第4話
滞在が終わり、王都にあるクロックフォード家の小さなタウンハウスに戻ってからも、私は心ここにあらずの日々を過ごしていた。
大好きな読書をしても、内容が頭に入ってこない。
何をしても、ライオネル様の影が浮かんでしまう。
「……駄目だわ。全然集中できない……」
私はため息をつき、読みかけの本を閉じた。
「今日は気分を変えて、外で読書しましょう」
狭い庭に出て、ガーデンチェアに座り、再び本を開く。
すると。
「エレシア嬢」
何度も思い返していたあの声。
顔を上げると、生け垣の外の歩道から、背の高いライオネル様の顔がひょこっと見えている。
「ライオネル様!?」
夢でも見ているのだろうか?
どうしてここに彼が……?
しかも、長身とはいえ、あんな高い位置に頭があったかしら?
「たまたま馬で通りかかったんだが、ちょうど君の顔が見えたから」
「あっ……騎乗されているのですね」
どうりで巨人のように見えたわけだ。
そういえば生け垣の向こうから、蹄の音と馬の息遣いが聞こえる。
「会えてよかった。アサートン卿のカントリーハウスでは騎士団の急務が入って、誰にも挨拶をせずに慌ただしく帰ってしまったから」
「そうだったのですか……でも、お仕事なら仕方ありません」
「礼儀知らずだと思われてないかな?」
「ほんの少しだけです」
顔を見合わせ、くすっと笑い合う。
カントリーハウスで一緒にすごした、あの居心地のいい時間が戻ってくるようだった。
少し迷ってから、私は勇気を出して、ライオネル様を見上げた。
「あの……立ち話もなんですので、もしよろしければ、こちらでお座りになりませんか?」
言ったとたん、顔が赤くなる。
私ったら、騎士団長様になんて身のほど知らずなお誘いを……しかも、こんなに狭い庭に!
「喜んで」
「そうですよね、お忙しいですよね……ええっ!?」
私が驚いている内に、彼は颯爽と馬を駆り、わが家の敷地に入った。
精悍な黒馬からひらりと飛び降り、慌てて屋敷の中から飛び出してきた使用人に手綱を預けると、私の方へ大股に歩いてくる。
自然に目が奪われてしまう。
なんて素敵なんだろう。
今日は騎士服を身につけていて、それが眩しいくらいに似合っている。
ライオネル様はガーデンテーブルを挟んだ、私の向かいの席に座った。
見慣れたうちの庭に、彼と二人で座っているなんて、まるで夢の中にいるようだ。
「いきなりお邪魔して大丈夫だったかな?」
「は、はい。ちょうど、読書に集中できずにいたところだったので……」
「どうして?」
「いえ、あの……ちょっと、考え事をしていて」
まさか、あなたのことを考えていて何も手につかなかった、とは言えない。
ライオネル様は生真面目に答えた。
「そうか。集中できないときは体を動かすといい。外を走ったり、筋肉を鍛えたり……そうすれば、頭がすっきりする」
ぽかんとする私を見て、彼はあわてた。
「いや、ご令嬢にするアドバイスではなかったな……つい、騎士たちに指導するような調子で言ってしまった」
「……いいえ。先日読んだ本にも、適度な運動は作業効率を上げると書いてありました。ドレスでは走りにくいですが、これからは、集中できないときには散歩に行くことにします」
にっこり笑って言うと、ライオネル様も笑顔になった。
それからしばらくお喋りをしていたら、突然、屋敷の中から母が大声で叫んだ。
「エレシアー、雨が降りそうだから、外に干してある私のショールを取り込んでおいてちょうだい!」
ライオネル様が驚いた顔をする。
私は羞恥で消えてしまいたくなった。
もちろん貧乏なわが家にも侍女はいるけれど、人数を極限まで削っているので、いつも家で本ばかり読んでいる私は、しょっちゅう母から雑用を言いつけられていた。
うちの庭に騎士団長様がいるとは夢にも思わない母は、いつも通り、大声で私に洗濯物の取り込みを頼んだのだった。
「…………すみません、ちょっと失礼します」
赤い顔で腰を浮かしかけた私を、ライオネル様が手で制した。
彼は立ち上がると、高い木の枝に干してある母のショールを、台も使わずに軽々と取った。
そして屋敷の方へ歩いて、テラスに顔を出して目をまん丸に見開いている私の母に、優雅に「どうぞ」と手渡した。
「えっ……えっ……? く、黒獅子騎士団の、団長様……!? ええええっ!!??」
気の毒なほどうろたえていた母が、ライオネル様が帰ったあと、私を質問攻めにしたのは言うまでもない。
***
それから何度か、ライオネル様はうちの屋敷を訪ねてくれた。
忙しい騎士団長の彼は、王都の巡回後や仕事の空き時間などに、事前の約束などは無しに突然訪れ、私とお喋りをして帰って行く。
一度などは、手にピンクのバラの花束を持ってやって来た。
「友人に会いに行くと言ったら、家の者がぜひこれを持っていけとうるさくて……迷惑でなければ、受け取ってほしい」
「め、迷惑なんて、とんでもないです。ありがとうございます」
少し照れた顔のライオネル様から、花束を受け取る。
とてもかわいらしく爽やかな、たくさんのピンクのバラの花。
見ているだけで幸せな気分になった。
喜ぶ私を、ライオネル様は碧色の目を細めて見つめていた。
花束もさることながら、私は彼から「友人」と言ってもらったことに、心が浮き立っていた。
これまで一度も恋愛経験のない地味な私が、こんなに素敵な男性の友人になれた。
ただ話が合うというだけで、本当に、友人以上の意味はないのだろう。
けれど、それでよかった。
夢は見ないと決めているから。
ライオネル様に「友人」と言ってもらえただけで、私のささやかな恋はもう、十分すぎるほど報われていたのだ。
けれど私の両親は、ライオネル様が私にプロポーズするものと思い込んでしまい、
「いつ婚約するのか」
「向こうの両親は何と言っているのか」
「持参金はいくら持たせればいいのか」
「新居はどこにするのか」
などと、しなくてもいい心配をしてあわてふためいていた。
ところが秋が近づき、ある噂が社交界を席巻すると。
私に気を遣ってか、両親がライオネル様の話をすることはぱったりとなくなった。
それは、ついにライオネル・ブラッドバーン氏とコートニー・メイスン嬢の婚約が決まった、という噂だった。
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