第5話

諏実はしばらく波の感触を楽しんだ後、再び海岸に戻ると、静かにレジャーシートをたたみ始めた。砂に座ったままで何時間も過ごしていたわけではないけれど、気づけば時間が経っていた。その間、風はずっとやさしく吹き、波の音は絶え間なく耳に届いていた。


彼女はシートを丸めてバッグにしまい、コンロやコーヒー道具も丁寧に片付ける。コーヒーの香りが薄れていき、今はもう空気の中に溶け込んでしまっているようだ。持ち帰るべきものをすべて整え、バッグを肩に掛けると、少しだけ振り返って、再び海の広がりを見渡す。


「ありがとう。」


小さく呟くと、諏実はしばらくその場所に立ち尽くしていたが、やがて自転車に戻り、ペダルを軽く踏み込んだ。自転車のサドルに腰をおろし、ゆっくりと前輪を海岸沿いの道に進める。少しばかり汗をかいていた体が、風を受けて心地よく冷やされていく。海風は思った以上にさっぱりとして、少しひんやりとしていた。


海岸沿いの歩道は整備されていて、自転車も走りやすい。道幅が広く、左右には砂浜が広がり、遠くには波が寄せては返している。諏実は風を感じながら、ペダルを漕ぐスピードを少し上げてみた。軽いギアを選んで、さっと風を切ると、心地よい爽快感が全身に広がる。海を横目に見ながら、道を進むと、ちょうど海の香りが風に乗って彼女の顔に触れる。


「気持ちいいな…」


ふと呟いた言葉が風に溶けて消えていく。諏実は少しだけ顔を上げ、海と空が織りなす広大な景色を見つめた。海の青さ、空の青さ、どこまでも続く道。その先に、帰る家が待っている。


ここまで来て、また帰る。その繰り返しが、何だか不思議な安心感を与えてくれる。日常に戻るような気がして、少しだけほっとした。


しばらく走っていると、海岸沿いの道が少し曲がり、住宅街に入っていく。道路の脇に並ぶ家々の屋根が見え、少しだけ静かな街並みが現れる。海の音が遠くなり、風の音も少し穏やかになる。諏実はペダルを漕ぐリズムを保ちながら、少しずつ速度を落としていった。


やがて自転車を止めると、諏実は肩からバッグを下ろし、家の車庫庭に軽く乗り上げた。家が近いことを感じて、胸の中にあたたかな気持ちが広がる。


「ただいま。」


自分に向かって、そう言ってみた。海で過ごしたあの時間が、ほんの少しだけ心の中で光を放っているような気がした。これからまた家で過ごす時間が待っている。どこか穏やかで、少し特別な感じがする一日の終わりだった。

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