第4話 可能性
薄暗い通路を抜けると、そこはまるで異世界のような空間だった。
アレンの足下にはつや消しの黒い床石が敷かれ、壁には奇妙な文様が鎖のようにつらなっている。それは古代錬金術の象徴か、あるいは魔力を循環させる仕掛けなのか――いずれにせよ、現代の工房では見たことがない複雑な模様だった。
ぽつり、と天井から落ちた水滴が広い床に響く。奥へ進むと、部屋の中心には円形の台座が鎮座していた。錆びた鍍金装飾があちこち剥がれ、見苦しいほどに経年劣化が進んでいるが、その中心には透明なドーム状のガラスが残され、中に何かが浮遊しているように見える。
「なんだ、あれは……?」
アレンは息を呑む。
ドームの中、淡い光を帯びた小さな書物……そう、本のような物体が宙に浮いていた。しかも、ページが自ら捲られているかのように、ふわふわと揺らめいている。魔力の奔流を感じる。微かな甘い芳香、まるで新緑と香辛料を混ぜたような特異な匂いが鼻腔を刺激する。
近寄って観察すると、その本は古代文字でびっしりと記されていた。一見すると読めない文字列だが、視線を注ぐと不思議なことに頭の中で翻訳されるような感覚が生まれる。
「これは……『アルカナ・グリモワール』……?」
頭の中に、そう囁く声が響いた気がした。文字を追えば、古代の錬金術師たちが理論と秘法を綴った究極の書物だと分かる。すべての元素、鉱石、薬草、魔力粒子を自在に組み替え、新たなる物質や現象を創出する、伝説級の錬金術理論書。この世界で半ば神話扱いされている存在に類する代物かもしれない。
「はは……笑わせる。こんな都合のいい宝が……」
アレンは乾いた笑いを漏らす。追放され、泥に塗れ、ゴーレムを倒してここまで来た。その果てに、“理想的な錬金術師の夢”が詰まった本が待っているとは、あまりにも出来すぎている。
だが、本能が叫ぶ。この書を手に入れれば、もう誰にも踏みにじられない。生産と創造で大陸を牛耳り、嘲笑した者どもをすべて下僕にできる。勇者パーティー、あの裏切り者どもを黙らせ、頭を垂れさせられる。
拳を握り、震える手をドームの表面へ伸ばす。指先が触れた途端、ドームは柔らかな光を放ち、消え失せた。空気に溶けるように消滅し、本は直接アレンの目の前に漂う。
「俺は、もう負け犬じゃない……」
唇を噛み、心中で誓う。アレンはそっと両手を差し出し、浮かぶ書物を掴もうとする。その瞬間、本から放たれた光が彼の瞳孔を焼くように一瞬だけ閃いた。激痛はない。むしろ温かい液体が脳髄に注がれるような奇妙な感覚。記憶が拡張され、未知の知識が流れ込んでくるような気配がする。
「くっ……!」
思わず片膝を突く。古代の理論、法則、配合式、魔力変換の秘法――ありとあらゆる錬金術の真髄が、頭の中へ流れ込む。まるで大河が枯れ井戸に注ぎ込まれるかのような濃密な情報量。頭痛が閃き、鼓動が速まる。
「耐えろ……これは俺の力になる!」
必死に踏ん張る。目を閉じて深呼吸。黄金のフラスコ、七色の蒸留器、空気中の魔素を精製する工程、古代植物の幻影、隕鉄を溶解し神器を練成する方法――頭の中に、無数の錬金レシピや方程式が刻まれていく。
やがて、光が弱まり、アレンは息を整える。
本は静かにアレンの手中に収まっていた。装飾された表紙、滑らかな手触り……信じられないが、本当に手に入れたのだ。
「これで……俺は自由だ。いや、俺はこの世界を創り変えられる。」
笑みが零れる。今まで隠れていた獣が、ようやく解き放たれたような感覚。
「待っていろ、王都の連中……勇者リオネルたち……貴様らが馬鹿にした錬金術師が、どんな未来を築くか、その目で見るがいい!」
その時、部屋の隅で何かが揺れた。目を向けると、今まで気づかなかった小さな箱が置かれている。銀色の金属製で、上には“素材ボックス”らしき古代文字が彫られていた。アレンは慎重に近づき、蓋を開ける。
中には奇妙な球体がいくつか収まっていた。琥珀色の液体が内包され、指先ほどの大きさのそれは、触れるとぷにぷにと弾力がある。「魔力凝縮カプセル」――頭に直接知識が浮かぶ。これを錬成器に落とし込めば、ほぼ無限に近い素材組成を生成できるらしい。いわば万能の原料。グリモワールの理論を活用すれば、大陸のどんな資源でも再現可能ということだ。
「はは、最高じゃないか……!」
興奮で胸が熱くなる。追放され、見下された地味職が、今や世界を支配しかねない錬金の秘宝を手にした。これさえあれば、荒野を肥沃な農地に変え、魔物を従える魔法装置を作り、最強の武具を量産し、医療や福祉を発展させ、どんな国よりも豊かな地を築ける。
その想像は止まらない。
今はたった一人。だが、やがては人々が集まるだろう。いま王都や各国では魔王軍の脅威、資源不足、貴族の横暴が苦しみを生んでいる。そんな中、アレンは錬金術の奇跡で豊かさと平和をもたらすことができる。もちろん、裏切った者たちには相応の条件を突きつけ、あの傲慢な勇者一行は鼻っ柱を折られ土下座するだろう。
「さっさとここを出るか」
アレンは思考をまとめる。古代工房から回収できるものは多いが、とりあえずはグリモワールと魔力カプセルが最優先だ。あとは後日来て徹底的に漁ればいい。基盤を築くまでには時間が要るが、この知識があれば短期間で飛躍的な内政整備が可能だ。
戻ろう。辺境の荒野へ。一度は死地と思ったこの場所が、今やアレンにとっての始まりの地。幸い、近くに水脈を探知する錬成術ができるはずだし、土壌を改良して農作物を育てるのも容易だ。
人が集まるには信頼と安定が必要だが、素材さえ無限に錬成できるなら、飢えも病も十分防げる。闇の商人たちがやってきても、こっちには圧倒的な生産力がある。拠点を砦化し、魔物対策を怠らなければ、自然と人は寄ってくる。最初は難民や流民でもいい、彼らは必死だから協力的だ。
そうやって徐々に領地を拡大すれば、やがて王国も無視できない存在になる。従来の社会秩序を壊し、新たな秩序を作り出せばいい。
「お前らが俺を追放したこと、後悔させてやる」
悔しさと期待が入り混じった声が遺跡の空気を震わせる。
アレンはグリモワールを懐に収め、回廊を引き返す。崩れた工房跡を通り抜け、ゴーレムが転がる前室を経て、地上へと出るための階段へ向かう。さっきまで追い詰められた哀れな錬金術師はもういない。いま歩いているのは、世界を塗り替える力を手にした男だ。
地上へ出たとき、陽光が目に突き刺さる。砂嵐が吹き荒れる荒野は相変わらず殺風景だが、アレンには違って見える。ここは単なる不毛の土地ではない。
「ここからすべてが始まる」
アレンは呟く。
まずは水源を作ろう。グリモワールの記述によれば、空気中の魔素を圧縮して浄化水を生み出すことも可能だ。地中深くに封じられた地下水脈を錬成で引き上げることもできるはず。肥沃な土を錬成し、種子を複製し、あっという間に農場ができる。材料が足りなければ魔力カプセルを分解再構築し、好きな素材を得られる。
そして、わずかな建材から堅牢な住居を増やし、盗賊程度なら簡単に排除できる守りを築く。鎧や武器を錬成すれば、即席の自衛組織も作れる。
考えれば考えるほど可能性は無限大だ。
「『錬金王国』とでも呼ぶべきか……」
アレンは自嘲気味に笑う。ほんの少し前まで、名もなき下働きの錬金術師だった自分が、そんな大それたことを口にしている。だが、誰が笑おうと関係ない。もう怖いものはない。
辺境を歩き始める。
その足取りは数時間前とは違い、確かな自信を宿していた。ひび割れた唇には微かに笑みが浮かび、茶色く乾いた大地を踏みしめる度に、心の中で新たな計画が次々と生まれる。
王都へ戻る日はまだ先だが、必ず戻る。はいつくばって「助けてくれ」と勇者が懇願する姿を想像してみる。
「愉快だな。さあ、俺の時代が始まるんだ……」
烈風が乱舞する荒野を進むアレン。次の瞬間、小さな奇跡を試してみようと、懐のグリモワールを開く。光る文字が脳内で翻訳され、錬金レシピが指先に震えるように溢れ出す。
彼は辺境の一角に立ち止まり、腕を掲げる。魔力を巡らせ、カプセルを錬成陣へとかざす。目を閉じ、思い描くのは、澄んだ水が溜まる泉と豊穣な土壌。
淡い光が集まり、さざ波が大地を揺らす。乾いた土がしっとりと湿り気を帯び、瞬時に小さな水溜まりが生成される。それはやがて湧き水へと転じていく……。
「できる……!」
アレンは歓喜に拳を握る。わずかな時間で、彼は水場を生み出した。荒野が新たな息を吹き返し、緑を宿す準備を整え始める。
この一歩から、理想郷が形を成すのだ。
追放という屈辱がなければ、こんな力には辿り着けなかったかもしれない。世の皮肉だ。しかし、もう過去はどうでもいい。屈服するのは、これからあちら側の連中の役目だ。
古代工房の秘宝を懐に秘め、地味職と嘲られた錬金術師。今はまだ、その序章に過ぎない。
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