アナタがどうでもいいと言う前に。
@tatibana_168
小さなクローズドサークル
第1話 喫茶店①
ふわふわポーチドエッグにシャキシャキレタス。小さく積もれたプチプチコーンの小山と、カリカリ熱血バターで焦がしたベーコン。チコチ具合に焼き上がったみんな大好き固めの食パン。
昔なじみの喫茶店で頼んだメニューの前で、柊はぱちん、と両手を打った。いつものお昼にしてはご機嫌ごちそう具合に、すでに口内は涎いっぱいだ。いち早くおいしいものを口に放りこみたい衝動に駆られるが、ここでなんら段取りを無視して単純にかっくらってしまえば台無しに違いない。
欲望にまみれず、きちんとした流れに則ること。柊は長年の経験で理解できていた。
「どれから食べよっかな」
ウキウキ気分だったので迷い箸、ではなく迷いフォークでさまよう。だがここでふと、己の格好について意識が寄った。今の柊の姿は制服だった。お高い洋服だ、汚してはいけない。ならばナプキンをつけよう。卓上にぺらりと広がった紙ナプキンを手に取り、首元にそなえつける。ああ、普段は私服で訪れている喫茶店だったから、こういった手順がややこしく感じてしまう。
「じゃ、いただきます」
昼食を取るために訪れた行きつけの喫茶店では、熟れたジャズが静かに店内で流れていた。聞き慣れた曲調に、嗅ぎなれた珈琲の香り。昔懐かしい心地に浸りながらも、手にもったナイフをポーチドエッグへ入刀すれば、まるで夢物語のようにほどけた黄身が真っ白な皿をじわじわ染め上げていく。
「うひょ……」
「おいしそうだね」
「たまらないですよね。やっぱ、り」
子供みたいに駆け寄ろうとした手がぴたりと、止まった。柊が座る四人席の向かい側から声がする。
「こんにちは。後輩ちゃん、こんなところでご飯? なかなか豪勢だねえ」
しぼった視線の先に男が座っていた。一見、それは少年だった。真っ黒な制服をぴっちりとしまう首元。店内の照明が黒い制服の縁を濃く彩らせ、規則正しくも色気を持った、そんな伝統的な学生服をまとった少年がいる。テーブルに頬杖をつきながら、まるでまどろんだ猫のように伸びた目元を優しくテーブルの上へ注いでいた。
柊はかぶりをふって意識を整えた。普段から見慣れた景色に、見慣れない姿が一瞬映ってしまったことに驚愕する。じつは彼女は、彼を知っている。ほかの誰よりも、知っているのだ。
だから柊まことが彼の名前を呼んであげなければいけなかった。
「せんぱいさん?」
「そうとも、偶然だね」
「偶然です、ね。まさしくこれは偶然と言わざるを得ません」
思わぬ出会いと言うには、ほとんど奇跡的な出会いだ。
とっさに柊は胸元に収まっていたスマートフォンに手を伸ばした。ほとんど無意識な行動だったが、かろうじて堪えてみせた。先輩さんがいる、あの先輩さんがいる。信じられない事実に柊は動揺を隠せなかった。ドキドキと高鳴る心臓を意識しながらも、ゆっくり手を膝の上におろす。早送りのように回る気持ちを、どうにか表面上に出さないよう落ち着かせて、小さくため息。決して、失敗はできなかった。今回の出会いはかぎりなく重要なのだと、ひ弱な頭脳と心がおおきく訴えていた。
「もしやするとせんぱいさんもご飯ですか?」
「もう食べたよ。たまたまこのお店を見かけてね、休憩がてらどうしようかと迷っていたんだけど……大きな窓から君の背中が見えたんだ。これ幸いと入店してみたわけ」
知らない店に入るのは緊張するしね。と朗らかに彼は笑った。柊は調子を合わせるように笑みを浮かべる。すると首元に収まった紙ナプキンがかさりと音を立てた。
「君も大人になったねえ」
「変ですか、汚れ気にしちゃ」
いつの間にか素敵な女性になったもんだ。くすくすと小鳥のような囀りで笑う彼に、柊は思わず赤面せずにはいられない。真っ黒な制服を着た先輩さんは、ゆるやかに足を組み替えた。その姿はまるで、ハリウッド俳優を彷彿とさせるほどの優雅さだった。十代の身体にしては色気の立つ雰囲気と、仰々しくもわざとっぽい動作が様になっている。
柊は思わずじっくりと少年を見つめてしまう。すらりと伸びた鼻筋に、これまた薄く伸びた唇には、十代の若々しい張りを様々と感じた。
(……落ち着け、落ち着け)
ゆであがりそうになる脳みそのまま、ぼうっと見とれている場合ではない。まるで柊の理想のように映し出される矛盾と、幻想的な光景。憧れ丸出しでまんまと見惚れてる場合じゃない。
この状況をすこしでも引き延ばそうと、柊は脳をフル回転させた。
(前回は調子に乗って自分の話ばっかりしてしまった。今回はうまくやってやる)
ぎゅっと心で覚悟をきめた。よし、今日は確実に展開を進めてみせる。必死に脳を回して回してみせた。やがて一つの答えを導き出した。そうだ、思い出す。偶然にも柊が所持していた革鞄の中には彼の興味を引きつけそうな話題がたくさん収まっていた。
ごほんと改めて咳をする。
「この喫茶店、珈琲が絶品なんです」
なのでひとまず彼の、興味を引きつける言葉を吐き続けようと決めた。
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