第二ボタン

苟且(仮ペンネーム)

第二ボタン

「鈴。お母さんね、卒業式で好きな人から第二ボタンをもらったのよ」


 母は楽しそうに微笑みながら話していたけれど、私はフウンと肩をすくめてみせた。だけど、なぜか胸の奥が少しざわついた。


 それを隠すようにして、私は急いで自分の部屋に戻る。


 窓越しに丘の桜の木を見た。雪解けが進み、もうつぼみが一斉に花開く準備をしている。


 足元にすり寄ってきた猫のトムを抱え、頭をなでた。


 あの桜が満開になる頃、私と先輩は離れ離れになる。


 ◇


 卒業式がもう間近になったある朝、親友の愛と一緒に学校に向かっていた。私は何気なく母の話をしてみた。


「第二ボタン? そんな話あるんだ」


 愛の強い視線を感じ、話したことを少し後悔して私は目をそらした。


 その時、茶髪でブレザーを着た長身の男子生徒が、すぐそばで歩いていることに気がついた。先輩だった。胸が急激に高鳴る。目が離せなくなる。


「ふーん、翔先輩か、優等生の鈴がねえ」


 いつの間にか愛がそばによってきてイタズラっぽく笑っていた。


 翔先輩は色々と悪い噂が絶えない人だった。だから、真面目で恋愛なんか程遠いような私が、彼を密かに思っていることを知って面白かったのだろう。


 からかわれるのが嫌で、あわてて「違うから」と言いかけて私は息を呑んだ。


 1人の髪の長い女生徒が先輩に飛びついて腕を組んだのだ。その瞬間、淡い朝の光が真っ暗に反転した。


「あの子、翔先輩の彼女って噂の子ね」愛の声がすごく遠いところから響いた。


 ◇


 それは、春風みたいな恋だった。


 一年前の春、私は子猫だったトムを連れて桜の木の下に来ていた。その時、トムが私の手をすり抜け、桜の木に駆け上がってしまった。


 揺れる枝に驚いて身をすくめているトムを助けようと、私は必死に周りにいた大人たちに声をかけまわった。でも、誰も見て見ぬふりをしていた。私が絶望の中にいた時、彼が現れたのだ。


 ブレザーを脱いで私に放り投げると、腕まくりをして木に登り始める。ハラハラして見ている私たちをよそに、彼はあっさりとトムを捕まえた。


 でも、トムを助けてくれたのが翔先輩だと分かり、彼が近づいてきた時に私は身をすくめてしまった。翔先輩の怖い人だから近づいてはダメだと言われていたからだ。


 でも、身動きできず、ただ見上げている私に、彼は強面の顔を綻ばせて、


「大切にしろよ」


 と言ってトムを渡してくれた。受け取ったトムはなんだかあったかくて、私の心の中に彼の優しさまで届いた気がした。


 あの時、喉から出かかったお礼の一言が言えなかった。その後、何度も先輩を見かけたけど、いつも言葉は形にならず私の中で消えていった。


 ◇


 卒業式の日、皆は一様に泣いたり、抱き合ったり写メを取り合っていた。私は周囲を見回して、翔先輩の姿を探す。


「もう最後なんだからね」


 校庭で桜が満開の中、愛は私の背中を叩いてこう言った。


「居たっ」


 愛が指差した先に、背の高い翔先輩の背中が見えた。彼は他の同級生とは話をせずに、まっすぐこの場を立ち去ろうとしていた。


 ——せめて、最後にお礼の一言だけ。


 それだけを思って、私は先輩に向かって一直線に走っていった。


「翔先輩」


 思ったよりも大きな声が出た。翔先輩はびっくりしてこちらを向いた。気がつくと彼の隣には彼女がいた。


 その途端、私の中からまた言葉が消えそうになった。息が苦しい、胸が締め付けられそう。


 でも私は勇気を振り絞りこう叫んだ。


「第二ボタンをください」


 自分の中から思いがけない言葉が出た。失敗した。なんて私はバカなんだろう。ちゃんとあの時のお礼を言うはずだったのに、あの時のお礼を言う最後のチャンスだったのに……


 先輩は少し驚いた顔をしていたけど、すぐに第二ボタンを引きちぎり、私の手の中に置いた。


「大切にしろよ」


 翔先輩は、あの時のような笑顔を見せて彼女と立ち去っていった。


 ◇


 その夜、私は第二ボタンを持って桜の所に来た。


 桜の木は先輩に出会った時みたいに静かに佇んで、私を見下ろしている。


 手のひらのボタンは、あの日のトムのように暖かかった。


「大切にしろよ」


 先輩の声が胸の奥で響いている。知らぬ間に涙がいく筋も頬をつたって落ちていく。


——終わったんだ。これで全部終わったんだ。


 するとその時、一陣の強い風が巻き上がり、私を攫う。


 舞い散る桜の花びらは空一面に広がり、やがて霞んで消えていった。


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