危急存亡の春(3/5)

 また夢の中だ…


 これは先ほどの続きなのか、実はもう観ていた夢の回想なのか…ふわふわと思考では判断ができない。


 またマズローを名乗った男がこちらを凝視している。だから誰だよ…


 いや…待てよ。マズロー?思い返せば、何処かで聞いたことがあるような気がする。しかし、記憶の引き出しをいくら漁ったとて、名前以上の情報が見つからない。顔を見てもサッパリだ。


『やはり知らぬか…ま、まあ仕方ない。いずれ学ぶことになるだろう…それよりも聞き給え。私はそなたに天啓を授ける』


 天啓、とはねぇ…随分と大層な位を自称するものだ。

 夢の中に登場するのは及第点だが、演出がまるでなってないな。

 天使なり死んだ親戚なりが出てくれれば何らかのお告げであると信じられるのだが、眼前に降臨したのは存在がうろ覚えなおっさん。神々しさの欠片も感じられず、聞きたい欲求をまるで満たしてくれない。人選ミスとしか思えないな。

 …これが夢なら、選んだのは僕の脳な訳なんだが。

 ま、つまりそういうことだ。僕は天啓とやらを聞かない。興味もない。従わない。

 馬の耳に念仏を唱えたほうが、よっぽど有意義な時間になるさ。


『むむ、強情な…だが、死人がこうして直接語りかけるんだ。神々しさはなくとも、不気味ではあるだろう?認知していない謎の死人からのメッセージ…好奇心の強いそなたがそれを無視するわけなかろう』


 む…痛いところを突くな。そう言葉で説明されると、確かに気になってきた。

 この引き込み方は、僕のことを少なからず理解している様子…

 耳を貸すくらいはしてもいいかもしれない。

 従うかどうかは後ほど判断すればいい。どうせ夢の中の出来事だしな。


『やっと聞く耳を持ってくれたか…では心して聴け。まず問うのは私だがな。「マズローの欲求段階説」というのは聞いたことがあるかね?』


 聞いたこと…というか何処かで読んだ記憶がうっすらとあるな。

 ピラミッドの中で、人間の欲求をいくつかの層に分けているやつだろ?

 上の方が偉いだとかそんな感じなことが書かれていた気がする。


『うむ。悪くない。では、その内約は分かるか?』


 …生理的欲求くらいしか思い浮かばないな。


『なるほど。君の生き方であれば、間違いなく満たされているであろう欲求だね』


 そうだな。これが欠乏しているとは全くもって思わない。


『だが、それ以外が殆ど満たされていない。私は断言できる。君は心から、自分が満たされていると断言できない、と!』


 …それはどういう根拠で?


『私の説がすべて説明している。君は孤独。どこにも属せず孤独で、愛を与えられず、他者からの承認も得られない。これらが満たされない限り、君は自身の持つ可能性や能力を完全に発揮できることはない』


 満たされてるさ。生理的欲求を満たして、僕は幸福だ。

 誰にも否定することはできない。


『欲求の器は、かなり深い。生理的欲求で満たせる量は限られている。人はすべての欲求をを叶えて初めて、満足できる量の欲求が満たされるんだ。君も、器が満たされず、空っぽであることは自覚しているんじゃないか?否定など、私がするまでもない。君自身がしているのだから』


 …悪いが、僕は人の感情が科学で解明できるほど単純とは思わない。行動科学だがなんだか知らないがクソ喰らえだな。


『ふっ…なら安心しろ。私の理論など、すでに多くの者から科学的信憑性がないと淘汰されている。信じるかどうかは、自分の胸に聞くといいさ』


 自分で「信憑性がない」と暴露したものを信じろと?


『そうだ。そして君は信じなくとも、心に留めることを知っている。何故なら…いや、皆まで言うことはないか』


 …なんか腹立つな。


『私のアドバイスはたった一つ。どう思ってくれても構わない。青年よ、友達を作りなさい。理由は、いずれ自分で知ることになるだろう。その答えがわかった時、君は人間としてさらに一段階、成長できると保証する。では、さらばだ』


 あ、まておっさん!何勝手に満足して消えてんだ!


 ………どんなに呼んでも、彼がいた場所にはもう何もなかった。


 ただの虚無になっている。まるで………………のようだな。

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