第2話 ILMAI

 地球人法が国連と加盟各国で議論されて、国連総会で決議され、国際条約として成立したのは5年前だが、それまでには何度も紆余曲折があった。国連からの脱退国もいくつか出た。紆余曲折と言うこと以上何も言えない。それぞれの国は、国と言う概念の見直しと歴史的しがらみとの決別を迫られ、世界の安全保障の問題とも深く絡むことから国連の安全保障理事会の在り方や常任理事国の見直しにも繋がった。また国際法に法的罰則や拘束力が必要ではないかと、世界の法曹界で大議論が起こったが、結論づけられないまま、喧々諤々が続いた。今も諤々だ。そして、積極的にこの条約を受け入れる国が出て来ても、国同士の運用が調整できないまま時間だけが過ぎ去っていった。

 問題は波乱を含んだままだったが、この問題を落着させたのは、世界の国の経済的、法律的、文化的利益等を調停により均平化するAIである『ILMAI(イルマイ:International Law Mediation AI)』の国際共有運用を各国が承認したからだ。なお、エネルギーや資源については経済的価値に内包されるらしい。

もちろん、国際法の原点の「国を超える法律は無い」はそのままなので、その調停を破棄してしまえば、条約には何の効力も無いことは歴史的に何も変わっていないのだが、このAIが人の知能を超えた総合調整力を持っていることを加盟国が認めたことと、数千ケースの政治的決断のシミュレーションにおいて、AIが下すほとんどの調停に各国の政府が納得のいく回答を得ることができたことで話は動いた。

 国連参加国の内の数か国に国際連合地球人登録機構の事務所ができて、受け入れ態勢が整い始めたのはようやく今年からとなった。日本国は一番乗りで、機構ビルの建築も早々と始まっていた。国際舞台では、これまでなんでもかんでもアメリカ合衆国の顔色をみていた日本国であるが、なぜかこの法律にだけは、成立過程でも最初から積極的で、運用も円滑に進んだと言える。日本と言う国は独自の文化を築いており、強いナショナリズムを持っているように思えたが、案外根っこは深くなかったということなのだろうか。この一番乗りは少し恥ずかしいような気もする。一つ良かった点と言えば、これを機に同盟国の役割の見直しに繋がった事かもしれない。

国際法が議論され始めた8年前は、検討中の問題が多く、条約の骨格も不確かなことも多かったが、新聞に初めて『地球人』の考え方が掲載された朝の妻との会話はよく覚えている。

「これって、多数国への同時帰化ができるってことなの」

と妻が問って来たのが始まりだ。

「国籍って一つじゃないと、税金どうなるんだよ」

 僕は疑問を返した。

「いやいや、もっと大事なことがあるんじゃない。選挙権はどうなるの」

「選挙権が二つも三つもあるってことはないから、これは国籍を変えるんじゃなくて、たぶん永住権の複数取得のことでしょ」

「いや、それは今でもできるはずよね」

 夫婦で表面的なことの質疑応答をしているが、二人の心のザワザワはそんな所には無かった。

 ようやく、妻がズバッと一番大事なところを突いてきた。

「将来日本人でいても良い老後にならないってか」

 この時、私たち夫婦は同い年の32歳だった。子供は未だいなかったが、両方の両親から責め立てられていて、そろそろだろうなぁとも思っていた頃だった。言わば、人生の岐路としての責任ある家族の時代に入りかけた矢先だった

 ぼくは呟くように言った。

「日本、やっぱだめか?」更にぼそぼそと、

「物価も高いし、暮らし難いよな。テレワーク環境も充実してきたし、子供の教育のことも考えて、田舎へ引っ越すことも考えられるけど、日本の大都市集中の政策は変わっていないので、地方は地方でたいへんか。毎年発生する気候変動による大災害も、割を食うのはいつも地方か。日本脱出で、社会保障の充実した北欧の村とかかぁ」

 43年に南海トラフで発生した愛知県東部沖地震で甚大な被害の出た静岡県沿岸の復興も東日本大震災の時と比べると復興への歩みは極端に遅いように思える。

「それなら、永住権の許可だけでいいじゃない。『地球人』って言うのがきっと肝なのよ」

「そうか『地球人』か」

 なんだか遠くに目がいってしまった。その先にはたこ足の宇宙人がぼやっと浮かんで見えた。

 情報も不確かで、新聞の扱いも一面ではあったが小さかったので、その時は、なんだかそんな取り留めのない会話のまま、自分たち夫婦には関係ないと言うことで途切れてしまった。

 それから、毎月一回程度は新聞やニュースで、国連での議論が掲載され、たまにテレビの特番やニュース特集で取り上げられ、1年ほど経つとようやく全容が見え始めた。

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