第4話 日本人
吉田家において、地球人登録について本格的な議論が始まったのは、1年前に申請日の公示が始まってすでに半年が経ってからだった。我が家は、夫婦ともに日本人のままで良いのではないのかという、なんとなくの合意が得られているように思っていたので、それまでは議論にならなかった。そもそも日本生まれであるし、先祖代々日本人であるし、少し平和ボケの兆候はあるものの、生活もしやすく、この日本と言う国の国民気質、自然、文化に安心感を持っていたからだ。
「あなた、どうする? 地球人登録」
梅雨が明けたばかりの蒸し暑い日、蝉の声を制止して、急に妻が尋ねてきた。
「どうするって、日本人のままでいいんじゃないの。不満無いでしょ」
「ほらぁ、最近、世界はキナ臭いじゃない。戦争でもあったら、日本だって巻き込まれちゃうかもよ。これから子供もできるかも知れないし、地球人になれば、間違いなく兵役はないはずだし、何かあったらもっと平和な国に住んだっていいんじゃない」
「何か、戦争が嫌だから逃げ回っているみたいじゃないか。日本で生まれたんだから、やっぱり日本人ということで良いと思うけどなぁ。日本国憲法の第九条はまだ維持されているんだし、これだけで平和っしょ」
妻は怪訝そうな顔をして言う。
「いや、分からない時代よ。移民受け入れは無くなるんだから、あなただけでも地球人登録して、いつでも居住国替えできるようにしておいた方が良くなくて」
「戦争になったら、どこにいてもやばいよ。逆に、君が地球人登録しておくべきじゃないの」
「いや、私は日本好きだもん。このままで良いよ」
「えっ! それって戦争になった場合、日本人として戦うってこと」
「日本人は戦わないわよ。戦わなくったって、アメリカが守ってくれるんじゃないの。同盟国でなくなった訳じゃないし」
「そんなこと言ったら僕だって同じじゃないか。男だけは戦争に行けって言うのも変だろう」
「だって2024年のあの時だって、二大国のボケ老人とがんこ老人の意地の張り合いで、戦争になりかけた時、日本も兵役復活しかけたじゃない。第二次世界大戦の時の義勇兵役法の制定もあれよあれよで決まったんだから。ああいうのはなんだか知らない内に決まっちゃうものなのよ」
「義勇兵は女性も召集されたんじゃなかったっけ」
「もうそうなったらあたしは死んでやるわよ。大和撫子なのよ」
大和撫子と兵役は関係ないが、妻はとても感情的になった。「大和魂」と言いたかったのだろうか。おそらくは地球人と言うアイデンティティの不在が気にいらないのだろう。法律が及ぶ箱に入っているから国民であるということではなく、国の箱自体の色が自分の好きな色であるかないかが国民である理由なのだろう。
だから、日本という国の現在の価値よりも、ズタボロになっていても日本国というブランドにしがみつくらしい。僕は、そんな妻の日本に対する想いを頼もしいとは思うが、肯定できないでいた。
只、僕にも一点だけ、妻の判断が論理的だと思うことはあった。そのことを妻は口には出さなかったが、こういうことだろう。二人ともが地球人登録して日本に住むには日本国利用料は高すぎるのだ。一人分だけでも日本の国の行く末に一石投じる権利を持ちつつ、国の規定どおりの税金で生活費を浮かせる。これから増える子供たちの成長のことも考えると、経済的なゆとりは欲しかったのだろう。
日本国民の誇りとはすなわち日本国のブランドである。文化的所産や独特な景観生態系の中身よりも、国と言う箱の色が重要なのである。妻にとっての国選択はシャネルやヴィトンの選択となんら変わらないということか。
日本国に愛着のない僕は、妻の勧めるまま、最終的に地球人登録の申請をすることになり、妻はそのまま日本国民として、家族一緒に日本で生活することを決めた。今日、僕がこの列に並んでいる理由はそういうことだ。
ILMAIが制定する地球人用法律では、どの国の法律においても、戦争が放棄されている。よって徴兵も課されていない。多くの地球人登録申請希望者が申請の判断基準としている最大の理由はここにある。よって、地球人はこの法律によって、国が戦争をしていても、戦争に加担することなくその国に住むことはできる。被害は生じるはずだが、それが嫌なら戦争をしていない国に住めばよい。何しろ、環境や土地には縛られないのだから。
国籍を持った場合は、おのずと愛国心があるものとみなされ、戦争は自分のものとして受け止める必要があるが、地球人には愛する国は制度的には無いので、戦争による空間変化は享受しても、戦争という行為に対しては他人事となる。有事に至ってから銃を握るか否かを判断し、地球人登録への切り替えもできるようにはなっている。もし、戦争をしている国民の全員が地球人にすべて登録するということは、国としてのアイデンティティが保たれていない訳で、国を愛する人民がいないのだから、国は維持できない。それは戦争に負けたことにもなる。シミュレーションではそんな事例もあったが、その場合も、ILMAIが隣国や関係国への編入裁定を行う。その裁定も、世界にとって平均化された価値を生むようになっているらしい。ある未来法学者の説では、理論的には、地球人法が数百年執行されると、世界の平均化によって、世界からは地域と言う概念だけが残り、国はなくなり、すべてが地球国となるのだそうだが、単なる理想のように思うし、とりあえず自分の命のある内は、AIが決めた最低でぎりぎりの納得をしていくことになるのだろう。
窓口まで、もうあと数人となったところで携帯が鳴った。妻からだ。
「まだ並んでるの」
「初日に来なくても良かったんじゃない。いつも通り初詣の方がよかったよ。同じ並ぶなら平和を金で買うより、平和を祈っている方がよかったかも」
「今になって、まだ悩んでるの。これで良かったんだと思うよ。後どれくらい」
「ようやく、あと数人だよ。疲れたよ」
「私ももう少し歳が行ったら、老後をのんびり暮らせる国で地球人登録しようかな」
「日本はもういいのかい」
「歳と共に愛国心なんてなくなっちゃうかも」
「そりゃ違うだろうよ。年寄の方が国を離れたくないものだよ」
「昔の年寄は言葉の壁とか、文化の壁とか障壁があったけど、今は言葉の問題はない。国の文化や宗教なんかどうでもよくならない」
「そんなの君だけだよ。僕なんか地球人に登録すると決めた日から、なんか一人ぼっちのむなしさがこみ上げる時があるよ。ちょっと登録早すぎたかなぁ。もっと後にして、君と一緒で良かったんじゃないかって思うよ」
「今になって感傷的になるってどうなのよ」
「一緒に日本に暮らすんだから、何も変わらないし」
それこそ平和で呑気な会話をしていると、急に妻がちょっと待ってと、スマホから顔を離したようだ。
並んでいる自分の周りも少し様子が変わったように感じた。冷たい何かを感じた。後ろに並んでいた夫婦と二人の子供の四人家族も、父親がスマホを見ながら「えっ」て驚いて、その後、夫婦でなんやら話している。見回すとあちこちで深刻そうに顔を見合わす夫婦もいる。
妻からの声が聞こえた。
「あなた、あなた、聞いてる。そっちでももう分かった? 大変なことになったよ」
「えっ、知らない。何があったの? なんかこっちもざわついているけど」
「世界各国の地球人登録者の推定値が発表されたのよ」
「まだ、これからなのにどうして分かるんだよ」
「知らないわよ。ILMAIが調査結果から推定したんじゃないの。それよりもたいへんなのは、日本人の地球人登録者推定値と日本居住希望者数よ。すぐにスマホで確認してみてよ。日本は約6000万人だっていうのよ」
「そんな馬鹿なことがあるかよ。ILMAIの推定値じゃないんじゃない。あれは不確かな入力データでは計算始めないと思うよ」
「そんなこと知らないわよ。国際政策情報センターの発表なのは確かよ。私も考え直さないといけないかも」
僕は、そのニュースに少しフェイクの匂いを感じたが、直ぐにスマホで調べてみたところ、妻の言っていることに間違いはなく、周辺のこのざわつきもようやく腑に落ち始めた。
よく読んでみると、現在2057年、日本の人口は9253万人であるが、6458万人が地球人登録者で、そのうち6422万人が日本国居住を希望し、36万人が他国居住を希望している。また、他国の地球人登録者で日本国居住希望者は515万人、日本国籍を取得したい人は17万人にも上った。
自分の生まれた国への帰属意識はどの国の国民も高いはずで、特に日本は愛国精神かつ排外的意識が高いものと思っていたが、そうではなかったということになる。箱の色には拘っていたが、箱の中身を選択したのではないということのようだ。日本に住む人口は他国からの日本国居住者を入れると9732万人となりは増加に転じる訳だが、喜べる数値ではないだろう。
ものすごく簡単に言うと、どんな方法であろうと、本気で日本国を守ろうとする国民は、2812万人、現人口の僅か28%になってしまうということだ。
僕の前に並んでいた二人は、徐に列から離れた。そうこうする内に、自分の番が廻ってきた。スマホを構えた。
「どうする。僕の地球人登録はやめようか。君ももう一度検討するだろう。」
僕の後に並んでいた夫婦は、すでに驚きや深刻さはいつのまにか消えて、今はもうすっきりした顔をして、登録を決行するようだ。
窓口の係が、「どうしますか」と急かしてきたと同時に妻からの返事があった。
「日本国誰も守れないから、私も来週には地球人登録申請に行くわ。あなたは今日やっちゃってよ。長いこと並んだんだし」
あれ、逆か。日本国民に残れと言うことじゃないんだ。そうか、箱はブランドだから、誰も買わないなら値は下がるって訳か。いやちがう。箱の中身が大切なんじゃないのか、良い素材で高い技術で丁寧に縫製されているバックは、それを作れる人がいるから値が上がるはずだ。そして、それを作れる人は国民なのではないのか。
妻の日本国民でいる愛国心とは、ナショナリズムに裏付けされた祖国への愛国心でないことがこれまで以上に明確となった。
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