に広がった。

 ふぅとため息を吐いて彼女にもお奨めしようとするが、頑なに珈琲に口をつけていない。猫舌なのだろうと、勝手に予想しておくことにする。

 さてと、と。彼女は腰掛けたソファーの背もたれへとゆっくり身をゆだねた。

 その動作に視線を取られた時、彼女の笑みがより深くなっていることに気付いた。


「あ、そうだ! せんぱい知っていますか?」

「なにを?」


 ハウダニット。

 犯人は誰なのか推理しましょうと、彼女はなにやら前のめりで告げてくる。


「クローズドサークル、とても小さなテントで起こった事件です。『T山遭難事故』って聞いたことありません?」


 なるほど、僕は黙って首を横に振る。

 知るわけがない、どこでなんの事件が起ころうと一切関係のない話だ。たとえ、それが僕の身近なところで起きたとしても。


「じゃあ知らないんですね? それなら私が教えてあげましょう」

「いや、いいよ。とくに興味なんて、ないし……」

「でも喫茶店ならミステリトークじゃないと」


 よくわからない主張とともに、一歩も譲らない様子の彼女。そこでふとなんてことのない疑問が脳裏をよぎる。

 そういやこの後輩の名前、なんだっけ。すぐにああ、と思い出した。


「じゃあ話題を変えます。そもそも見てほしいものがあるのですよ」

「なにをどうしたの、柊くん」


 じゃあじゃあと性懲りもなく続けようとする柊を胡乱げに見つめ、僕はため息を吐いた。しかしどうやら効果は薄いようだ。

 彼女は猫舌ゆえに、ようするにこのまま無駄話を続け、珈琲が冷めるまで時間を有効活用したいのだろう。

 そう僕は素直に捉えることにした。


「実は私、ミステリー短編を執筆中なんです。それをせんぱいさんに読み説いてほしいのですよ」

「ほお!」


 おもわず僕の頬が起立する。思ってもいなかった所からの華麗なカウンターに声が喜色に染まった。


「そして、ここで縛りをもうけます。ギミックまたはストーリーにせんぱいさんが一度でも『どうでもいい』と思ってしまったら、この話題は終わりとなります。どうです? 気になってきました?」

「ふむ?」


 なにやら圧倒的に僕側が有利な話じゃないか。いい加減なこと、興味のない話、自分から遠い話。

 世の中なんて、そんなどうでもいいことだらけなのに。

 いぶかしげな表情が表に出ていたのか、後輩ちゃんはうんうんと同意する素振りをみせつつも、それでも、この話題を終わらせる気はないらしい。

 かぎりない自信をみなぎらせて、猫舌であるはずの彼女は熱い珈琲を飲んでしまうデメリッドはなからないと言わんばかり。

 あなたはきっと最後までこの話を聞き遂げるのだと自信たっぷりの様子だ。


「せんぱい。人が死ぬ話、とても興味あるでしょう?」

「ないけど」


 そもそもそんな事件に、くびったけな方があたま可笑しいやつだと思う。


「でもミステリーお好きでしょう?」

「それはまあ、多少は」


 へんな見栄はってばっかり。彼女は仕方ないと嘆息する。


「あなたが所属している部活を思い出してください」


 そう、たしかに僕が入っている部活は文芸部、おもにミステリーに重きを置いている。

 そのジャンルも様々で、いかなる派閥であっても草の根一本も残さぬほどに食いつくすのだ。


「ミステリ関してすこしばかり手厳しいよ」

「いいんですよ。それで結構、私は語り部となり、せんぱいさんの興味を導いて見せます!」


 やる気に満ちあふれている柊を止められない。

 さっさと僕は諦めることにした。

 彼女が書いたという小説には正直、興味もあったので僕は沈黙を選択した。


「会話続けましょうね。せんぱい」


 後輩である彼女は微笑む。

 それしか表情を知らないかのように。我が愛しき後輩のためにと、話の続きを促すようにこくりと頷いた。


「お話とっても簡単ですよ。とっても忘れやすいせんぱいさんぴったりな話題です」


 やっとこさ今回の話題のメインを語るようだ。


「『この世で一番小さなクローズドサークル』……せんぱいさん、どんな事件だったのか読み解いて見せてください」


 革製の鞄から一枚の用紙を取り出す。そこには大きく『T山遭難事件』と題名が綴られていた。

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