前編

 あかりのない暗い部屋の扉が開き、若い男が少年を連れて入ってきた。

 若い男は糸くずの侵入すら許さない宇宙服のような防寒着で全身を覆っていたが、一方の少年は夏休みの小学生のように、短パンと袖のない白いシャツという出で立ちだった。

 若い男はそこに少年を残し、一人部屋を出て、施錠した。

 ふうっと何気なくこぼれた少年の吐息は、雲のように白く色づく。

 閉ざされた扉に背を預けながら、少年はゆっくりと床に腰をおろした。


 そして二年が経過した。


「……そこに、誰かいるの?」

 闇に支配された部屋の奥から青年の声。

「いるよ」

 少年はこたえる。


 会話はそこで途切れ、さらに二年が経った。


「……ねえ、きみ、まだいるの?」

 部屋の奥から青年の声。

「いるよ」

 少年は応える。


 会話に進展がないまま、一年と半年が過ぎた。


「ねえ、きみ、まだいるの?」

 部屋の奥から青年の声。

「いるよ」

 少年は暗闇に向かって答える。


 七十時間後。


「……きみは、どうしてここから出ていかないの?」

「お、返事が早いね。どういう心境の変化かな?」少年は嬉しそうに笑った。「部屋から出ない理由は二つだね。一つ目、鍵がかかっているからそもそも出られない。二つ目、仮に鍵がかけられていなくても、僕はここから出ていくつもりはない」


 二十時間後。


「どうして?」青年の問い。

「きみと話がしたいから」少年の答え。


 一年後。


「どういうこと?」

 すぐ隣から、青年の声がした。

「それはね──」

 少年は青年と向きあうため、顔を動かそうとした。

 一秒後。

「こっちを見ないで!」感情をむき出しにした強い拒絶。

「わかった」少年は両手を小さく上げて、視線を正面に向ける。


 五年後。


「…………ごめん」部屋の離れた場所から青年の声。「ぼくは、その、誰かと、話をするのが、苦手、なんだ……誰かに見られてるだけでも……恥ずかしくて、死にそうで……」

 途切れ途切れの謝罪。

「だろうね」少年は薄く笑う。「知ってるよ」


 二十時間後。


「ねえ、きみは何なの?」

「ちょっとばかし疑問が大雑把すぎやしないかい?」少年は苦笑する。


 六時間後。


「人間、じゃないよね? 人の子供みたいに見えるけど、もう長い時間、何も食べてないし、寝てもないでしょ」

「それはきみだって同じだろ?」


 五時間後。


「じゃあ、きみとぼくは同じもの同士? 仲間、なの?」

「そうともいえるし、そうじゃないともいえる」


 二十分後。


「どういうこと?」

 真横から青年の声。

 少年は顔を動かさず、正面を見据えたまま口を開く。

「僕もきみも所謂いわゆる、魔人というやつだ。人のかたちを与えられた魔力の結晶」

「……魔力」青年はその言葉を嚙みしめる。「ぼくのこの力が、そうなの?」

 窓一つない部屋なのに、青年のいる方向からてつく風が吹く。

「そう。きみは氷の魔人。近づくもの全てを凍らせる歩く厄災、それがきみだよ」

「…………」


 十分後。


「ごめんごめん、悪く聞こえてしまったかな? ほめたつもりだったんだけどね」

「……だったら、きみは何の魔人なの?」

「ぼくは全能の魔人」

「全能?」

「全てを持つもの、不可能がない──辞書を引けば、そんな意味が見つかるね」

「きみにできないことはないの?」

「一つだけある。そしてそれを叶えるために、きみの力が必要なんだ」

「……? きみの願いって?」

 少年は答える。

「死にたいんだ」


 十年後。


「死にたい、の?」

「そう。僕は死にたい」

「どうして?」

「悠久といって差しさわりのない時間を生きて、科学の限界、魔法と呼ばれる能力、物語の主人公のような力も手に入れた。おそらく僕以上にせい謳歌おうかした存在はないと自慢できるよ。だったら残された娯楽は死しかないと思わないかい?」

「わからないよ」

「だろうね」

「そうじゃなくて」

「うん?」

「どうして全能のきみが死ぬために、ぼくが、ぼくなんかが必要なの? 凍らせてあげればいいの?」

 少年は、くすっと吹き出した。

「どんな生き物だって、きみの半径50メートル以内に近づくだけで凍死するだろうけど、残念ながら僕には効かないんだ。この檻にきみを連れてくるだけで200人以上が犠牲になったっていうじゃないか」

「ふうん」その情報を聞かされても、青年の感情は揺らがなかった。「あれ? じゃあもしかして、ぼくをここに連れてきたのは、きみなの?」

「そうだよ」

「どうして?」

「僕が死ぬためさ」

「全能のきみを殺すことなんて、できるとは思えないけど……」

「きみにしかできないのさ」

「ぼくはどうすればいいの?」

 少年は、こう告げる。

「何もしなくていい」

 青年は首をかしげる。

「どういうこと?」

 少年は言う。

「きみはただ、僕に愛されてくれればいいのさ」


 九年後。


 青年は「は?」とだけ言った。


 六年後。


「何それ?」と青年は言う。

「聞こえたとおりの意味だよ」少年は言う。「きみは僕に愛されるだけでいい」


 十七年後。


 青年は問う。「……きみは、ぼくのことが、その……好き、なの?」

 少年は答える。「いいや」


 二十六年後。


 青年は言う。「……意味、わからないんだけど?」

 「これから愛してみせるさ」少年の声は、やけに自信に満ちていた。


 七秒後。


「とりあえず、そろそろお互い、もう少しだけお近づきにならないかい?」

 そういうと少年は人さし指を光らせてみせた。

 電球のようなあかりがともる。

 少年の瞳に美しい青年の顔が、青年の瞳に美しい少年の顔が映る。

 次の瞬間、美しい青年はあまり美しくない悲鳴を上げて、少年から離れた。


 一時間後。 


「ごめんごめん」少年は手を合わせて謝罪する。「そこまで恥ずかしがり屋さんだとは思わなかったんだ」

 見られただけでも死を招く羞恥死の持ち主。

 そんな青年からの反応はなかった。


 五十年後。


 あれ以来、二人は一言も口をきいていない。

 ときどき少年は話しかけたりもしてみたものの、青年は何も返さなかった。


 十八年後。


 ある日、少年は歌をうたった。

 美しい少年は、美しい声で美しい詩の美しい歌をうたった。

 しかし青年は反応しない。


 翌日も少年は歌った。

 次の日も、その次の日も。

 毎日違う歌詞とメロディーの歌をうたった。

 暗い部屋には少年しかいないかのように、ただ一人でうたいつづける。


 三十年後。


 その日を境に、少年は歌わなくなってしまった。


 一週間後。


「もう、歌わないの?」

 そう訊ねたのは、青年だった。

「知ってる歌を、全部うたったからね」


 二分後。


「好きな歌がいくつかあるんだ、もしよかったら、またうたってよ」

「いいよ。でも、どんな歌か思い出せないよ」

「確か、こういうやつ──」

 青年は鼻歌で音を奏でる。

「ああ、それか。それは僕もお気に入りなんだ」そこで少年は提案する。「よかったら、一緒に歌おう」

「え?」虚を突かれたような声。「でも……」

「一人で歌うのに飽きてたんだ。でも無理強いはしないよ。僕は勝手に歌ってるから、よかったら追いかけてきて」

 そしてまた、少年はうたいはじめる。


 一年後。


 少年の歌のあとから、輪唱りんしょうするように追いかけてくる、青年の歌声。


 一年後。


 歌声は徐々に近づき、重なり。


 一年後。


 部屋の隅と隅で歌っていた二人の距離も徐々に近づき。


 一年後。


 いつしか相手の歌声は目の前に。


 一年後。


 少年は指先に灯りを灯す。

 不器用な笑顔の青年がいた。

 少年は問う。

「今度は逃げないの?」

 青年は答える。

「もっときみを知りたいと思ったんだ」

 少年は言う。

「強い力を宿す魔人は、魔力と同等にまるで人間のような性質を宿すともいわれている。人の本質とは何だと思う?」

 青年は首を左右に振る。「わからない」

「恥ずかしがることだよ」と少年は伝えた。

 青年は、きょっとんとした。

「えっと、じゃあぼくがすごく恥ずかしがり屋なのは、人間らしいからってこと?」

「そうだよ。そして人間らしさとは、恥ずかしがることをしたがることでもある」

「それって……どういうこと?」青年は訝しい顔つきになる。

 やれやれと少年はため息をついた後で、青年のまとっている粗末な服を引っ張ってひざまずかせ、目の前に降りてきた青年の顔に自分の顔を寄せて、唇を重ねた。

 いま一体、自分に何が起きているのか理解できないと、青年は瞳孔を開く。


 十秒後。


 だけど。

 だけど、この状態は不愉快ではないと青年は感じていた。


 二十秒後。


 可能なら、もっとこのままでいたいとさえ思う。


 六秒後。


 だけど、少年から唇を離されてしまう。

「……あ」と惜しむような声がもれる。


 二秒後。


「いいよ」と少年は言った。

「え? 何が?」青年は首をかしげる。

「今と同じようなこと、まだしたいなら、して、いいよ」と少年は許可をくれた。

「いや、でも、そんな──」青年は戸惑う。


 一秒後。


 体が勝手にそうしていた。

 少年の唇に唇を重ねていた。

 自分は少年を内側から食べようとしているのだろうか。

 少年の口の中に舌を入れて、味わうように、舌を大きく動かす。

 少年の口の中で、自分の舌と少年の舌が何度も交わる。

 きっと自分はこわれてしまったのだと青年は思った。

 自分の行動に理解が追いつかなかった。

 一度少年から唇を離した青年は、少年のシャツと短パンを無理やり脱がして、自分の身に着けていた粗末な衣類も脱ぎ捨てた。

 違和感があった。

 自分の一部が、見たことのないかたちをしていた。

「なに……これ……どういうこと……」

 戸惑う自分を少年は笑う。

「あれ? そうなったことないんだ?」

 少年は少年の姿形をしているけれど、自分よりずっとずっと長く生きてきたのは明らかで、知識も桁違いなのだろう。

 その少年が言う。

「いいよ、それを使って僕を好きにしてごらん?」

 きっとそんなことを言われなくてもそうしたのであろう。

 青年は少年に飛びかかる。


 一秒後。

 夢中で動きつづける。


 五分後。

 寒さからではない、あえぐような声が、少年と青年の口からもれていく。


 五分後。

 声はさらに大きくなって。


 五分後。

 二人は大きく叫んで。


 二十秒後。

 停止した。


 十分後。


「ねえ、覚えてる?」青年の腕の中で少年は問う。

「何を?」

「僕の力のこと」

「確か、科学や魔法や、物語の主人公みたいな力を持ってるんだよね?」

「よく覚えてるね。その中の一つ、物語の主人公の力を、今からきみにも体験させてあげるね」

「……? うん」

 少年の言葉の真意が青年にはわからなかったけれど、流れでうなずいてしまう。


 一秒後。


 ぎょろり、ぎょろり、じろ、じろ。


 上下左右、あらゆる角度から自分が見られているような感覚に青年は恐怖する。


「なにこれ? これは──なんなの?」

「だから物語の主人公みたいな力だよ」と少年は言う。「世界のどこかには、僕たちが今こうして存在している世界を文字通り物語として視覚的に楽しんでいる世界が存在するんだよ。そこの住人たちに、僕たちはずっと見られてたんだよ」


 刺すような視線。

 文字通り、それは青年に痛みを与えた。

「まって、こんなの耐えられない、こんなことされたらぼくは──」

「いいねいいね、これだよこれ、これが欲しかったんだ」少年は見たことのない笑みをたたえた。「死に至る羞恥心、これが欲しかったんだ」

 少年は青年に口づけを。

 魂を吸いとるように、青年から羞恥を奪う。


 そして少年は死んだ。


 一分後。


 あまりのあっけなさに、何が起きたのかわからなかった。


 二分後。


 少年は死んでる。


 一時間後。


 少年は死んでいる。それ以外に変化はない。


 二十四時間後。


 不快な香り。

 少年が腐りはじめる。


 氷の魔人は、はじめて羞恥以外の感情に支配され、泣き崩れ、姿も崩れ、金剛石のような氷へとバラバラに崩れた。

 せめて、少年の亡骸が美しく保てますようにと。


 二時間後。


 防寒服に身を包んだ若い男が発砲スチロール製の箱をのせた台車を押しながら部屋に入ってきた。

 彼は箱のなかに青年の欠片と少年の欠片を入れると、淡々とした様子で部屋を後にした。




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たべごろ キングスマン @ink

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